研ぎ屋のお兄さん
主のいなくなった階段を、灯たちは一段ずつ下りた。
下りきったところの壁際に、腰の高さほどの黒い石が据えてある。記録石だ。探索者証をかざすと、どの層まで来たかが協会に残る。
灯が、震える手で探索者証をかざした。石の表に、淡い光が一度だけ走った。
「……第五層」
灯は、光の消えた石をしばらく見つめていた。熊谷さんと古賀さんも続けてかざし、最後に、灯が俺の背中を押した。
「直くんも」
「俺は同行者だぞ」
「同行者も記録されるの。かざして」
言われるまま、E級の探索者証をかざした。十五のときに一度だけ使って、財布の奥に入れっぱなしだったカードだ。石が光った。E級の研ぎ屋が、第五層に立った記録が残った。
階段の先には、第五層の通路が暗く続いていた。今日はここまでだと、灯が言った。誰も反対しなかった。
戻る前に、俺は階段の脇の壁に手を置いた。
第一層や第三層の壁とは、手触りが違った。ざらつきがなく、きめが細かい。指の腹に吸いつくような、締まった石だった。
手の中で、何かが小さく反応した気がした。研ぎ場で砥石に刃を当てたときに似た感覚だった。
「直くん、置いてくよ」
「今行く」
俺は壁から手を離した。そのときは、それ以上考えなかった。
◇
地上に戻ったのは、夕方だった。
協会の一階の買取所は、探索帰りの人で混んでいた。カウンターに魔石を並べ、職員が秤に載せ、伝票を切る。ここで換金して、ようやく一日の稼ぎになる。
熊谷さんが、カウンターに主の魔石をごとりと置いた。
若い男の職員が、伝票を書く手を止めた。魔石を見て、熊谷さんの胸の探索者証を見て、もう一度魔石を見た。
「……少々お待ちください」
職員は奥へ引っ込み、すぐに年配の女の人を連れて戻ってきた。女の人は魔石を手に取り、裏返し、光にかざした。
「第四層の主ですね。どなたが仕留めました」
「パーティで。とどめは、三輪です」
熊谷さんが灯を指した。灯は、なぜか俺の後ろに半分隠れていた。
「D級のパーティで、主を」
女の人の声は大きくなかった。けれど、周りの列に並んでいた探索者たちが、一斉にこっちを見た。
「背の皮は、どう抜いたんですか。魔法の方は、いらっしゃらない編成ですよね」
「斬りました」
灯が、俺の後ろから小さな声で言った。
「背中を、上から。一回で」
女の人は、灯の腰の刀に目を落とした。
「拝見しても」
灯が刀を鞘ごと差し出す。女の人は少しだけ鞘から抜いて、刃の地を見た。それから、刃元の銘を見て、首を傾げた。
「鷹取の、ずいぶん古い型ですね。……なのに、新品より地が澄んでいる」
「研いでもらったんです」
「鷹取の研ぎ直しで、こうはなりませんよ」
「町の研ぎ屋さんで」
列のどこかで、誰かが言った。
「研ぎ屋? 町の?」
「門前通りに、研ぎ屋なんかあったか」
「あの古い店だろ。包丁の」
ざわめきが、列の後ろへ伝わっていく。灯は俺の袖を引っ張って、少しだけ胸を張った。
「この人です。研ぎ屋のお兄さん」
視線が、一斉に俺に集まった。俺はどこを見ていいか分からなくて、カウンターの秤を見ていた。
主の魔石は、二十五万円になった。熊谷さんは、受け取った封筒の中身を三人で分けると、自分の分をそのまま俺に差し出した。
「研ぎ屋さんの分っす」
「研ぎ賃はもうもらってる。三千三百円」
「三千三百円で、二十五万の主は倒せないっすよ」
「研ぎ賃は研ぎ賃です」
熊谷さんは困った顔で灯を見て、灯は呆れた顔で俺を見て、古賀さんは「頑固」とだけ言った。
◇
みわ食堂の暖簾は、夕方の客で揺れていた。
カウンターの奥の厨房で、剛さんが鍋を振っている。灯の父親だ。五年前に第六層で膝を壊して探索者を辞め、灯のお母さんの恵子さんがやってきたこの店の厨房に入った。
「お帰り、灯。……おう、直じゃねえか。帰ってたのか」
「昨日」
「クビになったんだって? 恵子から聞いた。まあ座れ、食ってけ」
灯が、カウンター越しに刀を差し出した。
「お父さん。これ、見て」
剛さんは、鍋を火から下ろして、手を前掛けで拭いた。刀を受け取って、鞘を払う。
その手が、止まった。
剛さんは、黙って刃を見ていた。厨房の灯りの下で、刃を少しずつ傾ける。切っ先から刃元まで、一度。もう一度。
「……寿命って言われたんだぞ、これ」
低い声だった。
「俺が現役のころから、何十回、鷹取に出したか分からねえ。出すたびに、少しずつ斬れなくなって。最後は、もう寿命ですって。灯にも、そう言われたって」
「辰さんに頼んだことも、あるんだ。昔、一度だけな」
剛さんは刀を見たまま言った。
「迷鋼は研がねえ、って断られた。工場の機械で削られた刃は、俺の砥石が泣くってよ。だから、ずっと鷹取だった。研ぎ直しはメーカーに出すもんだって、皆そう思ってたしな」
「直くんが研いでくれたの。それで、主、斬った」
「主を」
「一回で」
剛さんは刀から顔を上げて、灯を見て、それから俺を見た。何か言いかけて、やめて、刀を鞘に納めた。
「……直。今日の飯は、俺の奢りだ」
剛さんはそれだけ言って、鍋を火に戻した。肩が、少し震えていた。
恵子さんが、俺の前に生姜焼きの定食を置いて、目尻を拭いながら笑った。
「直ちゃん、おかわりしてってね」
◇
店に戻ると、じいちゃんは帳場で番茶を飲んでいた。
昨日と同じ格好、同じ湯呑みだった。
「ただいま」
「おう」
「斬れたよ。主の背中、一太刀で」
じいちゃんは湯呑みを置いて、立ち上がった。俺の方を見ないまま、背中を向けて、店の奥の階段へ歩いていく。
「そうか」
それだけ言って、二階へ上がっていった。
階段の途中で、じいちゃんの足音が一度だけ止まったのを、俺は聞いていた。
研ぎ場の研ぎ桶には、昨日の研ぎ汁が、灰色のまま沈んでいた。俺は水を替えて、砥石を並べ直した。
じいちゃんの中山の合砥を、両手で持ち上げて、横から眺める。
昨日一本研いだだけで、面が少し減っていた。迷鋼は硬い。包丁を十本研ぐより、迷鋼の刀を一本研ぐ方が、石は減る。それに、曇りを抜くたびに、石の方も何かを吸い取られているような手応えがあった。
この石は、もう長年使われてきて、指一本分ほどの厚みしか残っていない。京都の天然の合砥は、今はいい物ほど手に入りにくい。
この調子で迷鋼を研ぎ続けたら、この石はいつまでもつだろう。
考えかけて、やめた。まだ一本研いだだけだ。
◇
翌朝、シャッターを開けると、店の前に二人立っていた。
熊谷さんは手斧を胸に抱え、古賀さんは矢筒を抱えていた。




