受け木まで
協会の国府台支部の二階は、装備課の検査室になっている。
床はコンクリートの打ちっぱなしで、窓のない部屋の真ん中に、腰の高さほどの頑丈な鉄の台が据えてあった。台の上には、分厚い木の板が敷いてある。その周りに、細い仕切りの柵。柵の外には、検査を待つ探索者のための長椅子が並んでいた。
翌朝、灯の検査の時刻に合わせて行くと、長椅子には十人近くが座っていた。検査の順番を待つ人と、ただ見物に来ているだけの人が半々くらいらしい。一昨日の買取所の話を聞きつけたのか、灯が部屋に入ると、何人かが顔を上げた。
「三輪さん、どうぞ」
柵の内側から声をかけてきたのは、紺の作業着に協会の腕章をつけた女の人だった。三十代半ばくらい。髪を後ろで短く結び、手にクリップボードを持っている。
「装備課の戸川です。C級審査の前の装備の検査ですね。そちらは」
「付き添いです。この刀を研いだ人」
「研いだ方」
戸川さんは、クリップボードから顔を上げて、俺を一度だけ見た。それから、すぐに台の方を向いた。
「では、手順を説明します。初めてですよね」
戸川さんは、台の脇の棚から、黒っぽい板を一枚取り出した。厚さは指一本分ほど。表面が、なめした革のように鈍く光っている。
「試験板です。第四層の鎧猪の、背の皮を樹脂で固めたものです。皮の守りが残っているうちに使うので、刃は滑ります。この板を台の上に重ねて、刃を一度だけ振り下ろして、何枚まで斬れたかを数えます」
戸川さんは、板を台の上に置いた。
「目安を言っておきます。鷹取の量産品の新品で、二枚。上位品の新品で、四枚。S級の方が、特注の刃で振って、七枚前後。台に重ねられるのは、十枚までです」
長椅子の方で、誰かが小さく笑った。
「研ぎ直しを重ねた刀なら、一枚斬れれば十分です。C級の審査の前の検査は、それで通ります」
戸川さんの口調は、事務的だった。馬鹿にしているわけではない。毎日ここで、何十本もの刃を見てきた人の、事実を並べる言い方だった。
灯が、刀の柄に手を置いた。
「あの」
「はい」
「十枚、乗せてください」
戸川さんの眉が、わずかに上がった。
長椅子の見物人たちが、ざわついた。「十枚?」「S級でも七枚だぞ」「D級だろ、あの子」
戸川さんは、灯の顔を見て、それから灯の腰の刀を見た。少しだけ間があった。
「……記録のためです。いいでしょう」
戸川さんは棚から試験板を下ろし、一枚ずつ台の上に重ねていった。一枚、また一枚。重ねるたびに、板と板が擦れる乾いた音がする。十枚目を置いたとき、台の上の板の山は、俺の手のひらを広げたくらいの高さになっていた。
「どうぞ。一度だけ、上から振り下ろしてください。柵の内側に入るのは、三輪さんだけです」
灯は柵をくぐって、台の前に立った。
鞘を払う。刀を構える。
見物人の話し声が、すっと消えた。
俺は柵の外から、灯の手首を見ていた。柄を握る指は、白くなっていない。主の前のときより、ずっと落ち着いている。
灯が、振り下ろした。
短い音が、一度だけした。
刀は、板の山を上から下まで通り抜け、台に敷いた分厚い木の板に、刃の半ばまで食い込んで止まった。
十枚の試験板が、真ん中から左右に分かれて、ばらばらと台の上に倒れた。
部屋が、静まり返った。
灯は、木の板に食い込んだ刀を、そっと引き抜いた。刃を見る。それから、困ったような顔で、戸川さんを振り返った。
「……あの、下の木まで、斬っちゃいました。すみません」
戸川さんは、クリップボードに何か書いていた。
書く手は止まらなかった。驚いた顔もしなかった。ただ、ペンを走らせる速さが、さっきより少しだけ速くなっていた。
「受け木は、消耗品です。問題ありません」
書き終えると、戸川さんは顔を上げた。
「もう一度、お願いできますか。新しい板で」
戸川さんは、割れた板を床の箱に払い落とし、棚から新しい試験板を十枚出して、また一枚ずつ重ねた。今度は、受け木の位置を少しずらした。
灯がもう一度振り下ろした。
同じ音がした。同じように、十枚が左右に分かれて倒れ、刃は受け木に食い込んだ。
長椅子の方から、誰かが立ち上がる音がした。
「おい、嘘だろ」
「十枚、全部かよ」
「台の上限だぞ、あれ」
「受け木まで斬ったの、初めて見た」
見物人たちが、柵の際まで寄ってきた。灯は刀を鞘に納めながら、真っ赤な顔で俯いている。
戸川さんは、二度目の結果も書き込んで、それから、柵の外の俺を見た。
「研いだのは、あなたですか」
「はい」
「どちらの」
「門前通りの、坂井刃物研ぎです」
「研ぎ屋さん」
繰り返した戸川さんの横で、見物の一人が、聞き耳を立てるように身を乗り出した。坂井、坂井、と口の中で繰り返して、スマートフォンに何か打ち込んでいる。
戸川さんは、少しの間、俺の顔を見ていた。
「この刀は、鷹取の、十年近く前の型ですね。窓口の記録だと、研ぎ直しを二十回以上。刃はかなり痩せているはずです。それが、この結果になる理由を、聞いてもいいですか」
「手で研いだだけです」
俺は正直に言った。
「研ぎ屋なら、手で研げば、このくらいは」
「手で迷鋼を研いでいる研ぎ屋は、私は一人も知りません」
戸川さんの声は、相変わらず事務的だった。だからこそ、冗談で言っているのではないと分かった。
「門前通りには、研ぎ屋はあなたのお店しかありません。探索者は、皆、メーカーの窓口に出します。研ぎ直しは、メーカーの仕事です。少なくとも、ここ十年は」
俺は、返事に詰まった。
じいちゃんの世代の研ぎ屋は、皆、手で研ぐ。だから俺は、手で研ぐのは研ぎ屋なら当たり前だと思っていた。じいちゃんが迷鋼を受けなかったのも、ただ好みの問題だと思っていた。
けれど、その当たり前の研ぎ屋が、迷鋼を研いでいなかったのなら。
この十二年、ダンジョンの刃を手で研いだ研ぎ屋は、どこにもいなかったことになる。
戸川さんは、記録の欄に何か書き足した。それから、灯の方を向いた。
「三輪さん。装備の検査は、合格です。審査の日程は、追って連絡します」
「はい!」
灯の声が、裏返った。
柵をくぐって出てきた灯は、真っ先に俺のところへ来て、俺の前掛けの胸のあたりを両手でつかんだ。
「直くん、十枚。十枚だよ」
「見てた」
「S級でも七枚なんだって。私、D級なのに」
「振ったのはお前だ」
「研いだのは直くんでしょ」
灯は前掛けをつかんだまま、俺を揺さぶった。見物人たちの視線が、今度は俺の方へ集まっているのが分かった。長椅子に座っていた年配の男が、腰の剣の柄を撫でながら、俺の顔をじっと見ていた。
戸川さんは、もう一度、俺を見た。
「坂井さん、でしたね。今日の夕方、お店に伺ってもいいですか。装備課として、聞きたいことがあります」




