第三話 国境の香り
第三話 国境の香り
風が吠えていた。
白い雪煙が空を覆い、山脈沿いの国境道を容赦なく叩きつける。馬の嘶きも、荷車の軋みも、吹雪の音に呑まれて消えていった。
エレナは厚手の外套を掻き合わせながら、小さく息を吐く。
吐息はすぐ白く凍り、風に攫われた。
フォルディア伯爵邸を出て三日目。隣国へ向かう隊商へ同行させてもらっていたが、冬山越えは想像以上に厳しかった。
「くそ……っ、まだ国境門は見えねぇのか……!」
御者の男が怒鳴る。
馬たちの鼻息は荒く、荷車を引く脚も重い。積荷を覆う布には雪が厚く積もり、兵士たちの頬は赤黒く冷え切っていた。
「水を……」
「駄目だ、もう凍ってる」
「おい、しっかりしろ!」
隊列の後方で、一人の若い兵士が膝をついた。
がちゃん、と槍が雪へ落ちる。
顔色が悪い。唇も青い。
疲労だけではない。寒気と脱水、そして空腹。限界が近いのだと、エレナはすぐ理解した。
彼女は荷袋を抱え直した。
「少し、火を起こしてください」
「はぁ!?」
隊商長が振り返る。
「こんな吹雪の中でか!? 立ち止まれば余計に凍えるぞ!」
「このまま進めば倒れる方が増えます」
エレナは静かに答えた。
「今なら、まだ間に合います」
隊商長は苛立った顔をしたが、倒れた兵士を見て舌打ちした。
「……五分だぞ!」
兵士たちが慌ただしく荷を下ろし、風避け用の布を張る。火打石の音が響き、ようやく小さな炎が上がった。
ぱちぱちと薪が爆ぜる。
その微かな熱だけで、人々の顔に安堵が浮かんだ。
エレナは膝をつき、荷袋から小さな茶缶を取り出した。
乾燥薬草の香りがふわりと漂う。
「……何してるんだ?」
若い兵士が震える声で尋ねる。
「薬草茶です」
「こんな時に茶ぁ?」
別の男が呆れたように笑った。
「酒の方が効くだろ」
「今、強い酒を入れると余計に身体が疲れます」
エレナは湯へ薬草を落としながら答える。
「ミントで呼吸を楽にして、フェンネルで身体を温めます。少しだけ蜂蜜も」
湯気が立ち昇る。
冷え切った空気の中で、その香りだけが不思議なほど柔らかかった。
青葉の清涼感。
甘い草花の匂い。
雪原に春が紛れ込んだような香りだった。
兵士たちが思わず顔を上げる。
「……いい匂いだな」
「だろ?」
エレナは小さく笑った。
「香りは呼吸を落ち着かせます。焦りすぎると、余計に体力を使ってしまうので」
やがて茶が出来上がる。
エレナは木椀へ注ぎ、一人ずつ配っていった。
「熱いので、ゆっくり」
兵士たちは恐る恐る口をつける。
次の瞬間。
「……っ」
誰かが息を呑んだ。
凍えて強張っていた身体へ、熱がじわりと広がっていく。荒れていた呼吸が少しずつ落ち着き、強ばっていた胃が緩む。
「なんだこれ……」
「美味ぇ……」
「酒より効くぞ……」
若い兵士が涙目になりながら呟いた。
「生き返る……」
エレナは静かに息を吐いた。
よかった。
ちゃんと効いている。
その時だった。
吹雪の向こうから馬蹄の音が響いた。
兵士たちが一斉に顔を上げる。
「誰だ!?」
白煙を裂くように現れたのは、黒馬に跨った騎士たちだった。深緑の外套には銀糸の紋章。隣国ルヴァイン王国の近衛騎士団。
その中央に、一人の男がいた。
漆黒の髪。
灰青色の瞳。
雪を纏った外套を翻しながら、静かにこちらを見下ろしている。
不思議な存在感だった。
声を荒げるわけでもない。
威圧しているわけでもない。
それなのに、その場の空気が自然と整う。
「……ルヴァイン王太子殿下」
隊商長が慌てて膝をついた。
周囲がざわめく。
エレナも驚いて顔を上げた。
王太子アルヴェイン。
隣国で“静寂の王子”と呼ばれる人物だ。
彼は馬を降りると、焚火の傍へ近づいた。
雪を踏む音だけが静かに響く。
そしてふと、空気の匂いを嗅ぐように目を細めた。
「……この香り」
低い声だった。
エレナの指先がぴくりと震える。
王太子は焚火の上の茶器を見つめる。
「銀月花を使ったのか?」
エレナは息を呑んだ。
兵士たちがぽかんと口を開ける。
「ぎ、銀月花?」
「なんだそれ」
だがアルヴェインの視線はエレナから逸れない。
「珍しい調合だ。普通ならミントを強く出す。だが君は銀月花で香りを丸めている」
風が吹き抜ける。
雪が王太子の黒髪へ散った。
エレナは驚きを隠せなかった。
銀月花は非常に繊細な薬草だ。香りが弱く、調合に埋もれやすい。気づく者など滅多にいない。
「……お分かりになるのですね」
「昔、王宮薬師が使っていた」
アルヴェインは静かに答えた。
「だが扱いが難しく、今はほとんど廃れている」
彼は兵士の持つ木椀を受け取った。
一口飲む。
灰青色の瞳がわずかに細められた。
「なるほど」
「……お口に合いませんでしたか」
「逆だ」
王太子は小さく笑った。
「驚いた。香りだけで呼吸を整え、フェンネルで内側を温めている。しかも銀月花で疲労による苛立ちを抑えているな」
隊商長が目を丸くする。
「そ、そんなことまで分かるんですか?」
「分かる者には分かる」
アルヴェインはそう言って、再びエレナを見る。
その視線は不思議だった。
値踏みでもない。
嘲笑でもない。
初めてだった。
薬草を“遊び”ではなく、“技術”として見られたのは。
「君、名前は?」
エレナはほんの少し迷った。
フォルディア伯爵夫人では、もうない。
胸の奥が痛む。
けれど、吹雪の向こうに見える空は、どこまでも白かった。
まるで、新しい頁みたいに。
「……エレナです」
「姓は?」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
雪が静かに舞う。
エレナは銀月花の鉢を抱き直し、小さく微笑んだ。
「今は、まだありません」
王太子はその答えに目を細めた。
だが何も聞かなかった。
代わりに彼は、焚火の傍へ腰を下ろす。
「なら、せめて茶をもう一杯いただこう」
その声は穏やかだった。
吹雪の夜とは思えないほど。




