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第五話 崩壊の春

第五話 崩壊の春


 春が来ても、フォルディア伯爵邸に花は咲かなかった。


 雪解け水が石畳を濡らし、庭には淡い陽射しが差している。それなのに屋敷の中は冬より冷え切っていた。


 朝から怒鳴り声が響いている。


「何故まだ届かない!」


 応接間で、カイルが机を叩いた。


 ばん、と鈍い音が鳴り、書類が散らばる。


 向かいに立つ執事は、蒼白な顔で頭を下げた。


「申し訳ございません……港湾側から、本日は荷揚げできないと」


「またか!」


 カイルの額に青筋が浮かぶ。


「三日連続だぞ!」


「そ、それが……香草商会の船が、全て入港を取りやめたようで……」


「香草商会だと?」


 カイルは鼻で笑った。


「たかが薬草屋だろう」


 だが執事は顔を上げない。


「香草類だけではありません。茶葉商も、香油商も、南部薬種組合も……次々に契約停止を」


 空気が重く沈んだ。


 窓の外では、小鳥が鳴いている。


 春なのに。


 その声だけが妙に遠かった。


「理由はなんだ」


「明確な返答は……」


「言え!」


 怒鳴り声に執事が肩を震わせる。


「“現在、フォルディア家との取引は控えさせていただく”と……」


 カイルは唇を歪めた。


「ふざけるな」


 その時、ばたばたと足音が響いた。


 ミレイユだった。


 顔色を変え、ドレスの裾を掴みながら飛び込んでくる。


「カイル様、大変です!」


「今度はなんだ!」


「東棟の使用人がまた辞めましたわ!」


「は?」


「料理人も! 洗濯係も! 今朝だけで四人も!」


 カイルは呆れたように笑った。


「代わりを雇え」


「それが来ないんですもの!」


 ミレイユの声が裏返る。


「求人を出しても誰も来ないんです!」


 執事が低く呟いた。


「……最近、使用人の間で噂が広がっております」


「噂?」


「“フォルディア家はもう危ない”と」


 沈黙。


 暖炉には火が入っていない。


 以前は春先でもエレナが香油を焚き、湿気を飛ばしていた。だが今は、閉め切った部屋に古い酒と埃の匂いが溜まっている。


 息苦しい。


 まるで腐り始めた箱の中にいるようだった。


「馬鹿馬鹿しい」


 カイルは吐き捨てる。


「たかが女一人消えただけで、何が変わる」


 しかし、その声には微かな焦りが滲んでいた。


 その日の午後。


 カイルは港へ向かった。


 海風はまだ冷たい。


 潮と魚の匂いが混じる埠頭は、本来なら春の交易で賑わっているはずだった。


 だが。


「……少ない」


 思わず呟く。


 船が、ない。


 いや、正確にはフォルディア家の紋章旗を掲げた船だけが浮いていた。


 周囲の商船は離れた場所へ停泊し、誰もこちらへ近寄ろうとしない。


「旦那様」


 港管理人が恐る恐る近づいてくる。


「本日予定されていた積荷ですが……」


「どこだ」


「それが……」


 管理人は視線を逸らした。


「香草商会側から、契約破棄の申し出が」


「は?」


「茶葉商組合も同様です」


 カイルの眉間が歪む。


「理由は」


「“今後の関係を見直したい”とのことです」


「見直すだと?」


 その時だった。


 近くで荷を運んでいた商人たちの会話が耳に入る。


「聞いたか? 銀葉薬草園も取引切ったらしいぞ」


「ああ。医師組合まで動いたって話だ」


「そりゃそうだろ。エレナ様を追い出したんだから」


 カイルの足が止まる。


「……今、何と言った?」


 商人たちがぎくりと振り返った。


「あ、いや……」


「答えろ」


 低い声だった。


 商人の一人が恐る恐る口を開く。


「フォルディア家の薬草流通は、元々エレナ様の繋がりだったって話です」


「馬鹿な」


「南部薬草農家も、茶葉商も、医師組合も、皆エレナ様経由だったと……」


「あり得ん!」


 カイルは怒鳴った。


「女一人にそんな力があるものか!」


 だが商人たちは黙り込む。


 代わりに、気まずそうな沈黙だけが残った。


 海鳥の鳴き声が響く。


 遠くで波が砕ける。


 その時だった。


 カイルの脳裏に、ある光景が浮かんだ。


 夜会で談笑するエレナ。

 温室で薬草を摘む姿。

 商人たちと穏やかに話す横顔。


 あれは、本当に“遊び”だったのか?


「……まさか」


 喉が乾く。


 冷たい風が頬を撫でた。


「あいつが……流通を握っていた?」


 誰も答えない。


 だが、その沈黙が答えだった。


 夕方。


 カイルが屋敷へ戻ると、中は異様な騒ぎになっていた。


「どこへ行った!?」


「金庫番がいません!」


「帳簿も一部なくなっております!」


 使用人たちが走り回っている。


 ミレイユは半泣きだった。


「カイル様ぁ……!」


「なんだ今度は!」


「宝石箱がないんです!」


「は?」


「私の首飾りが! あと銀器も!」


 カイルは顔をしかめた。


「盗まれたのか」


「使用人が逃げたんです! 絶対そうです!」


 その時、執事が青ざめた顔で入ってくる。


「旦那様……」


「なんだ」


「借入金の返済催促が届いております」


「借入?」


「先月の港湾拡張工事費と、新規温室解体費用、それから春季交易用の前金が……」


「そんなもの後回しにしろ!」


「ですが、既に三商会が支払い停止を――」


「黙れ!!」


 怒声が響く。


 ミレイユがびくりと肩を震わせた。


 カイルは乱暴に帳簿を奪い取る。


 数字を見た瞬間、血の気が引いた。


 赤字。


 赤字。


 赤字。


 春の利益が、ほとんど消えている。


「……なんだこれは」


 声が掠れる。


「何故こんなことになっている」


 執事は苦しそうに目を伏せた。


「今まで、薬草・茶葉・香油関係の取引利益で他部門の損失を補填しておりましたので……」


「補填?」


「はい」


「誰が管理していた」


 執事は答えなかった。


 答える必要がなかったからだ。


 カイルの脳裏に、またエレナの姿が浮かぶ。


 静かに茶を淹れる横顔。


 薬草庫で帳簿を書く指先。


 商人たちと穏やかに笑っていた夜。


 あれ全部が。


 全部。


「……嘘だろ」


 呟いた瞬間だった。


 廊下の奥で、扉が閉まる音がした。


 また一人、使用人が逃げたのだ。


 広い屋敷に、静寂だけが広がっていく。


 かつて人で満ちていた伯爵邸は、今や空洞みたいだった。


 香りもない。

 笑い声もない。


 残っているのは、冷えた空気と焦げた怒声だけだった。



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