第二話 燃やされた温室
第二話 燃やされた温室
朝の空気は、刺すように冷たかった。
離縁が決まった翌朝、フォルディア伯爵邸は異様な静けさに包まれていた。いつもなら使用人たちの足音や、厨房から漂う焼き立てのパンの香りが広がる時間だというのに、今日は誰もが声を潜めている。
昨夜の夜会で何が起きたのか、皆知っているのだ。
エレナは自室の窓を開け、小さく息を吐いた。
白い。
庭も、噴水も、温室へ続く石畳も、うっすらと雪を被っていた。
指先が冷える。
けれど、それ以上に胸の奥が静かだった。
泣きたいはずなのに、不思議と涙は出ない。
ただ、何かが終わった音だけが、身体の奥でずっと響いている。
「奥様……」
背後で、侍女のマリアが震える声を出した。
「本当に、お発ちになるのですか」
「ええ」
「ですが、旦那様はあんな……!」
言葉を飲み込み、マリアは唇を噛む。
エレナは振り返り、静かに微笑んだ。
「怒ってくれてありがとう」
「奥様……っ」
「大丈夫よ」
本当は大丈夫ではない。
けれど、ここで感情を零せば、きっとマリアまで泣いてしまう。
だからエレナはいつもの声で続けた。
「荷物は少しだけでいいわ。服も最低限で」
「ですが、薬草庫の資料は……!」
「置いていきます」
「そんな……!」
マリアの顔が青ざめる。
薬草庫には、十年以上かけて書き溜めた調合記録がある。どの茶葉を何度蒸らせば香りが柔らかくなるか。誰がどの香りを好み、どの季節に体調を崩しやすいか。港町で流行した咳病に効いた配合まで、全て記してある。
エレナは目を伏せた。
「もう、フォルディア家のものですから」
その時だった。
廊下の向こうから、高い笑い声が響いた。
「まあ、ここが噂の温室?」
ミレイユだった。
真紅のドレスに毛皮の肩掛け。朝だというのに濃い香油の匂いを漂わせ、数人の使用人を引き連れて歩いてくる。
エレナを見るなり、彼女はわざとらしく目を丸くした。
「あら。まだいらしたのね」
「本日中には出ますので」
「そうしてくださると助かりますわ。新しい家具を入れたいの」
くすくす、とミレイユは笑った。
そのまま彼女は温室の扉を開ける。
途端に、湿った土の匂いと薬草の香りが溢れ出した。
冬でも温室の中だけは春だった。
吊るされた乾燥ハーブ。
棚に並ぶ薬草瓶。
朝露を纏うミント。
小さな白花を揺らすカモミール。
陽光を浴びた葉が、硝子越しにきらきら輝いている。
ミレイユは中へ入り、顔をしかめた。
「……変な匂い」
エレナの胸が微かに痛む。
ここは、彼女が嫁いできてから少しずつ作り上げた場所だった。
枯れかけていた土地を耕し、薬草を育て、温度を調整し、土を替えた。眠れない使用人に茶を淹れ、風邪を引いた料理人に薬草粥を作った。
この温室は、彼女にとってただの趣味ではない。
生きてきた時間そのものだった。
だがミレイユは棚を見回し、鼻で笑った。
「雑草ばかりじゃない」
使用人たちの顔が強張る。
マリアが思わず声を上げた。
「雑草ではありません! それは銀月花です! 王都でも滅多に手に入らない――」
「銀月花?」
ミレイユは白い花を指先で摘み、興味なさそうに眺めた。
「こんな地味な花が?」
「おやめください!」
マリアが青ざめて駆け寄る。
だがミレイユは花を放り捨てた。
「ふぅん。くだらない」
ぱきり、と細い茎が折れる。
その小さな音が、妙に大きく響いた。
エレナは唇を噛んだ。
拾いたい。
抱き上げたい。
でも動けなかった。
「ねえ」
ミレイユは振り返り、使用人たちへ命じた。
「この温室、全部片付けてちょうだい」
一瞬、誰も動かなかった。
「聞こえなかった?」
「ですが、お嬢様……!」
「旦那様のご命令よ」
ミレイユはにっこり笑う。
「薬草遊びはもう必要ないんですって」
エレナの背中が冷える。
その言葉は、昨夜カイルが笑いながら言ったものと同じだった。
「茶葉も処分して。棚もいらないわね。こんな陰気な場所、解体してサロンにした方が素敵だもの」
「解体……」
老庭師のロドニーが掠れた声を出した。
「この温室を、ですか」
「ええ」
「ですが、奥様が長年――」
「元、奥様でしょう?」
空気が凍った。
ミレイユは楽しそうに続ける。
「これからは私がこの家の女主人なの。古臭い薬草なんて必要ないわ」
ロドニーの拳が震えている。
マリアは泣きそうな顔でエレナを見た。
「奥様、何か仰ってください……!」
温室の中には、湿った土の匂いが満ちている。
柔らかなミント。
乾燥ラベンダー。
甘いカモミール。
どれも、エレナが好きだった香りだ。
ここで過ごした朝。
葉を摘んだ指先。
湯気の向こうで微笑んだ人々。
その記憶が、胸の奥で静かに痛んだ。
けれどエレナは、ゆっくり首を横に振った。
「……皆、従ってください」
「奥様!?」
「もう、私のものではありませんから」
マリアが息を呑む。
ロドニーは俯き、悔しそうに歯を食いしばった。
その時、使用人の一人が誤って棚へ肘をぶつけた。
薬草瓶が落ちる。
甲高い音を立てて硝子が砕け、乾燥葉が床へ散らばった。
ふわり、と香りが広がる。
眠りを助ける月光草だった。
エレナは一歩だけ前へ出かけた。
けれど、止まる。
もう守れない。
そう理解してしまったから。
「全部捨てて」
ミレイユが笑う。
「こんなもの、金にもならないんだから」
エレナは静かに棚へ近づいた。
そして隅に置かれていた小さな鉢植えを抱き上げる。
まだ若い銀月花だった。
雪のように白い花弁が、微かに震えている。
「……それだけは持っていくの?」
ミレイユが面白そうに尋ねる。
エレナは鉢を抱えたまま答えた。
「この子は、まだ弱いので」
「変なの」
笑い声が響く。
その後ろで、使用人たちが黙って薬草棚を片付け始めた。
乾いた葉の擦れる音。
割れた硝子を集める音。
鉢植えを運び出す音。
温室が壊れていく。
ゆっくりと。
静かに。
エレナは振り返らなかった。
振り返れば、きっと立ち止まってしまう。
だから銀月花の鉢だけを抱え、温室を後にする。
外へ出ると、冷たい風が頬を刺した。
雪はまだ降っていた。
白く。
冷たく。
まるで、何もかも覆い隠してしまうように。




