大鎧猪を、一太刀で
第四層は、森の中のようだった。
壁の石の割れ目から、苔とも草ともつかない植物が垂れ下がり、床の窪みには黒い水が溜まっている。天井は見えないほど高く、青灰色の光が、霧のように薄く漂っていた。
鼻をつく獣の匂いが、奥へ行くほど濃くなる。
「鎧猪は、普通のやつなら俺の盾で止まるっす」
熊谷さんが、歩きながら小声で言った。
「背中と肩の皮が鎧みたいに厚くて、そこは刃が滑るんで、灯が脇腹を狙うんす。普通のやつは、それで倒せる。でも、主は」
「脇腹まで皮が厚い」
古賀さんが言った。
「そうっす。で、正面から当たると、盾ごと持っていかれる。この秋、三回挑んで、三回とも灯の刃が背中を滑って、俺が吹っ飛ばされて、逃げたっす」
熊谷さんは、少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「協会の掲示板にも、書いてあるんすよ。第四層の主は、背の皮がC級の刃でも滑るって。C級以上の人は、割に合わないから相手にしない。俺らD級は、あいつを越えないと、第五層に行けない」
「行けないと、C級の審査が受けられない」
灯が前を向いたまま言った。
「だから、今日は、確かめるだけ。駄目だったら、すぐ引く。いいよね」
「いいっす」
「いい」
俺は返事をしなかった。俺は斬るところを見に来ただけで、引くか進むかを決めるのは、このパーティだ。
通路が、急に開けた。
広間だった。奥に、下りの階段の入口が黒く口を開けている。
その前に、小山のようなものが寝そべっていた。
大鎧猪。
普通の鎧猪を、俺はまだ見ていない。けれど、これが普通の倍だと言われれば信じた。軽自動車ほどの胴に、短く太い脚。背中から肩にかけて、灰色の皮が分厚く盛り上がり、甲羅のように硬く光っている。鼻先から、黄ばんだ牙が二本、反り返って突き出していた。
大鎧猪が、首をもたげた。小さな目が、こちらを見る。
熊谷さんが、俺の肩を掴んで、広間の入口の柱の陰へ押し込んだ。
「研ぎ屋さんは、ここから出ないでくださいっす。何があっても」
「分かりました」
柱の陰から、俺は主の背中を見た。
灰色の皮の表が、油を薄く塗ったように、ぬめりと鈍く光っている。光の加減ではない。皮の上に、目に見えるか見えないかの膜が張っている。あれが守りだ。刃が滑るのは、皮の硬さだけのせいじゃない。あの膜の上を、曇った刃がつるりと逃げていくのだ。
灯が、刀を抜いた。
柄を握る手に、力が入りすぎているのが、ここからでも分かった。指の関節が白い。
「灯」
俺は柱の陰から、声だけ投げた。
「こじるな。振り抜くだけでいい」
灯は振り返らなかった。ただ、柄を握り直した。指の白さが、少しだけ引いた。
鼻が鳴った。地面を、前脚で掻く。
「来るっす!」
熊谷さんが大盾を床に突き立てた。
大鎧猪が走り出した。床の黒い水が跳ね上がり、地面が揺れる。速い。あの図体で、こんなに速く動くのか。
古賀さんの矢が飛んだ。一本、二本。大鎧猪の目のすぐ脇に刺さり、主の頭がわずかに逸れる。
その頭が、熊谷さんの盾にぶつかった。
重い、鈍い音。熊谷さんの体が後ろへ押し込まれ、足が床の石を削って下がる。それでも、倒れない。歯を食いしばって、盾の裏に肩を押し当てている。
「灯ッ!」
灯が、盾の脇から跳んだ。
大鎧猪の背中へ、斜め上から、刀を振り下ろす。
刃は、こじらなかった。
背の皮が、割れた。
灰色の甲羅のような皮が、刃の通ったところから左右に開き、刃は皮の下の肉へ、肉の下の骨へと沈んでいった。乾いた竹を割るような、短い音が一度だけ響いた。
