手で研ぐのは趣味でやれ
「坂井くん、手で研ぐのは趣味でやってくれ。うちは一時間に六十本だ」
課長室の机の向こうで、榊原課長は書類から目を上げずに言った。
机の上には、俺の名前の書かれた茶封筒が一つ置いてある。
「今朝のラインの件です。指示書どおりに削って、それ以上は落としませんでした」
「調整の指示を出したはずだ」
「刃が痩せます。あの剣、持ち主はあと何回研ぎ直しに出せると思ってるんですか」
「それを考えるのは君の仕事じゃない」
課長はそこでようやく顔を上げた。声は荒れていない。いつもどおりの、ラインの不良品を数えるときの声だった。
「職務命令違反だ。これで三度目になる。規則どおりです。三十日分、入っています」
封筒を指で押して、俺の方へ滑らせる。
解雇予告手当。言葉だけは、入社のときの研修で聞いた覚えがあった。
俺は坂井直、二十歳。鷹取重工の関東研磨工場で、研ぎ直しのラインに立って二年半になる。
十五で初めてダンジョンに入ったとき、俺の体に現れたスキルは【研ぎ】だった。協会の測定の石板に出た文字の横には「生活系・戦闘適性なし」とあって、説明書きは一行、「刃物の研磨作業の効率がわずかに上がる」。
そういうスキルの持ち主は、だいたい武具メーカーの工場に誘われる。俺もそうだった。
回る人造の砥石の前に立ち、ベルトで流れてくる迷鋼の剣を一本ずつ当てて、指示書の寸法まで削る。機械に刃を当てても、俺のスキルは何もしない。ただ、少しだけ不良が減る。会社が俺に払っていたのは、その少しの分だ。
休み時間には、ラインの端の「やり直し」の台に回ってきた刃を、自前の砥石で手で仕上げていた。研ぎむらのある刃が、そのまま箱に詰められて持ち主に返っていくのが、どうにも見ていられなかったからだ。
課長はそれを知っていたのかどうか。知っていても、数字に関係なければどうでもいい人だった。
「……分かりました」
争う気はなかった。争って勝ったところで、俺はまたあの回る砥石の前に立つだけだ。
それより、頭にあったのは市川の店のことだった。
◇
寮の部屋の荷物は、段ボールと砥石の箱で片付いた。
船橋から電車を乗り継いで市川へ戻り、国府台の方へ歩く。江戸川の土手が見えてくるあたりから、通りの様子が変わる。
十二年前、江戸川を見下ろす崖の下に、ダンジョンが口を開けた。協会が入口を囲って建てた「門」の周りは迷宮特区になっていて、探索者証を持つ人間は武器をケースから出して持ち歩ける。
国府台門前通り。昔は八百屋と床屋と布団屋が並ぶだけの小さな商店街だった通りを、今は剣を腰に下げた若い男や、大きな盾を背負った女が普通に歩いている。協会の買取所の前には行列ができていて、角の布団屋は探索者向けの防具の店になっていた。
その通りの真ん中あたりに、昔のままの店がある。
坂井刃物研ぎ。
色の褪めた暖簾をくぐると、研ぎ汁と番茶の混ざった匂いがした。
帳場の奥に、じいちゃんが座っていた。
坂井辰造。若い頃に浅草の研ぎ屋で修業して、この店を構えた研ぎ屋だ。
湯呑みを持つ手が、細かく震えている。何年か前から、じいちゃんは刃を砥石に当てられなくなった。今は近所の包丁を預かって、どこかへ出しているのだと電話で聞いていた。
じいちゃんは俺の顔と、足元の段ボールを見た。
「クビか」
「うん」
「なら、研げ」
それだけだった。じいちゃんは湯呑みを置いて、帳場の帳面に目を戻した。
「預かった包丁、どこに出してたの」
「松戸の研ぎ屋だ」
「上手い?」
「下手くそだ。返りも落とさねえで返してきやがる」
じいちゃんは帳面をめくりながら、苦い顔をした。下手くそだと分かっていても、自分では研げない。それがどれだけ腹の立つことか、俺には少しだけ分かる。
俺は奥の研ぎ場を覗いた。研ぎ桶の水は抜かれて乾いていて、砥石は布をかけて棚に並んでいた。人造の荒砥と中砥。それから、じいちゃんが長年使ってきた京都の天然の合砥。薄くなった石の面に、蛍光灯の光が鈍く映っている。
八つのとき、両親が別れて、俺はこの店に預けられた。同じ年にダンジョンが開いた。最初のうちは、砥石の面を平らに直すことと、研いだ包丁の返りを指で探すことしかさせてもらえなかった。
懐かしいと思うより先に、手が石の面を撫でていた。
◇
夕方、店の戸が勢いよく開いた。
「すみません、大将、まだ開いて――」
駆け込んできたのは、白いジャケットに紺の脚絆の、探索帰りの格好の女の子だった。栗色の髪を後ろで一つにまとめていて、胸に刀袋を抱えている。
俺を見て、その子は戸口で固まった。
「……直くん?」
「灯か」
三輪灯。二軒隣の定食屋、みわ食堂の娘だ。俺がこの店に来た年に知り合って、それから何年も「直くん、直くん」と後ろをついて歩いていた。工場へ行ってからは、ほとんど顔を合わせていない。
その灯が、今にも泣きそうな顔をしていた。
「帰ってたの? なんで?」
「クビになった。今日」
「えっ」
灯は一瞬だけ自分のことを忘れた顔をして、それから刀袋をぎゅっと抱え直した。
「ごめん、それどころじゃないのに。あの、大将に聞きたくて。この刀、研げる人、知らないかなって」
灯は大学に通いながら、大学の仲間とパーティを組んで潜っているのだという。今はD級。C級の審査を受けるには第五層まで行った記録が要るのに、第四層の主が育ちすぎて、階段の前を塞いでいる。
「明日、みんなで挑むつもりだったの。でも、刀が滑るの。ずっと。だから鷹取の窓口に研ぎ直しに出したら」
灯の声が、少し震えた。
「寿命です、って。あと一回研いだら折れます、新品をお勧めします、って。新品なんて、四十八万だよ。それにこれ、お父さんの刀なの」
じいちゃんが帳場から、俺の方を見た。何も言わない。
俺は灯の腕から刀袋を受け取って、鞘を払った。
迷鋼の刀。刃元に鷹取の銘がある。古い型で、まだ工場の機械が今ほど揃っていなかった頃のものだ。
蛍光灯の下で、刃の地を見る。
白く濁っている。魔物を斬るうちに、魔素が刃の表に移って溜まった「曇り」だ。研ぎ直しのたびに機械で削られて、刃は確かに痩せている。それに、刃先の片側にだけ寄った、細かな欠けが並んでいる。
けれど、刀身の厚みはまだある。棟から刃先へ落ちていく肉の線も、まっすぐ通っている。
刃を光にかざしたまま、指の腹で刃先をそっとなでる。引っかかりはない。返りが残っていないのはいいが、刃先そのものが丸く寝ている。機械で削ったあと、仕上げの砥石をろくに当てていない手触りだった。
工場のラインで、こういう刃を毎日見た。一時間に六十本を流すには、仕上げに回す時間がない。
これを寿命と呼ぶなら、工場で俺が見てきた刃の半分は、とっくに寿命だ。
灯が、息を詰めて俺の顔を見ていた。
「折れない。曇ってるだけだ」
お読みいただきありがとうございます。工場をクビになった研ぎ屋が、祖父の店で最初の一本を手に取りました。続きが気になったら、ブックマークと、下の☆での評価で応援してもらえると嬉しいです。




