七十一話 すうたち、ギャーに乗って逃げる
水の中から何かが見ている。
「な——」
水の中には何もいない。なのにぞくりとするような視線を感じた。
振り払おうとした瞬間、水が恐ろしい力ですうを引きずり込んできた。
「ぅわ!?」
がぼ、と顔から水の中へ突っ込んでしまう。
冷たい感触が全身を包んで耳に届く音が一気に遠くなる。
白い泡が顔を撫でるように通り過ぎた後。
「……!?」
すうは水の中にいた。
膝までつかる程度の浅さはどこにもない。砂の地面は遥か下に、揺れる水面は遥か頭上に。魔物の一体すらいない水中はまるで別世界に移動したかのようだ。
「っ……」
何かを言おうとしてがぼ、と口から泡が溢れた。
そういえば水の中だと喋れないし息もできないのだ。すうは思い出して口に蓋をした。
体を確認すれば【異形器】は変貌したままだ。巻きつけた四人も一緒にごぼごぼ口から泡を吐いている。
多分このままだと死ぬやつだ。
——うえ、へ!
とにかく水からあがろうとすうはもがく。
人の体になってから泳ぐのは初めてだ。動きの鈍い手足をばたばた振り回すが、むしろぐいぐいと水の底に沈んでいく。
——ひっぱられ、てる!
周りの水全体がすうの体を底へと押し流そうとしているような感触。
——なんなの、これ!
すうは魔素感知を強めた。
水に溶け込むような何かがいるのか。あるいは水自体が魔物なのか。
何が敵なのか。それを確かめるために。
その瞬間、魔素の奔流に飲み込まれた。
「!?」
意識が遠くへ飛んでいきそうになる。
激流のような勢いがすうを包んでいる。
辺りの水そのものが魔素の塊だった。
魔物とは違う。膨大な奔流はダンジョンの壁や床を構成する流れと同じ。
魔素の全てが底へと流れ続けている。
まるで……ダンジョンそのものが、すうを引きずり込んでいるかのようだ。
「——」
息が続かない。膨大な魔素と酸素不足で目の前が白く染まっていく。
視線。
奥深くから覗くような視線を、すうはどこかで知っている。
あれは。
ダンジョンの——?
『ぎゃっ』
すうの意識が遠のきかけた時、突然ギャーの声が目の前から響いた。
「……!?」
『ぎぎぎ』
薄く開いた目に映るのはすうに尻尾を向けて浮かんでいるギャーだ。
下を睨み、挑むように四肢へ力をこめて威嚇の唸りを上げている。
同時にがくんとすうの右腕が引かれた。
見れば【異形器】が勝手に口を開いている。
ごぶごぶと喉を鳴らすように体をくねらせ、そろそろヤバそうな四人がゆらゆら揺れる。その動きと一緒に周囲の魔素がどんどん口の中へと流れ込んでいっていた。
——のんで、る?
この水は魔素の塊だ。【異形器】にとってはごはんも同然だろう。
そして水を飲めば飲むほどすうの体にかかる抵抗が少なくなっていく。
だが魔素の溜まり方が尋常ではない。一飲みするたびに大量の魔素が蓄えられ、【異形器】の腕輪がかたかたと震え始めた。
その時。
『ぎゃー!』
一際高く何かを要求するようにギャーが鳴く。
同時、どうすればいいのかがすうの頭に浮かんできた。
——なんなの! もう!
疑問とやけくそが混じりながら、すうは腕輪を外し——そこに、ギャーをくぐらせた。
「すう!? ねえ!」
瓦礫をどかすのを杏子たちに任せて凛は一人で水の中を歩いていた。
田耕たちを助けたすうが、いきなり水の中へ消えたのを見て飛び出してきたのだ。
「どこにいんのよ……! そんな深くないでしょ!?」
足を滑らせて転んだのかと思った。だがいつまでも立ち上がろうとしないのはおかしい。
まさか魔物にやられたのか。
そんなわけがないと凛は声を張り上げる。
「すう!」
そして名前を呼んだ瞬間。
凛の前方の水がドバンと弾け飛び、中から巨体が飛び出してきた。
突如として現れた魔物へ凛は反射的に構える。
その巨大な魔物の姿は、四足歩行に丸っこい手、爬虫類の目——。
「ホームガード!?
