第15話 焼け跡の温室
第15話 焼け跡の温室
風が冷たかった。
春だというのに、フォルディア伯爵領にはまだ冬の名残のような乾いた風が吹いている。
カイル・フォルディアは、馬車から降りると目の前の建物を見上げた。
旧温室。
かつてエレナが毎日のように通っていた場所だ。
今はもう売却が決まっている。
硝子は半分以上割れ、鉄骨には赤錆が浮いていた。風が吹くたび、外れかけた窓枠がぎい、と耳障りな音を立てる。
昔はここへ近づくだけで、薬草の香りがした。
薄荷。
柑橘葉。
銀月花。
甘く、青く、落ち着く匂い。
だが今は違う。
土埃と湿った木材の臭いしかしなかった。
カイルは眉をしかめた。
「……こんな場所に、金をかけていたのか」
後ろにいた老執事が小さく目を伏せる。
「奥様は毎日手入れをされておりました」
「無駄だな」
吐き捨てるように言ったが、声に以前ほどの勢いはない。
最近、何もかも上手くいかなかった。
商会は離れる。
借金は膨らむ。
使用人は辞める。
王宮との関係も完全に切れた。
しかも最近では、隣国の会談で王宮薬草茶師が活躍したという噂まで流れている。
その名を聞くたび、胸の奥がざらついた。
エレナ。
自分が捨てた女。
カイルは苛立ちを振り払うように温室へ足を踏み入れた。
ぱき、と乾いた枝を踏む音。
中は荒れ果てていた。
棚は倒れ、鉢植えは割れ、乾ききった土が床に散らばっている。
薬草は無残だった。
雑に引き抜かれた根が黒く腐り、乾燥棚には千切れた葉がまだ残っている。
まるで死体のようだ、とカイルは思った。
嫌な沈黙が温室を満たしている。
「……随分荒れたな」
老執事は答えない。
カイルは舌打ちした。
「温室を壊した程度で、どうしてここまで影響が出る」
返事の代わりに、風が吹いた。
割れた硝子窓から冷たい風が入り込み、乾いた薬草がかさりと揺れる。
その音に、妙な寂しさを感じた。
カイルは苛立ったように歩き出した。
すると、奥の棚の下に何かが落ちているのが見えた。
一冊の古い帳面。
茶色い革表紙は擦り切れ、端が少し濡れて波打っている。
「……何だこれは」
拾い上げる。
表紙には細い文字。
『栽培記録帳』
エレナの字だった。
懐かしい、と一瞬思ってしまい、カイルは眉をひそめる。
何故そんな感情が湧くのか分からなかった。
彼は適当に頁を開いた。
『南方商会長。胃痛悪化。酒量を減らす茶へ変更』
『西街道帰りの兵士。疲労強。眠前に白香樹を追加』
『侯爵夫人、不眠続く。夜会では薔薇香を避けること』
『料理長、咳あり。乾燥薬草室の湿度を上げる』
カイルの手が止まる。
細かい。
異常なほど。
何十頁にも渡って、びっしりと記録されていた。
誰が何を飲み、
誰が何を嫌い、
誰がどんな時に疲れた顔をするか。
まるで屋敷中の人間を観察していたようだった。
カイルは眉を寄せた。
「……こんなことまでしていたのか」
老執事が静かに言う。
「奥様は、皆様のお顔をよく見ておられました」
「だから何だ」
「旦那様が夜遅く戻られた日は、胃に優しい茶を」
「……」
「長旅の商人には疲労を抜く薬草を。宴席で緊張している若い使用人には、落ち着く香茶を出しておられました」
カイルは黙った。
そんなもの、知らなかった。
いや、見ていなかった。
彼にとって茶会は結果だけだった。
商談が成功したか。
利益が出たか。
それだけ。
人が落ち着いて笑っている理由など考えたこともなかった。
帳面をめくる。
そこには兵士向けの調合記録があった。
『雪中行軍後。足先の冷え強。薄荷は減らし、生姜葉を増やす』
『若い兵が悪夢を見る。眠前茶に銀香草』
カイルは息を呑んだ。
「兵士にまで……?」
「はい」
老執事は少し微笑んだ。
「皆、奥様の茶を楽しみにしておりました」
胸の奥がざらつく。
嫌な感覚だった。
自分の知らないエレナが、次々に出てくる。
静かで、
目立たなくて、
いつも微笑んでいるだけの女だと思っていた。
だが違った。
彼女はずっと、人を見ていた。
人が壊れないように。
争わないように。
疲れ切らないように。
そのために、こんな細かな記録を毎日つけていたのだ。
カイルは無意識に最後の頁を開いた。
そこだけ文字が少なかった。
小さく、丁寧な字。
『皆が少しでも穏やかに過ごせますように』
風が吹いた。
割れた窓から冷たい空気が入り込み、頁がかさりと揺れる。
カイルは動けなかった。
胸の奥が重い。
苦しい。
何故だ。
ただの薬草帳だろう。
ただの記録だ。
なのに、喉が詰まる。
脳裏に、昔の夜会が浮かぶ。
人が笑っていた。
商談がまとまっていた。
皆、穏やかだった。
自分はそれを当然だと思っていた。
全部、自分の力だと。
だが違った。
あの空気を作っていたのは。
あの居心地の良さを支えていたのは。
エレナだった。
カイルの喉がひくりと震える。
「……何故、言わなかった」
掠れた声。
「こんなことをしているなら、何故もっと……」
老執事は静かに目を伏せた。
「奥様は、見返りを求める方ではありませんでしたから」
言葉を失う。
温室は静まり返っていた。
割れた鉢。
乾いた土。
死んだ薬草。
その真ん中で、カイルは帳面を握りしめたまま立ち尽くしていた。
ようやく理解した。
自分が失ったのは、“便利な妻”ではない。
一人の人間だった。
静かに誰かを支え続けていた、
取り替えのきかない人だった。
だがもう遅い。
温室にはもう、何の香りもしなかった。




