九話 松ノ木、泣く
すうが病室で首を傾げているころ、松ノ木は院長室目指して、病院の廊下を足早に歩いていた。
生来の無表情はわずかに歪んでいる。
「迅速な報告が必要ですね」
実はすうへ説明したより遥かに、ダンジョン課はすうの存在を危険視していた。
十年前の『第二次迷宮災害』以来、誤作動を含めてもブザーが鳴るのはごく稀だ。
だが鳴った時はいずれも大きな問題が起きている。
魔物の群れの地上への侵攻や、あらゆる場所へ侵入できる魔道具の存在の発覚など。
いくら見た目が少女でもダンジョン課はすうを警戒しないわけにはいかなかった。あるいは魔物が変化している可能性もあるのだから。
本人には伝えなかったが、すうが眠っている間に体の検査もしていた。
結果的に、すうは普通の人間だった。
骨格や血液も含めて間違いなく人間の少女であると診断されている。
ただ気になることもあった。
普通の人間より魔素定着率が高かったのだ。
魔素とは、ダンジョンが吐き出す未知の物質だ。それを体に取り込み定着していくと、人間の身体能力は飛躍的に向上する。
見た目が少女でも、ダンジョンに潜っていたらそこらの大人より遥かに強くなるのだ。
すうは二階層以降へ突入した探索者と同等以上の魔素を内包していた。
しかし日本であの年代の少女がダンジョンに潜ることはできない。
『迷宮災害』から世界は不安定だ。
無理やりダンジョンへ潜らされ、人体実験のようなことを行われていた可能性もある。
本当に少女が危険をもたらすことは無いのか。
そして最も重要なのは、どうやって侵入したか。
それらを調べるために松ノ木が聞き取りをすることになったのだ。
結果としてわかったのはとんでもない境遇だった。
ダンジョンで産まれ、そして両親も亡くなってしまった中で、たった一人生きてきた。
そう、すうはなんてことのないように語った。
さっきまでのやり取りを思い返した松ノ木はわずか、眉間にしわを寄せる。
その顔を見た看護師や患者たちが、すれ違う度にぎょっとしていた。
松ノ木の視線の鋭さに怯えた——のではない。
ほとんど無表情のまま、ぼたぼた大粒の涙を流す松ノ木の様子に怯んだのだ。
ピンと伸びた姿勢でブレなく歩きながらも、ただ涙だけが流れ続ける姿はもはや異様だった。
松ノ木は周りの視線に気づき、「すみません」と頭を下げてハンカチを目に当てる。
「あんな小さい子が……ご両親も亡くして……一人で……」
松ノ木は動かない表情筋に反して涙もろく、情に厚かった。
危険があるかもしれないすうへの聞き取りも、『あんなに小さい子を放っておけない』と自ら志願したほどである。
すうが境遇を話始めた時も途中から泣きそうになっていた。いきなり泣き出して困惑させてはいけないと気合で耐えていたのが、今になって決壊したのだ。
「早く危険はなかったと報告をしなければ……! そして出来る限りの支援を……!」
松ノ木は鼻をすすって呟いた。
情にほだされたとしか思えない言葉。しかしこれもしっかりと考えた上での判断だ。
「養護施設か保護者の捜索が必要ですね。どちらにしろ様子を見ることにはなるでしょうし、居場所と個人番号の取得は認められるでしょう。何か問題が起こった時に把握できる方がいい」
すうの言っていることが全て真実であるとは松ノ木も思っていない。
だがダンジョンの探索ライセンスや年齢制限すら知らなそうなこと。
自分の境遇に疑問をもっていなさそうなこと。
これらを考えれば、少なくともすうが一般常識を学べない環境にいたことは間違いない。
そして幼い少女がダンジョン内で暮らすなど本当にできるのか、という点については、むしろ容易だろうと考えている。
魔素を生まれた時から取り込み続けたのなら、すうの身体能力は間違いなく高い。二階層の魔物を討伐するだけなら簡単なはずだ。
さらにすうがダンジョンから出てきた時、服のようにまとっていた布。
あれは魔道具だ。
他者から存在を気づかれにくくする【隠れ蓑】。
魔物相手なら奇襲もできる。今まで人に発見されなかったのもこれがあったから、と言われれば納得できた。
そしてすうがダンジョンに関する問題を抱えているのなら。
どんな境遇であれダンジョン課としては力になるべきなのだ。そのために設置された課なのだから。
彼女がこれからどう生きていくにしても、その生がせめて幸せなものであるように、できるだけ協力しよう。
松ノ木は決意と共に院長室の扉を叩いた。
この時、こらえきれず滲んでいた涙がすうを困惑させているとは知る由もない。
松ノ木が出ていってからしばらく、すうは結局逃げずに部屋へ留まっていた。
下手に逃げて怪しまれるよりバレていないことに賭けたのだ。
やがて扉が叩かれ、何故か少し目が赤い松ノ木と、その後ろから白髪の老人と若い女が入ってくる。
すうは新たな人間の出現に「増援を呼ばれた!?」と身構える。
「安心してください、彼らはお医者さんです。……お医者さん、わかりますか?」
医者は探索者たちからもよく聞いた単語だ。すうは警戒を緩めて頷いた。
「ひとを、なおす」
「はい。すうちゃんの体におかしいところがないか調べてくれる人です」
「しらべる?」
すうは反射的にベッドの端ぎりぎりまで下がった。
警戒心の高さに松ノ木が慌てて言葉を付け足す。
「大丈夫です! えぇと、実は意識が無い間にもう大体の検査は済んでいるんです。今日は少し見るだけですから!」
「……それなら」
検査した上で人間として扱われているのなら、簡単にバレはしないということだ。
すうは安心してベッドの真ん中に戻る。
松ノ木もほっと息をついた。
「ではお願いします」
「あ、はい」
後ろにいた医者たちが妙なものを見たような顔をしていることに、すうは首を傾げた。
意識のない間に体を調べられていたのはいいのか。そんな意見を飲み込んだ顔だった。
だが常識が無いすうと少し天然な松ノ木は気が付かず、医者はすうの検診を始める。
いくらかの作業の後、医者は一つ頷いた。
「うん、栄養状態以外は問題ないですね。ごはんも食べていきましょう。ただ検査時に胃がからっぽだったので、最初は胃に優しいものからです。すぐに来るので待っていてください」
医者はそう言って部屋から去っていった。
どうやら問題なかったようだ。
しかも、すうは聞き逃さなかった。
「ごはん……!?」
跳ねるように起きてベッドの上に立つ。
ごはんを食べる、運んでくる?
夢にまで見た地上の食べ物が待っているだけで運ばれてくるというのか。
心を躍らせて、すうはその時を待った。




