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第七話 逆恨み

第七話 逆恨み


 春の雨が降っていた。


 灰色の空から落ちる水滴が、フォルディア伯爵邸の窓を絶え間なく叩いている。庭の薔薇は手入れされぬまま萎れ、噴水には濁った水が溜まっていた。


 かつて人で溢れていた屋敷は、今や異様な静けさに包まれている。


 いや。


 正確には、静かではない。


 怒鳴り声だけが響いていた。


「だから何故契約が切られる!」


 応接間で、カイルが机を叩いた。


 ばん、と乾いた音。


 向かいに立つ執事は顔色を失っている。


「南部交易組合までです! 昨日付けで全契約停止の通達が……!」


「理由を聞いたか!」


「“今後の信頼関係を再考する”とのことです」


「またそれか!」


 カイルは書類を掴み、暖炉へ投げつけた。


 火の粉が散る。


 紙が焦げる臭いが部屋へ広がった。


 その臭いに混じって、微かに黴の匂いがする。


 換気がされていないのだ。


 以前ならエレナが朝ごと窓を開け、薬草香を焚いていた。湿気を逃がし、空気を整えていた。


 今は違う。


 部屋に溜まるのは酒臭さと焦燥だけだった。


「カイル様ぁ……」


 隅でミレイユが涙声を上げる。


「今月の衣装代がまだ――」


「黙れ!」


 怒鳴られ、ミレイユがびくりと肩を震わせた。


「お前は金の話しかしないな!」


「だ、だって……!」


「少しは役に立て!」


 その言葉に、ミレイユの顔が歪む。


「私ばっかり責めないでくださいませ!」


「なんだと?」


「こんなことになるなんて思わなかったんですもの!」


 カイルは鼻で笑った。


「誰のせいだと思っている」


「……え?」


「全部、エレナのせいだ」


 部屋が静まり返る。


 執事がゆっくり顔を上げた。


 だがカイルは止まらなかった。


「あいつが裏で手を回したんだ」


「旦那様……」


「でなければ説明がつかん!」


 机を叩く。


 インク壺が倒れ、黒い染みが書類へ広がった。


「商人も、薬草農家も、医師組合も、一斉に離れるなど異常だ!」


「ですが、それは……」


「エレナが煽ったに決まっている!」


 執事は口を閉ざした。


 違う。


 本当は皆分かっている。


 エレナは誰かを煽るような人ではない。


 ただ、彼女が消えた途端、繋がりが消えただけだ。


 だが今のカイルには届かない。


 彼はもう、自分の失敗を直視できなくなっていた。


 その時だった。


 廊下の奥で、ばたばたと足音が響く。


「旦那様!」


 若い使用人が駆け込んできた。


「どうした!」


「西棟の金庫が……空です!」


「は?」


「夜のうちに、使用人が数人逃げたようで……」


 ミレイユが悲鳴を上げる。


「また!?」


「宝石もありません! 銀食器も一部……!」


 カイルは拳を握り締めた。


 爪が掌へ食い込む。


 怒りで頭が熱い。


 だが、それ以上に恐ろしかった。


 崩れている。


 確実に。


 少し前まで順調だった伯爵家が、音もなく沈み始めている。


 しかも誰も助けない。


 商会も。

 貴族も。

 使用人ですら。


「……何故だ」


 カイルは低く呟いた。


「何故こうなる」


 返事はない。


 窓の外では雨が降り続けている。


 その時。


 ふと視界の端に、空になった花瓶が映った。


 以前はそこに薬草花が飾られていた。


 ミント。

 ラベンダー。

 銀月花。


 エレナが季節ごとに替えていた花。


 カイルは眉を寄せる。


 思い出したくもないのに、最近やけに思い出す。


 茶の香り。

 穏やかな声。

 夜会で自然と人が集まっていた光景。


 そして。


 誰かが笑っていた記憶。


 今の屋敷には、もうないものだった。


「……旦那様」


 執事が恐る恐る口を開く。


「ルヴァイン王国から情報が」


「なんだ」


「エレナ様が、王宮へ召し上げられたとの噂です」


 空気が止まった。


「王宮?」


「はい。薬草茶師として王太子殿下に重用されていると……」


 ミレイユが目を丸くする。


「薬草茶師?」


「そんなものが王宮で役に立つわけ――」


 言いかけた瞬間。


 カイルの脳裏に、港で聞いた言葉が蘇る。


 “エレナ様の繋がりだった”


 ぞわり、と嫌な感覚が背筋を這った。


「……王太子だと」


「外交席にも同席しているそうです」


「ふざけるな」


 カイルは立ち上がった。


 椅子が激しく倒れる。


「何故あいつがそんな場所にいる!」


「旦那様……?」


「あの女は俺の妻だぞ!」


 執事が顔を強張らせる。


「ですが、既に離縁は――」


「形式上の話だ!」


 カイルは怒鳴った。


「エレナは元々フォルディア家の女だ! 勝手に王宮へ囲い込まれてたまるか!」


 その言葉に、ミレイユの顔色が変わる。


「え……」


「旦那様、それはどういう……」


「黙っていろ!」


 カイルは乱暴に外套を掴んだ。


 雨風が窓を叩く。


 部屋の中は暗い。


 火の弱まった暖炉からは、冷えた灰の匂いしかしなかった。


「あいつを連れ戻す」


「は?」


 執事が呆然とする。


「ルヴァインへ行く」


「し、しかし……!」


「王太子だろうが何だろうが関係ない!」


 カイルの瞳は濁っていた。


 焦燥。

 怒り。

 恐怖。


 全部が混ざり、歪んでいる。


「あいつが戻れば全部元に戻る」


「旦那様……」


「元々、あいつは俺のものだったんだ」


 その瞬間。


 執事は初めて理解した。


 この人は、何も分かっていないのだと。


 エレナが何をしていたのか。

 何を支えていたのか。


 何ひとつ。


 ただ“自分の所有物”だと思っていた。


 だから失った。


 全部。


 外では雨が降り続けている。


 春なのに冷たい雨だった。


 まるで、崩れていく屋敷を静かに腐らせるように。



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