振ってみせてくれ
「ほんとに? ほんとに折れない?」
「折れない。研いでみないと、どこまで戻るかは分からないけど」
灯は俺の手の中の刀と、俺の顔を何度も見比べた。それから、帳場のじいちゃんの方を見る。
じいちゃんは番茶をすすっただけだった。研ぎ屋が研げると言ったら、それ以上の口は挟まない。昔からそういう人だ。
「お願い、直くん。いくらでも払うから」
「その前に」
俺は刀を鞘に納めて、灯に返した。
「振ってみせてくれ」
「え?」
「いつもどうやって振ってるか、見たい。研ぐのは、それからだ」
灯はきょとんとした顔のまま、刀を受け取った。
◇
店の裏は、隣の金物屋との間の細い路地になっている。物干し竿と、空の植木鉢と、じいちゃんが使い古した砥石の欠けた塊が並んでいる。
探索者証を持つ人間なら、特区の中で刀を抜いても咎められない。灯は少し恥ずかしそうに周りを見てから、鞘を払って構えた。
「魔物がいるつもりでいいの?」
「いつもの相手を思い浮かべてくれ。第三層あたりの」
「じゃあ、大百足」
灯の顔つきが変わった。
踏み込んで、斜めに斬り下ろす。振りは速い。腰も入っている。大学に通いながら週に何日か潜っているだけにしては、ちゃんと鍛えた振りだった。
ただ、振り抜く最後のところで、手首がわずかにひねられる。刃が斬り込んだ先で、横へこじられている。
「もう一回」
二度目も、三度目も同じだった。
「分かった。ありがとう」
「どうだった?」
「刃が滑るのを、力でねじ伏せようとしてるだろ。最後に手首をひねって、刃をこじってる」
灯の口が、ぽかんと開いた。
「……なんで分かるの。まだ何も言ってないのに」
「刃に書いてある」
俺は刀を受け取って、刃先を灯の方へ見せた。
「欠けが片側にだけ寄ってる。斬り込んだ後に横へひねると、刃先がこう倒れて欠ける。何度も同じ所で倒れるから、同じ側に並ぶ」
「熊さんにも言われたことないのに」
灯は耳まで赤くなった。図星だったらしい。
「刃が滑るから、押し込みたくなる。それは分かる。でも、刃が起きてれば、こじらなくても通る」
「起きる?」
「研いだら分かる」
店へ戻る路地で、灯は刀を鞘に納めながら、主のことを話した。
第四層の主は、大鎧猪という。普通の鎧猪の倍はある猪で、背中と肩の皮が鎧のように厚い。灯たちはこの秋、三度挑んで、三度とも引き返した。
「熊さんが盾で止めてくれて、私が背中に斬りつけるでしょ。そうすると、刃が皮の上を、つるって滑るの。氷の上を斬ってるみたいに。それで、焦って押し込んで」
「こじる」
「……こじる」
灯は小さく繰り返して、唇を尖らせた。
◇
研ぎ場の研ぎ桶に水を張り、砥石を沈めて水を吸わせる。
石が水を吸う細かな泡の音を聞くのは、二年半ぶりだった。工場の砥石は機械に固定された人造の円盤で、水を吸わせる時間も、泡の音もなかった。
まずは人造の中砥。刃先の欠けを均して、丸く寝てしまった刃先を立て直す。刀の峰に左手の指を添え、右手で柄元を握り、石の面に刃を寝かせて押し出す。引く。押す。
手の中で、刃が話し始める。
これが、俺のスキルだ。【研ぎ】は、俺が自分の手で刃を持って、砥石の上を往復させるときにだけ働く。どこに曇りが溜まっているか、刃の通り道がどこで揺れているかが、指から伝わってくる。工場の機械に刃を当てているときには、一度も起きなかった感覚だ。
灯の刀は、曇りが刃先から一センチほどの幅に、染み込むように溜まっていた。特に、こじって欠けた側が厚い。
欠けが消えたところで、中砥から合砥に替える。
じいちゃんの京都の天然の合砥。中山の石だと、子どもの頃に教わった。長年使われて薄くなっているが、面は今も平らで、指で触れると絹のように滑らかだ。
合砥の上で刃を往復させると、研ぎ汁の色が変わり始めた。
最初は砥石の粉の薄い灰色。それが、往復のたびに濁っていく。墨を一滴落としたような濃い灰色が、刃の下からにじみ出て、石の面に広がる。
曇りが、刃から石へ移っている。
帳場の方から、じいちゃんの声がした。
「音がいい。そのまま行け」
振り返らなくても、じいちゃんが目を閉じて聞いているのが分かった。研ぎの音で、刃が石に正しく当たっているかを聞き分ける。手が震えるようになっても、耳は少しも衰えていない。
俺は灯のこじる癖に合わせて、刃先の肉をほんの少しだけ残すことにした。刃先近くの断面を、はまぐり貝のようにわずかにふくらませる。蛤刃だ。薄く尖らせきった刃より、横へひねられても欠けにくい。
片側を研ぎ終えて、指の腹を刃先と直角に当て、そっとなでる。反対側に、髪の毛一本ほどの引っかかりがある。返りが、刃元から切っ先まで一続きに出ている。
裏を返して、同じように。最後に、新聞紙に刃を寝かせて軽く引き、返りを落とす。
水で刃を流して、布で拭った。
灯が、隣で息を呑んだ。
白く濁っていた刃の地が、澄んでいる。蛍光灯の光が、刃の上を一本の細い線になって走る。
「……これ、お父さんの刀?」
「お父さんの刀だよ」
俺は新聞紙を一枚取って、刃を上に向けた刀の上へ、そっと落とした。
紙は刃に触れたところで止まらず、そのまま自分の重さで二つに分かれて、ひらひらと床に落ちた。
灯は黙って、床の二枚の紙と、刀を、交互に見ていた。
帳場の椅子が軋んだ。じいちゃんが立ってきて、俺の手から刀を取った。
震える手で、刀を蛍光灯にかざす。刃の地を、切っ先から刃元まで、ゆっくりと目でなぞる。刀が細かく揺れても、目だけは揺れていなかった。
「……直」
「うん」
「お前、工場で何を研いでた」
「機械の横に立ってただけだよ」
じいちゃんは、ふん、と鼻を鳴らして刀を俺に返し、帳場へ戻っていった。それ以上は何も聞かなかった。
「研ぎ賃は三千三百円」
「は?」
「札にそう書いてある」
帳場の後ろの壁に、じいちゃんの手書きの料金の札が貼ってある。包丁千百円、出刃・柳刃千四百円、鎌・鉈千六百五十円、刀剣三千三百円。俺が子どもの頃から変わっていない。
「安すぎない? 鷹取は一万一千円だよ」
「うちの札は、そうなってる」
灯は財布を出しかけて、それから急に顔を上げた。
「直くん。明日、主に挑むの、やめた方がいいと思う?」
俺は刀を灯に返しながら、昔じいちゃんに言われたことを思い出していた。
研ぎ屋は、刃が斬るところを見るまでが仕事だ。
研いだ刃がどう斬れて、どこで止まって、持ち主の手にどう返ってくるのか。それを見ないで次の刃に移る研ぎ屋は、ただの削り屋だ。工場の二年半、俺はずっと、その削り屋だった。
「見に行っていいか」
「え」
「明日。お前が振るところを見たい」
灯はしばらく俺を見て、それからやっと、昔と同じ顔で笑った。
「じゃあ、明日。第三層、付き合ってくれる?」




