第一話 冷えた薬草茶
第一話 冷えた薬草茶
窓の外では雪が降っていた。
夜会用に磨かれた大広間の硝子窓へ、白い粒が静かに張り付き、すぐに溶けて消えていく。暖炉には赤々と火が灯り、甘い蜂蜜酒の香りと焼き菓子の匂いが混じり合っていたが、それでも冬の冷気は床を這うように広間へ忍び込んでいた。
エレナは銀盆を抱えたまま、そっと視線を巡らせた。
誰が疲れているのか。
誰が苛立っているのか。
誰と誰の会話が止まりかけているのか。
音楽より先に、人の空気が耳に入る。
「……胃が痛い」
低く漏れた呟きに、エレナはすぐ反応した。
声の主は南方商会の会長、グレゴールだった。大柄な男だが、今は青白い顔で腹を押さえている。向かいには輸送組合の代表が座っていたが、険しい顔のまま杯を傾けるだけで、会話は完全に止まっていた。
まずいわね、とエレナは思った。
この二人が決裂すれば、冬季輸送契約が流れる。そうなれば港の流通が止まり、領内の市場価格まで跳ね上がる。
だが、表情には出さない。
「グレゴール様」
エレナは柔らかく声をかけた。
「少し、こちらをお試しになりますか?」
銀盆の上には白磁の茶器。薄く立ち昇る湯気と共に、青葉にも似た清涼な香りが漂う。
商会長は眉を寄せた。
「薬草茶か?」
「はい。消化を助けるペパーミントと、胃を温めるフェンネルを少し。長旅の後にはよく効きます」
「……薬臭くないだろうな」
周囲から小さな笑いが漏れる。
だがエレナは穏やかに微笑んだ。
「蜂蜜を少し入れております。冬向けに飲みやすく調えてありますので」
グレゴールは半信半疑のまま茶器を受け取った。
一口飲む。
その瞬間、強張っていた男の肩がわずかに落ちた。
「……ほう」
温かな湯気が頬を撫でる。鼻へ抜ける爽やかな香りが重たい酒気を和らげ、胃の奥にじんわり熱が広がっていく。
「これは悪くない」
「お気に召していただけたなら何よりです」
輸送組合の代表が興味深そうに覗き込んだ。
「何を入れているんだ?」
「少量の乾燥林檎も。香りを柔らかくするためです」
「なるほどな。うちの妻も胃を悪くしやすくてな」
空気が変わった。
止まっていた会話がゆっくり動き出す。先ほどまで険悪だった二人が、今は港湾税について穏やかに言葉を交わしていた。
エレナは小さく息を吐いた。
よかった。
今夜も無事に流れを繋げられた。
だが、その時だった。
「ははは! 相変わらずだな、エレナは!」
響いた笑い声に、広間の空気がぴたりと止まった。
エレナは振り返る。
階段上に立っていたのは夫、カイル・フォルディア伯爵だった。
濃紺の礼装に金糸の刺繍。整った顔立ちには笑みが浮かんでいるが、その目は冷たい。
彼の隣には、鮮やかな紅色のドレスを纏った若い女が寄り添っていた。
女は勝ち誇ったように微笑んでいる。
「皆様、お聞きになりましたか?」
カイルはわざとらしく肩を竦めた。
「うちの妻は薬草遊びが趣味でしてね。茶飲み友達を作るのだけは得意なんですよ」
くすくす、と誰かが笑った。
エレナは銀盆を持つ指先に力を込めた。
だが俯かない。
ただ静かに夫を見つめた。
「カイル様」
「いや、褒めているんだ。実際、こうして茶を配って歩く姿は板についている」
彼は広間を見回しながら続ける。
「だが貴族の妻に必要なのは、利益だ。社交ごっこではない」
その言葉に、商人たちの顔色がわずかに変わった。
グレゴールが眉をひそめる。
だがカイルは気づかない。
隣の女の腰を抱き寄せ、愉快そうに笑った。
「紹介しよう。ミレイユだ」
女が艶やかに礼をする。
「初めまして。これからよろしくお願いいたしますわ」
その声音には、すでに勝者の余裕が滲んでいた。
エレナの胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
暖炉の火は赤い。
室内は暖かい。
それなのに、指先だけが凍えそうだった。
「エレナ」
カイルは懐から一枚の封書を取り出した。
「お前とは離縁する」
広間が静まり返る。
楽団の演奏まで止まった。
雪の降る音さえ聞こえそうな沈黙の中、カイルだけが満足そうに笑っていた。
「これからは“利益になる女”を伯爵夫人に置くことにした」
エレナは封書を見下ろした。
白い紙。
赤い封蝋。
そこに押された伯爵家の紋章が、やけに冷たく見える。
「……承知いたしました」
自分でも驚くほど静かな声だった。
ミレイユが拍子抜けしたように目を瞬く。
「まあ、随分あっさりしていますのね」
「騒ぐ理由がありませんので」
「強がりではなくて?」
エレナは答えなかった。
代わりに、テーブルへ視線を落とす。
先ほど淹れた薬草茶。
薄い湯気は、もう消えかけていた。
冷めてしまったのだ。
ほんの少し目を離しただけで。
「おい、エレナ」
グレゴールが低い声を出した。
「本気か、伯爵」
カイルは鼻で笑う。
「もちろんだ。商売に必要なのは数字であって、香草ではない」
「……そうか」
商会長はそれ以上何も言わなかった。
だが、その目は冷えていた。
エレナはその視線に気づいたが、口には出さない。
今ここで何を言っても無意味だ。
理解されないものを、無理に差し出す必要はない。
エレナは銀盆を静かに使用人へ渡した。
「失礼いたします」
長年歩いた大広間。
磨き上げられた床。
燭台の灯り。
花の香油。
遠くで鳴る雪混じりの風。
そのすべてが、急によそよそしく感じた。
背後ではまだカイルの笑い声が聞こえる。
「まったく、薬草遊びしか能のない女でな――」
エレナは足を止めなかった。
ただ一度だけ、自分の指先へ残る香りを確かめる。
ミント。
カモミール。
フェンネル。
積み重ねてきた時間の匂いだった。
廊下へ出ると、冷たい空気が頬を撫でた。
窓の外では雪が降り続けている。
白く、静かに。
まるで何かを埋めていくように。




