十話 すう、病院で食べる
ごはん。
その響きに目を輝かせ、すうは跳ねるように立ち上がる。
「座りましょうね」
座らされた。
「ベッドに立ってはいけないんです」
「ん」
「すうちゃんはごはんが好きなんですね」
「すき!」
「一番好きなものはありますか?」
「だんじょん・かろりーぶろっく」
「ああ、人気ですよね。誰かにもらったり……いえ、もしかして拾っていたんですか?」
「そう。かけらを、ひろって。たまにかたまり、がある」
「そ、そうですか」
急に松ノ木が目元をおさえて震え始めた。
よくわからない反応をする松ノ木から距離を取っていると、やがてすうの鼻が香りを捉える。
ドアが開いて運ばれてきた緑のトレーがすうの前の机に置かれる。
トレーの上には蓋のされたお椀が一つ乗っていた。
「重湯です。……あの、そんなに豪華なものじゃないからね?」
運んできた看護師は目を輝かせるすうに思わず言う。
だがすうはそれも聞かずバッと蓋を開けた。
出てきたのは――真っ白な液体だ。
少しとろりとしているものの、ほとんど水と変わらないものだった。
すうはそれを見てびしりと固まる。
顔を上げた松ノ木も手で口を押さえた。
「……重湯って、どういうものでしたっけ」
「えーと、重湯は少しのお米を大量の水で炊いて、その上澄みをすくったものですね」
言いにくそうに看護師は説明する。
その間もすうは固まって動かない。
松ノ木たちから見れば期待した分だけ落ち込んでいるように見えただろう。
「も、もう少しすればちゃんとしたごはんも食べられるようになりますから」
松ノ木が慰めるように言う。
だが、その時。
「いいにおい……!」
喜色満面にすうは呟いた。
松ノ木たちが目を見開く。だがその顔も、さっきの慰めも、すうは認識していなかった。
目の前の、ただ求め続けた食べ物にだけその意識は向いている。
すうが固まっていたのは、ふたを開けた瞬間、今まで感じたことのない刺激を感じたからだ。
ふわりと漂ってきた重湯の匂いが、ビリビリと鼻を貫いて体の奥に吸い込まれていく。
すうはそれをスライム時代に少しだけ感じたことがある。
『米』と探索者が呼んでいた食材の匂いだ。
だがスライムの時には、遠くから眺めていたとはいえ、匂いにここまでの刺激を感じたことはない。
それは人の体に変わったことによる、感覚そのものの変化だった。
スライムの体は全身であらゆるものを感じる。人間の五感、あるいは第六感すらごちゃまぜにして、薄く広げたような形で受け取っていた。
だが今のすうは五感がそれぞれの部位に分かれていた。
音は耳で、触り心地は指や体で、景色は目で、匂いは鼻で、味は舌で。
全身の感覚をぶつ切りにし、より分けて一点に凝縮したようなものだ。
特定の部分でしか認識できなくなった代わりに一つ一つの感覚が遥かに鋭い。
すうが人間になったばかりの時は地獄の辛さだった。感覚が鋭すぎるが故に、少しの刺激で悶えていたのだ。
だがその辛さは今、食べ物の全てを楽しみつくすためにあったのだ。
そう、すうは悟った。
顔をお椀に近づけて漂ってくる甘さを堪能する。
そうしてしばらく、すうはようやくスプーンを手にした。
使い方はわかる。武器に負けず劣らず食事の観察と訓練はしていた。
自分の体を変えていたのとは違う感触。少しぎこちなくなるがすうはしっかりスプーンを使う。
重湯をほんのわずかにすくい、白い液体を目で楽しみ——口へと運ぶ。
とろりとした重湯が舌に触れた瞬間、びくんとすうの顔が天井を向いた。
人間になってから、他の五感と違い一度も使われていなかった器官。
初めての感覚は、脳天に突き抜けるようなインパクトを受け取ってしまった。
すうにとってはこれが重湯でよかったのだろう。もしももっと味の情報が多いものを食べてしまえば、比喩でなく心臓が止まっていた可能性もある。
ぎゅっと目をつむり、口の中で転がすように重湯を味わうすう。
最初のインパクトが通り過ぎれば徐々にほのかな甘みを感じ始める。紛れ込んできた米の一粒を噛めば、ぼろりと崩れて重湯よりも甘い欠片が舌に触れた。
水より少しだけ粘性のある食感を、何度も舌の上を行き来させてすうは楽しむ。
そのうちごくりと呑み込むと、喉をつうと通って体の中を通っていくのがわかった。
口の中から重湯が無くなって、ようやくすうは、万感の思いが籠った声を上げた。
「おいしい……!!!」
一階層から逃げて。
二階層で飢えて。
遥か五階層までも潜り。
人に囲まれて、死を覚悟して。
一体どれほどの我慢と、苦労を重ねたか。
これはファミレスではない。
だがようやくすうは地上の食べ物を味わえたのだ。
ゆっくりと、だがしっかり重湯を噛みしめ、何度も何度もスプーンで口に流しこんでいく。
すうの目じりからはいつの間にか涙がこぼれていた。
そしてその様子を見ていた看護師は同情の目を向け、松ノ木は涙と嗚咽が漏らしていた。




