第六話 王宮薬草茶室
第六話 王宮薬草茶室
ルヴァイン王宮には、“音の静かな部屋”がある。
王城東棟の最奥。
磨かれた白石の廊下を進んだ先にある、小さな薬草茶室だった。
大きな広間ではない。
豪奢な黄金装飾もない。
だが扉を開けた瞬間、空気が変わる。
柔らかな薬草の香り。
静かに湯の沸く音。
陽射しに透ける乾燥花。
まるで春そのものを閉じ込めたような部屋だった。
「……素敵」
エレナは思わず呟いた。
窓辺には乾燥ミントが吊るされ、棚には薬草瓶が整然と並んでいる。白いカモミール、紫のラベンダー、銀色の葉を持つ銀月花。
どれも丁寧に管理されていた。
「気に入ったか」
背後から声がする。
振り返ると、アルヴェイン王太子が立っていた。
黒の礼装姿のまま、静かにこちらを見ている。
「はい」
エレナは小さく微笑んだ。
「とても大切にされている茶室ですね」
「以前は、亡き母が使っていた」
アルヴェインは窓辺へ視線を向けた。
「身体の弱い人だった。薬草茶を好んでいてな」
エレナは静かに目を伏せる。
棚の並び方だけで分かる。
この部屋は“使われていた”。
見せるためではなく、本当に誰かを気遣うために。
「ここを、君に任せたい」
エレナは驚いて顔を上げた。
「私に……ですか?」
「君以上に適任が思いつかない」
アルヴェインは淡々と告げる。
「王宮専属薬草茶師として迎えたい」
胸が熱くなった。
薬草遊び。
無価値。
茶飲み友達。
あの夜、笑われた言葉が脳裏を過ぎる。
けれど今、この国では違う。
ここでは誰も笑わない。
「……よろしくお願いいたします」
エレナは深く頭を下げた。
その日から、王宮薬草茶室には再び香りが戻った。
朝は眠気を払うローズマリー。
昼は胃を整えるフェンネル。
夜は緊張を和らげるカモミール。
侍女たちは目を丸くした。
「最近、王宮の空気が柔らかいわ」
「分かる。前より皆ぴりぴりしてない」
「昨日なんて、厨房長と近衛隊長が喧嘩しなかったのよ」
「奇跡じゃない?」
くすくすと笑い声が広がる。
エレナは茶器を磨きながら、小さく笑った。
香りは空気を変える。
それは決して大げさな話ではない。
張り詰めた場所では呼吸が浅くなる。
浅い呼吸は、人を苛立たせる。
だから少しだけ香りを足す。
それだけで、人はほんの少し優しくなれるのだ。
数日後。
王宮では重要な外交会談が予定されていた。
西部同盟国の使節団と、北方領の軍事代表。
元々仲が悪いことで有名な両者だ。
「今日の会談、荒れるぞ」
廊下で近衛騎士たちが囁いている。
「北方側が関税引き上げに反対してるらしい」
「また怒鳴り合いか……」
エレナは茶葉を選びながら耳を傾けていた。
西部使節は長旅続きで疲労気味。
北方側は寒冷地育ちで刺激物を好む。
なら。
彼女は静かに薬草を混ぜ始めた。
ミントを少し。
胃を温めるフェンネル。
そして緊張を和らげる銀月花を、ごく微量。
香りは柔らかく。
だが眠くなりすぎないように。
外交では“落ち着き”が必要だ。
会談室。
空気は最初から険悪だった。
「そちらの要求は一方的すぎる」
「ならば北方側は物流停止も検討する」
「脅しか?」
「事実だ」
低い声が飛び交う。
机を叩く音。
苛立った吐息。
部屋全体が尖っていた。
エレナは静かに茶を配る。
「失礼いたします」
誰も彼女を見ない。
だが香りだけは、ゆっくり空気へ溶けていった。
西部使節の一人が眉をひそめる。
「……なんだ、この香り」
「薬草茶です」
エレナは穏やかに答えた。
「長時間の会談向けに調えております」
「変わった香りだな」
「銀月花を少し」
男は一口飲んだ。
その瞬間、険しかった眉がわずかに緩む。
「……悪くない」
向かいの北方代表も渋々茶器を取る。
ごくり、と飲み込む音。
沈黙。
そして。
「……喉が楽になるな」
「乾燥対策です」
「ほう」
空気が、少しだけ変わった。
怒気が薄れる。
言葉の棘が丸くなる。
それまで睨み合っていた男たちが、少しずつ“会話”を始めていた。
「物流停止は双方に損だ」
「なら関税幅を限定するか?」
「期間付きなら検討できる」
エレナは静かに茶を注ぎ足す。
湯気が立ち昇る。
銀月花の柔らかな香りが、張り詰めた空気を解いていく。
その時だった。
ふと、エレナの手が止まる。
違和感。
微かな匂いだった。
甘い。
だが不自然に甘い。
エレナの瞳が細くなる。
これは。
彼女は素早く卓上の茶器へ視線を走らせた。
一つだけ香りが違う。
銀月花の香りに混じって、鈍い甘さがある。
痺れ草。
微量なら眠気を誘う程度だが、会談中に使えば判断力を鈍らせる。
エレナは即座に動いた。
「申し訳ございません」
北方代表の前へ進み出る。
「茶が冷めております。こちらをお取り替えいたします」
自然な動作だった。
誰も怪しまない。
だがアルヴェインだけは気づいていた。
灰青色の瞳が静かに細められる。
会談後。
夕暮れの茶室には橙色の光が差していた。
エレナは一人、茶器を洗っている。
その背後で扉が開いた。
「見事だった」
アルヴェインだった。
エレナは振り返る。
「お気づきでしたか」
「痺れ草だな」
「はい。微量でしたが」
「毒見役でも見落としただろう」
王太子は棚へ手を伸ばし、乾燥銀月花を指先で触れた。
「君は香りだけで察知したのか」
「少し、甘すぎました」
「……恐ろしい才能だ」
だがその声音には恐れより感嘆があった。
エレナは苦笑する。
「昔は“薬草遊び”と呼ばれていました」
その瞬間。
アルヴェインの表情が僅かに険しくなった。
「愚かだな」
「え?」
「君を軽んじた者は、自分が何を捨てたか理解していない」
静かな声だった。
けれど不思議と胸へ深く落ちる。
王太子は窓の外を見た。
夕暮れの王宮には、穏やかな風が吹いている。
「君は茶を淹れているだけではない」
彼はゆっくり言った。
「国の空気を整えているんだ」
エレナは息を呑んだ。
誰にも言われたことのない言葉だった。
湯気が静かに揺れる。
その向こうで、アルヴェインはほんの少しだけ笑っていた。




