第16話 雨夜の告白
第16話 雨夜の告白
雨が激しく窓を叩いていた。
王宮の薬草茶室は、普段なら夜更けまで灯りが絶えない。外交官、騎士、侍女、文官。誰かしらが疲れた顔で訪れ、茶を飲み、少しだけ表情を和らげて帰っていく。
だが今夜は違った。
春嵐。
城門近くの回廊まで雨水が吹き込み、衛兵たちは外套を押さえながら持ち場へ立っている。
こんな夜に茶室へ来る者はいない。
静かだった。
暖炉の火がぱちりと鳴る音と、雨音だけが空間を満たしている。
エレナは窓辺に立ち、曇った硝子越しに暗い庭園を見つめていた。
濡れた石畳。
揺れる木々。
風に散る白い花。
冷たい景色なのに、茶室の中は温かい。
薬草を乾燥させる甘い匂い。
煮出した柑橘葉の香り。
暖炉で温められた空気。
ここへ来てから、自分はようやく落ち着いて眠れるようになった、とエレナは思う。
ふと、背後で扉が開いた。
「まだ起きていたのか」
低く穏やかな声。
振り返ると、アルヴェインが立っていた。濡れた黒髪から雨粒が落ち、濃紺の外套は肩の辺りまでしっとりと色を変えている。
エレナは慌てて立ち上がった。
「殿下、お戻りだったのですね。すぐにお茶を」
「いや、今日は客として来たわけじゃない」
アルヴェインは少し疲れたように笑った。
「避難だ。この雨では執務室まで湿気臭くてかなわん」
そう言いながら暖炉の前へ歩いていく。
濡れた革靴が床を軽く鳴らした。
エレナは火鉢へ薬草を足した。
ふわり、と青い香りが広がる。
「薄荷を?」
「雨の日は空気が重くなりますから」
「確かに呼吸が楽になるな」
アルヴェインは椅子へ腰掛け、深く息を吐いた。
その横顔には疲労が滲んでいる。
最近、彼は忙しかった。
毒事件以降、各国の調整が続いているのだ。
エレナは湯を沸かしながら尋ねた。
「会談は順調ですか?」
「半分は順調、半分は面倒だ」
「半分も順調なら良い方では?」
「君の茶がなければ全部壊れていた」
さらりと言われ、エレナは困ったように目を伏せた。
「私は大したことは」
「またそれを言う」
アルヴェインが苦笑する。
「君は本当に、自分を低く見積もる癖があるな」
湯気が立ち上る。
エレナは静かに茶葉を蒸らした。
今日は眠前用の薬草茶だ。
神経を落ち着ける白香樹。
疲労を和らげる銀花草。
少しだけ蜂蜜。
雨音に合わせるように、茶器が小さく鳴る。
アルヴェインはその手元を眺めていた。
「不思議だな」
「何がです?」
「君の淹れる茶は、見ているだけで落ち着く」
エレナは少し笑った。
「そんなことはありません」
「ある」
即答だった。
暖炉の火が揺れる。
オレンジ色の光がアルヴェインの横顔を照らし、その眼差しを柔らかく見せていた。
エレナは視線を逸らす。
最近、彼と話していると落ち着かない。
優しいからだ。
ちゃんと見てくれるから。
それが怖い。
昔、自分は必要とされていると思っていた。
だが違った。
役に立つから置かれていただけだった。
だから今も時々、不安になる。
ここにいていいのだろうか、と。
エレナが茶を差し出すと、アルヴェインは受け取らずに彼女を見た。
「エレナ」
「はい」
「なぜ君は、誰に認められなくても続けられた?」
静かな声だった。
だがその問いは、まっすぐ胸へ届いた。
エレナは目を瞬かせる。
「……え?」
「フォルディア家の話は聞いている」
アルヴェインは視線を落とした。
「誰も君を評価しなかった。茶会も、薬草も、“女の遊び”と軽んじられていた」
雨音が強くなる。
窓硝子を叩く音が、やけに大きく聞こえた。
「それでも君は続けていた」
アルヴェインはゆっくり言葉を続ける。
「どうしてだ」
エレナはしばらく黙っていた。
暖炉の火を見つめる。
赤い炎が揺れている。
昔の温室を思い出した。
疲れた使用人。
眠れない貴族夫人。
胃を押さえる商人。
皆、苦しそうだった。
エレナは小さく笑った。
「……苦しそうな人を見るのが、昔から嫌だったのです」
アルヴェインは何も言わない。
エレナは続けた。
「お茶を飲んで少しでも楽になるなら、その方がいいと思っていました。怒っている人が落ち着くなら、その方がいいと」
彼女は指先を見つめた。
「だから続けていただけです。誰かに認められたかったわけではなくて」
ふ、と小さな笑い声がした。
アルヴェインだった。
「……君は国に向いている」
エレナは驚いて顔を上げる。
「国、ですか?」
「ああ」
彼は穏やかに微笑んだ。
「多くの為政者は、自分の利益を優先する。だが君は違う」
暖炉の火が静かに揺れる。
「人が穏やかに過ごせることを先に考える」
その声は低く優しかった。
「それは、国を治める者に最も必要な資質だ」
胸が熱くなる。
そんなことを言われたのは初めてだった。
エレナは慌てて目を伏せる。
「買いかぶりです」
「いや」
アルヴェインは立ち上がった。
「今日は私が淹れよう」
「え?」
「いつも君ばかりだろう」
彼は戸惑うエレナから茶器を受け取った。
「殿下、薬草の分量は」
「見て覚えた」
「そんな簡単なものでは」
「失敗したら笑ってくれ」
珍しく少し悪戯っぽい声だった。
エレナは思わず吹き出す。
「笑いません」
「では安心だな」
アルヴェインは真剣な顔で薬草を量り始めた。
不器用だった。
葉を少し落とし、湯量も危うい。
だがその姿を見ていると、胸の奥がじんわり温かくなる。
誰かが、自分のために何かをしてくれる。
ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。
やがて差し出された茶は、少し薄かった。
けれど香りは優しい。
エレナはそっと口をつけた。
ほんのり甘く、温かい。
「……美味しいです」
「慰めではなく?」
「本当に」
アルヴェインは少し安心したように笑った。
その笑顔を見た瞬間、エレナの胸がきゅうと締めつけられる。
外では激しい雨が降り続いている。
なのにこの部屋だけは、ひどく穏やかだった。
与えるだけだった自分が、
今、誰かに大切にされている。
その事実が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
暖炉の火が揺れ、薬草の香りが雨夜に溶けていった。




