腕の分だけ
夕方、戸川さんは本当に店に来た。
作業着の上に薄いコートを羽織って、手には協会の封筒と、細長い木の箱と、自分の私物らしい古い牛刀を一本、新聞紙にくるんで持っていた。
「すみません、ついでに。家の包丁です。料金はお支払いします」
「包丁なら千百円です」
「安いですね」
戸川さんは、帳場の札を見上げて、それからじいちゃんに頭を下げた。じいちゃんは湯呑みを持ち上げて、軽く会釈を返しただけだった。
「装備課として、研ぎ方を見せていただけますか。差し支えのない範囲で」
「差し支えなんてないです。見てもらえば」
俺は研ぎ場に戸川さんを通した。研ぎ桶の水を替え、砥石を沈める。戸川さんは、研ぎ場の隅の丸椅子に浅く腰掛けて、膝の上でクリップボードを構えた。
戸川さんが木の箱を開けた。中に、刃渡りの短い迷鋼の小刀が一本入っていた。刃の地が、白く濁っている。
「装備課で、検査の見本に使っている小刀です。第三層の魔物を何度か斬らせて、わざと曇らせてあります」
見せるなら、迷鋼がいい。俺は先に戸川さんの牛刀を手早く研いだ。普通の鋼の包丁は、合砥に当てても研ぎ汁の色は変わらない。薄い灰色のまま、石の粉が流れるだけだ。
それから、迷鋼の小刀を持つ。
合砥の上で往復させる。三度、四度。研ぎ汁が、目に見えて濁っていく。墨をにじませたような濃い灰色が、小刀の下から広がって、桶の水に溶けていく。
戸川さんが、丸椅子から腰を浮かせた。
「……これは」
「曇りです。魔物を斬るうちに、刃の表に溜まるやつ」
「研ぎ汁に、出るんですか」
「手で研ぐと、出ます。【研ぎ】のスキルは、俺が手で刃を持って、砥石の上を動かしたときにだけ働くんです。どこに曇りが溜まってるかが手に来るから、そこを狙って石に吸わせる」
「機械では」
「工場の機械に刃を当ててても、何も起きませんでした。二年半、一度も」
戸川さんは、クリップボードに何か書きつけて、それから協会の封筒から一枚の紙を出した。
「協会の、スキルの説明書きです。【研ぎ】の項」
読み上げる。
「生活系。戦闘適性なし。刃物の研磨作業の効率がわずかに上がる」
戸川さんは、紙から顔を上げた。
「……書き直さないといけませんね」
「そうなんですか」
「測定の石板で出るのは、名前と系統だけです。説明書きは、スキルの持ち主から聞き取って、協会がまとめたものです。【研ぎ】の持ち主は、ほとんどが武具メーカーの工場で働いています。工場で機械を使って働く人から聞き取れば、こう書くことになる」
戸川さんは紙を封筒に戻した。
「手で研いだ人から聞き取ったことは、たぶん一度もなかった」
◇
戸川さんは、それから鷹取の研ぎ直しの話をした。
一回、一万一千円。三日預かり。研ぎ直しを十回前後重ねると、刃が痩せて曇りが早く戻るようになり、窓口で寿命と言われて、新品に買い替える。探索者は皆、それが当たり前だと思っている。装備課の記録にも、刃の寿命の目安として、研ぎ直しの回数が書いてある。
「三輪さんの刀は、その目安で言えば、とっくに寿命の刀でした」
「刃は痩せてましたよ。でも、まだ厚みはあった」
「坂井さんが研ぐと、刃は痩せないんですか」
「曇りを抜くのに、鋼を削る必要はないんです。機械は、曇りごと表を削り落とそうとするから、鋼が減る。それでも曇りは奥に残る」
戸川さんのペンが止まった。
「……奥に、残る」
「残ってました。灯の刀の曇りは、刃の表じゃなくて、少し奥に染みてた。機械で削られるたびに、押し込まれたんだと思います」
そこへ、店の戸が開いて、剛さんが岡持ちを提げて入ってきた。
「直、晩飯……おっと、お客さんか」
「協会の装備課の方」
「戸川です。三輪さんのお父様ですね。今日、娘さんの検査を担当しました」
「ああ、灯から聞いた。十枚だって?」
剛さんは、岡持ちを帳場に置くと、戸川さんと並んで研ぎ場を覗き込んだ。桶の灰色の水を見て、それから壁の札を見上げる。
「戸川さん、あんたからも言ってやってくれ。こいつ、刀を三千三百で研いでるんだ。鷹取は一万一千だってのに」
「三千三百円」
戸川さんは、札を見て、俺を見た。
「安すぎますね」
「ほらみろ」
剛さんが勝ち誇ったように言った。
「装備課としてではなく、一人の客として言います。あの刀が、三千三百円で、十枚と受け木を斬る刃になった。メーカーの研ぎ直しは、一万一千円で刃を痩せさせる。値段の釣り合いが、逆さまです。坂井さんが安く研げば研ぐほど、メーカーの方が正しい値段に見えてしまう」
俺は、何も言えなかった。
◇
戸川さんが帰ったあと、店を閉めてから、帳場のじいちゃんの前に座った。
「じいちゃん。値段、どうしたらいい」
じいちゃんは、剛さんの持ってきた鯖の味噌煮をつつきながら、しばらく黙っていた。
「研ぎ屋が値を決めるんじゃねえ」
「え」
「刃が決めるんだ。研ぐ前と研いだ後で、その刃がいくら斬れるようになったか。手前でよく見ろ。見て、それに見合う分だけもらえ。もらいすぎるのも、もらわなすぎるのも、刃に失礼だ」
じいちゃんは、箸を置いて、壁の札を見上げた。
「あの札は、俺が包丁のために書いたもんだ。包丁は、研げば研ぐ前の切れ味に戻る。それだけだ。お前の研いだ迷鋼は、戻るんじゃねえんだろ。研ぐ前より、斬れるようになってる」
「……うん」
「なら、その分だ」
じいちゃんはそれだけ言って、また箸を取った。
俺は、研ぎ場で一人で考えた。
鷹取の研ぎ直しが、一万一千円。俺の研ぎは、刃を痩せさせない。研ぐ前より斬れる刃になる。灯の刀は、十枚と受け木を斬った。
ただ、俺の手は一つしかない。迷鋼を一本、曇りを抜いて研ぎ上げるのに、一時間はかかる。一日に研げるのは、せいぜい八本だ。それ以上やると、手が鈍って刃筋が揃わなくなる。
安くして、客を山ほど並ばせても、研ぎ切れない。高くしすぎれば、灯や熊谷さんのような、ぎりぎりで潜っている探索者が来られなくなる。
客が払える値段で、腕の分だけもらう。
俺は、札の端に、自分の字で一行書き足した。
迷鋼の武器 一本 一万六千五百円。
矢じりや小刀のような小さな刃物は、迷鋼でも包丁の札のままにした。
鷹取より高い。けれど、刃は痩せないし、研ぎ直しのたびに斬れなくなることもない。何回研いでも、研いだ分だけ起きる刃になる。そう考えれば、高くはないはずだと、自分に言い聞かせた。
書き終えて振り返ると、じいちゃんが帳場から札を見ていた。湯呑みを持ち上げて、番茶を一口すすっただけだった。
◇
翌朝、シャッターを開けると、店の前に知らない探索者が三人、刃物のケースを提げて立っていた。
一人は、一昨日、買取所の前で煙草を吸っていた男だった。




