第四話 静かに消える招待状
第四話 静かに消える招待状
フォルディア伯爵邸から、香りが消えた。
それに最初に気づいたのは、長年厨房を任されている料理長のバルドだった。
「……なんか、変だな」
朝。
焼き立てのパンの香ばしい匂いが漂う厨房で、彼は眉をひそめた。
いつもなら、この時間には薬草茶の湯気が廊下まで流れている。ミントの青い香り。柑橘を乾燥させた甘酸っぱい匂い。眠気を和らげるローズマリー。
それが今日はない。
空気が重い。
湿った灰みたいに、どんよりしている。
「気のせいじゃありませんよ」
皿を拭いていた下働きの娘が小声で言った。
「今朝、薬草庫の鍵、全部撤去されてました」
「は?」
「ミレイユ様が『もう必要ない』って……」
バルドは顔をしかめた。
「馬鹿な」
その時だった。
甲高い声が食堂の方から響く。
「ちょっと! なんでこんなに苦いの!?」
ミレイユだった。
使用人たちがぎくりと肩を揺らす。
彼女は朝食用の紅茶を乱暴に卓へ置いた。
「こんなの飲めないわ!」
「も、申し訳ございません……!」
給仕係の少女が慌てて頭を下げる。
「以前は奥様が茶葉を調えておりましたので……」
「だから何?」
ミレイユは苛立った顔で言い放つ。
「ただ茶を淹れるだけでしょう? そんなの誰でもできるわ」
バルドは思わず視線を逸らした。
違う。
誰でもできるわけじゃない。
エレナは相手の体調や気分、食事内容まで見て茶葉を変えていた。朝は覚醒を促す配合、夜会前は胃を落ち着かせる香り。商談がある日は緊張を和らげる茶を出していた。
だから客が機嫌よく帰った。
だから揉め事が減った。
だが、それを説明できる者はもう屋敷にいなかった。
「新しい茶葉を買えばいいじゃない」
ミレイユは吐き捨てるように言った。
「安いやつで十分よ」
その言葉に、古参の侍女たちが小さく顔を見合わせる。
だが誰も口を挟まない。
最近、この屋敷では“黙る”者が増えていた。
数日後。
応接間には重苦しい空気が漂っていた。
カイルは机を指で叩きながら、苛立った顔で執事を睨む。
「まだ来ないのか」
「……はい」
「約束の時間は過ぎているぞ」
「南方商会より連絡がありまして……本日は急用で来られないと」
「またか」
カイルの声が低くなる。
机の上には未開封の書簡が積まれていた。
契約延期。
面会保留。
再調整希望。
どれも曖昧な文面ばかり。
「最近こればかりだな」
執事の額に汗が滲む。
「申し訳ございません」
「理由は?」
「それが……」
言い淀む執事へ、カイルは苛立たしげに舌打ちした。
「使えんな」
暖炉の火がぱちりと爆ぜる。
だが部屋は妙に寒かった。
以前なら、この時間にはほのかな香草の香りが漂っていた。エレナが客人に合わせて焚いていた香油だ。
ラベンダー。
柑橘。
白檀。
それらが空気の角を丸くしていた。
今はない。
残っているのは炭と酒の匂いだけだった。
重い。
息が詰まる。
「旦那様」
執事が恐る恐る口を開く。
「本日の夕食会ですが……」
「なんだ」
「参加予定だった東部商会の方々が、全員欠席を」
「は?」
カイルが顔を上げる。
「理由は」
「体調不良と……」
「そんなもの建前だろう!」
机を叩く音が響いた。
酒杯が倒れ、赤ワインが書類へ広がる。
執事は肩を震わせた。
「も、申し訳ございません……!」
カイルは荒々しく立ち上がる。
「何故だ。以前は向こうから擦り寄ってきたくせに」
その時、応接間の扉が勢いよく開いた。
ミレイユだった。
「カイル様!」
「なんだ」
「温室を壊した職人たちが追加料金を請求してきていますわ!」
「追加?」
「床下の設備が複雑だったとかで」
カイルは眉を寄せた。
「払っておけ」
「でも、予算が――」
「たかが温室だろう」
ミレイユは唇を尖らせる。
「それにしても変ですわね。最近みんな態度がおかしいんですもの」
「……どういう意味だ」
「昨日の夜会でもそうでしたわ。誰も長居しないし、会話も弾まないし」
彼女は不満げに続けた。
「お酒も料理も良かったのに」
カイルは黙り込んだ。
確かに最近、屋敷の空気がおかしい。
以前はもっと人が集まっていた。
商人たちは自然に情報を落とし、貴族たちは笑いながら次の取引を持ち込んでいた。
それが今はない。
皆、早く帰りたがる。
必要最低限しか話さない。
まるでこの屋敷を避けているように。
「……くだらん」
カイルは吐き捨てた。
「たまたまだ」
「そうですわよね!」
ミレイユはすぐ笑顔になる。
「だって、ただの薬草女がいなくなっただけですもの」
その言葉に、執事の顔が僅かに強張った。
だが口には出さない。
もう誰も、この屋敷で本音を言わなくなっていた。
さらに数日後。
古参使用人の一人が辞表を出した。
「辞めるだと?」
カイルは眉をひそめる。
「はい……母の介護が」
「急だな」
男は俯いたまま答えない。
本当の理由は別だった。
薬草管理をしていた使用人たちは皆知っている。
この屋敷はもう駄目だ、と。
エレナがいた頃、使用人たちは体調を崩しても必ず気づいてもらえた。咳をすれば薬湯が届き、疲れた顔をしていれば眠り用の茶が置かれていた。
今は違う。
怒声だけが増えた。
廊下から笑い声が消えた。
夜になると、屋敷全体が冷える。
人がいるのに、空っぽなのだ。
死んでいるみたいに。
その夜。
カイルは一人で食堂に座っていた。
長い卓。
並ぶ銀器。
豪華な料理。
だが、広すぎる。
静かすぎる。
「……茶は」
何気なく口にした言葉に、給仕係が戸惑う。
「はい?」
「食後の茶だ」
「ただいま」
しばらくして運ばれてきた紅茶を、カイルは一口飲んだ。
渋い。
妙に苦い。
思わず眉をしかめる。
「なんだこれは」
「申し訳ございません……!」
給仕係が青ざめる。
「以前の茶葉がもうなく……」
カイルは舌打ちし、乱暴にカップを置いた。
ちゃぷん、と冷えた音が響く。
その瞬間だった。
ふと、違和感が胸を掠めた。
この部屋は、こんなに寒かったか?
暖炉は燃えている。
料理も温かい。
なのに、妙に冷える。
まるで冬が部屋の中まで入り込んでいるようだった。
カイルは無意識に辺りを見回した。
香りがない。
何も。
薬草も。
花も。
茶も。
人の気配を和らげていたものが、何ひとつ残っていなかった。




