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第17話 最後の嘆願

第17話 最後の嘆願


 王都には重たい曇り空が広がっていた。


 春の終わりだというのに風は冷たく、王宮へ続く石畳には細かな霧雨が降っている。


 カイル・フォルディアは王宮正門の前で立ち止まった。


 以前なら顔を見せるだけで通された門だ。


 だが今は違う。


 衛兵たちは露骨に警戒の目を向けている。


「フォルディア伯爵。本日はどのようなご用件で」


 形式だけは丁寧な声だった。


 だがそこに敬意はない。


 カイルは唇を噛む。


「王宮薬草茶師エレナ・フォルディア……いや、エレナに会いたい」


 衛兵たちの空気が微かに変わった。


 憐れみと、警戒。


 その視線が、今の自分の立場を突きつけてくる。


 フォルディア伯爵家は終わりかけていた。


 借財。

 契約破棄。

 港湾停止。


 ついに王宮監査まで入った。


 領地経営能力不足による爵位剥奪。


 その言葉が現実味を帯び始めている。


 カイルは拳を握った。


 全部、エレナがいなくなってからだ。


 そう思った瞬間、胸の奥に苦いものが広がる。


 違う。


 本当は気づいている。


 自分が壊したのだ。


 だが認めれば、何もかも自分の責任になる。


 しばらくして衛兵が戻ってきた。


「茶室にてお待ちです」


 カイルは息を呑む。


 会ってくれる。


 それだけで胸の奥に浅ましい希望が灯った。


 まだ間に合うかもしれない。


 エレナなら。


 あの女なら。


 王宮の人脈も、

 薬草商会も、

 全部戻せる。


 彼女は元々、自分の妻だったのだから。


 王宮の回廊を歩く。


 静かだった。


 磨き上げられた床。

 窓から差し込む淡い光。

 遠くで鳴る噴水の音。


 そして微かに漂う薬草の香り。


 その匂いを嗅いだ瞬間、胸が痛んだ。


 懐かしい。


 昔、自分の屋敷にもこの香りがあった。


 疲れて帰れば、自然に茶が出てきた。

 夜会では人が笑っていた。

 誰も声を荒げなかった。


 全部、当たり前だと思っていた。


 茶室の扉の前で、カイルは立ち止まる。


 指先が震えた。


 そして扉が開く。


 暖かな空気が流れてきた。


 薬草茶室。


 柔らかな灯り。

 静かな暖炉。

 乾燥薬草の甘い香り。


 その中央に、エレナがいた。


 淡い灰青色のドレス。

 長い髪を緩く結い、静かに茶器を整えている。


 変わらない。


 いや、違う。


 以前よりずっと穏やかだった。


 フォルディア家にいた頃の彼女は、いつもどこか張りつめていた。


 今は違う。


 肩の力が抜けている。


 その事実が、カイルの胸を妙に締めつけた。


 エレナは静かに顔を上げた。


「お久しぶりです、カイル様」


 他人行儀な呼び方だった。


 カイルは喉を鳴らす。


「……ああ」


 言葉が続かない。


 何を言うつもりだったのか、自分でも分からなくなる。


 エレナは静かに茶を淹れ始めた。


 湯気が立ち上る。


 落ち着く香り。


 昔、自分が好んでいた茶だと気づき、カイルの胸が痛んだ。


「覚えていたのか」


「カイル様は胃が弱かったので」


 穏やかな返答。


 責める響きはない。


 それが逆につらかった。


 カイルは椅子へ腰を下ろした。


 茶器が小さく鳴る音だけが響く。


 やがて差し出された茶を見つめ、カイルは掠れた声を出した。


「……屋敷が駄目になった」


 エレナは何も言わない。


「商会も離れた。使用人も辞めた。港も止まった」


 カイルは拳を握る。


「何故だと思う?」


 返事はない。


 だが静かな瞳が、続きを促していた。


「全部、お前がやっていたんだな」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が焼けるように苦しくなった。


「温室で記録帳を見た」


 エレナの指先がぴくりと止まる。


「お前、あんなことまでしていたのか」


「……」


「何故言わなかった」


 声が震える。


「言えばよかっただろう! お前が必要だと! お前がいなければ成り立たないと!」


 怒鳴るつもりだった。


 だが出てきた声は、情けないほど弱かった。


 エレナはしばらく黙っていた。


 暖炉の火が小さく揺れる。


 そして彼女は静かに口を開いた。


「言っていました」


 カイルは息を止めた。


「何度も」


 エレナの声は穏やかだった。


「薬草管理の必要性も。使用人教育も。茶会での調整も」


 彼女は小さく笑う。


「ですがカイル様は、いつも“利益にならない”と」


 記憶が蘇る。


『女の遊びだろう』

『趣味に金を使いすぎだ』

『結果だけ出せばいい』


 自分の声だ。


 カイルは顔を歪めた。


「……私は」


「カイル様」


 エレナが初めて真っ直ぐ彼を見る。


 静かな瞳だった。


 怒りも憎しみもない。


 ただ、終わっている目だった。


 その視線に、カイルは急に恐怖を覚える。


 取り返せない。


 本当に。


 もう。


 彼は思わず立ち上がった。


「戻ってくれ」


 掠れた声だった。


「エレナ……頼む」


 彼女の瞳が微かに揺れる。


 カイルは縋るように言葉を続けた。


「君がいないと駄目なんだ」


 沈黙。


 暖炉の火がぱちりと鳴る。


 エレナは静かに目を伏せた。


 その表情は悲しそうですらあった。


 だが次に顔を上げた時、その瞳には迷いがなかった。


「……カイル様」


 穏やかな声。


「あなたは、一度も“私”を見ませんでした」


 カイルの呼吸が止まる。


「茶会が成功しても。皆が笑っていても。使用人が安心して働いていても」


 エレナは静かに続ける。


「あなたが見ていたのは、“便利な妻”だけでした」


 胸が抉られる。


「違う……!」


「違いません」


 初めて、はっきりと言い切られた。


「あなたが必要としていたのは、私ではなく、“私が作る環境”です」


 カイルは言葉を失う。


 その通りだった。


 彼女自身を愛していたのではない。


 彼女がもたらす快適さと利益に依存していただけだ。


 エレナは小さく微笑んだ。


 どこか寂しそうに。


「ですが私は、もうあの場所へ戻りません」


 静かな決別だった。


 怒鳴り声もない。

 憎悪もない。


 だからこそ、残酷だった。


 カイルは立ち尽くす。


 もう縋る資格すらないのだと、ようやく理解した。


 その時、茶室の奥から扉の開く音がした。


「エレナ、書類を——」


 アルヴェインだった。


 彼はカイルを見ると、一瞬だけ目を細める。


 そして自然な動作でエレナの隣へ立った。


 それだけで分かった。


 ここに自分の居場所はない。


 エレナはもう、自分の知らない場所で、

 知らない顔で笑っている。


 カイルはゆっくり俯いた。


 薬草の香りが静かに漂う。


 昔、自分の屋敷にもあったはずの匂い。


 もう二度と戻らない香りだった。



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