『神迷』二階層に出てくる魔物の名を凛は叫んだ。
「でか……いやそもそもなんでここに!?」
「ぶあぁ……!」
さらに、その背中から出てきたものに目を見開いた。
「ぶあぁ……でれ、た!」
げほっと水を吐いてすうはぐったりとうつぶせに倒れる。
頬にざらりとした皮膚の感触が伝わってきた。
すうは今、巨大化したギャーの背中に乗っている。
腕輪を潜らせた直後、ギャーの体はバキバキと音を立てて変貌し、かつての異形トカゲを思わせる巨体となった。
すうはそれこそがギャーの本来の力なのだと、頭に浮かんできた名前と共に実感した。
——召喚獣【つぎはぎトカゲ】。
それがギャーの名。
そしてギャーは水の抵抗を振り切ってすうと、田耕たち四人を背負い一気に水上へとあがってきたのだ。
すうは大きく深呼吸をした後、ぽんとギャーの背中を叩く。
「ありがと、ギャー」
【ギャギャギャ!】
「むだめしぐらい、とおもって、ごめん」
【ギギャ!?】
心外だとばかりに咆哮のごとき鳴き声を上げたギャー。
そこに声がかかる。
「すう!! あんた生きてるわね!? 無事ね!? じゃあ返事ぐらいしなさいよ!!?」
地団太を踏んで怒鳴ってくる凛にすうは首を傾げる。
「なんで、ここいる、の? とびら、は?」
「あんたが! いきなり水の中に沈んだから! しんぱ——様子見にきたの! よ!」
顔を真っ赤にする凛へちょっとすうも怯んだ。
「……あ、ありが、とう?」
「うううっさい! 無事ならさっさと扉の方手伝いなさい! ……ていうかこのデカトカゲなに!?」
ようやくギャーへのツッコミが入った。
だがそこでギャーの足元が不自然に波打った。すうは魔素が再び蠢くのを感じ取る。
「はなしは、あと! ギャー、はしれ!」
「はぁ!?」
【ギギギギャギャギャギャ!!】
ドバンと水を弾けさせギャーが猛然と駆け出した。
「りん!」
「なんなの、よっ!!」
戸惑っていた凛だが、すうが手を伸ばせば即座に掴んで飛び乗ってくる。
「あ、田耕さ……え、なにこの拘束」
先に乗っていた田耕たちを見た凛が疑問の声を上げた。
今の田耕たちはギャーの体から生えた蜘蛛の脚にがっちりと掴まれている。
他の魔物の体に変貌するという特性は同じままらしい。
「それより、うしろ、みて」
「うしろ? ——なにあれ」
駆けるギャーの後ろからは膨大な量の水が高く伸びあがり、まるで津波のように迫ってきていた。
「なにあれなにあれなにあれ!? どうなってんの!?」
「とりあえず、のまれたら、しぬ!」
「見りゃわかるわよ! まだ扉開いてないんだけど!?」
視線の先にある瓦礫の山は確かにまだまだ積みあがっている。
撤去していた杏子たちがこちらに気づき、ギャーを見て唖然とした後、後ろの津波を見て慌て出した。
「とびらは、ギャーが、ぶちやぶる!」
「それ扉がつながってなかったらどうすん……どっちみち死ぬだけよねそうよねあああもうっ! 杏子! 潤! こっちきてトカゲに乗りなさい!」
身振り手振りと叫び声が伝わったのか、二人もこっちに駆けてきて飛び乗った。
「ど、どうするんですか!?」
「このトカゲが扉をぶち破る! 扉がつながってなきゃ死ぬ!」
「いきなりとんでも博打……!」
合計八人を乗せたギャーはそれでも一切速度を緩めない。
むしろ速めて扉へと突進する。
邪魔をしてくる魔物は引き潰しはねのけ、どんどん扉へと迫っていき。
「つかまって!」
【ギャギャギャギャ!!】
すうが叫んだ直後、ギャーは頭から瓦礫へと突っ込んだ。
ドッゴオォォン!
衝撃。破砕音。
礫が体を打ち砂煙が辺りを覆って——塵の幕を引き裂き、巨体が扉を通り抜けた。
「ここ、さんかいそう……かえって、きた!」
魔素感知の範囲が一気に広がりすうは安堵の息を吐いた。
一拍遅れて凛たちも騒ぎ出す。
「脱出した!?」
「ここボス部屋前の広場です!」
「助かっ……待って、何か音が」
だが途中で潤が言葉を切って耳を澄ませる。
すうもまた気づいた。
後ろからどうどうと水の流れる音が聞こえてくる。
全員が後ろへ目をやった。
強引に突破したことで瓦礫が吹っ飛び、向こうの景色がよく見えた。
扉を越えて、こちらに溢れてこようとする津波も。
「ギャー! にげて!」
【ギャギャギャ!】
「だからなんでボス部屋を越えてくんのよ!?」
顔を引きつらせながらも四人は再びざらついた皮膚にしがみつき、ギャーは三階層を走りだした。
後ろからどうと溢れ出た水が手を伸ばすように追ってきた。
すうがナビをして最短距離を指示すれば、罠も何もかも破壊してギャーは一気に駆け抜けていく。
不思議なのは魔物が一体も出てこなかったことか。
それを疑問に思いつつも気にする余裕もなく、すうたちは二階層へ突入。
階段を越えてなお水は追ってきたが、徐々に勢いを無くし——一階層へと着く頃には、迫ってくる水も見えなくなり。
すうたちはどうにか逃げきったのだった。