灯は振り抜いて、床に着地した。
大鎧猪は、熊谷さんの盾に頭を押しつけたまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと横に倒れた。床の黒い水が、大きく波打った。
広間が、静かになった。
水の滴る音だけが聞こえた。
熊谷さんが、盾から手を離した。大盾が、がらんと音を立てて床に倒れた。熊谷さんはそれを拾おうともせず、倒れた主と、灯を、ぽかんと見ていた。
古賀さんは、次の矢をつがえたまま、動かなかった。弓を引く手が、少しずつ下がっていく。下がりきったところで、ようやく弦から矢を外した。
「……一回」
古賀さんが言った。
「一回で、割った。背中」
灯は、着地したときの低い姿勢のまま、刀を見ていた。刃の地に、主の血が一筋ついている。その下の刃は、澄んだままだった。
灯がゆっくりと顔を上げて、俺の方を向いたのが、目の端に入った。
けれど俺は、灯を見ていなかった。倒れた主の背の、切り口を見ていた。
近寄って、しゃがむ。
割れた皮の断面が、まっすぐだった。刃が入ったところから抜けたところまで、一本の線で通っている。途中で刃がためらった跡も、こじれて引っかかった跡もない。刃筋が、最初から最後まで揃っていた。
研ぎ屋が一番見たいのは、こういう切り口だ。
俺は、たぶん一人で笑っていたと思う。
「直くん」
灯の声がして、振り返った。
「こじらなかったな」
俺がそう言うと、灯は何か言おうとして、口を開けて、それから急に笑い出した。
笑いながら、泣いていた。
刀を両手で抱えたまま、床にぺたんと座り込んで、声を上げて泣いて、笑った。
「三回、逃げたんだよ。三回も。熊さん、吹っ飛ばされて、肋骨にひび入って。柚葉の矢、全部弾かれて。私、この刀、もう駄目なんだって、お父さんの刀、もう終わりなんだって」
「終わってない」
「知ってる。今、知った」
灯はジャケットの袖で顔をごしごし擦った。
熊谷さんがようやく大盾を拾って、灯の隣にしゃがんだ。大きな手で、灯の背中をばんばん叩く。
「灯。やったっす。やったんすよ、俺ら」
「熊さん、痛い」
「すんません」
古賀さんは、いつの間にか倒れた主のそばにいた。弓を背に戻して、割れた背の皮を、指でつまんで持ち上げている。厚い。俺の指二本分はある。
「研ぎ屋さん」
「はい」
「鷹取の研ぎ直しで、これは無理」
「たぶん」
「たぶんじゃない。無理。私、灯の刀、去年から見てる」
古賀さんは、前髪の奥から俺をじっと見た。
「研ぎ屋さんは、何者?」
「研ぎ屋です」
古賀さんは、ふうん、とだけ言った。納得した顔ではなかった。
俺は灯のそばへ戻って、手を出した。
「刀、見せてくれ」
灯が、まだ赤い目で刀を差し出す。
主の血を布で拭い、刃を光にかざす。欠けはない。曇りは、背の皮を割ったあたりに、白い靄が少し濃く乗っていた。それでも、刃の地の澄み方は、研ぎ上げたときとほとんど変わらない。
もう何度か主のような相手を斬れば、曇りは戻ってくる。そうしたら、また研げばいい。
「大丈夫だ。まだ起きてる」
「起きてる?」
「刃が」
灯は刀を受け取って、胸に抱えた。
熊谷さんが、倒れた主の腹の方へ回り込んで、手斧で皮を裂き始めた。魔石を取り出すのだ。しばらくして、熊谷さんは両手で、子どもの頭ほどもある濁った赤い石を抱えて戻ってきた。
主の魔石だった。
熊谷さんは、その重さを確かめるように何度か持ち直して、それから俺たちを見て、困ったように笑った。
「これ、買取所、騒ぎになるっすよ」




