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『藤壺』との対面*其の七


 相手のお世辞に全力で乗っかるのは、的外れな返答とまではいかないけれど、お世辞を言われている張本人が居た堪れないものだ。端正で流麗だのと褒めそやされても、それを言っているのが嫉妬するのも馬鹿馬鹿しくなるレベルの美女と来れば、「あなた様の前では霞む程度のものに過ぎません」としか思えないし返せない。僻みではなく、割と本気でそう思う。

 水羊羹をどうにか食べ終え、空になった小皿を衝重に置いてから、葵はさり気なく扇を広げた。


「わたしなど、紫苑様の御前では、ものの数にも入らぬ身ですわ。当代一など、畏れ多うございます」

「溢れんほどの才気に満ちていらっしゃるのに、葵様は謙虚なのね。宮様腹の左府の子として生まれ、しかもそれほどお美しいとなれば、他に何もなくとも栄華は約束されたようなものでしょうに。言っておくけれど、先ほどの言葉は全て本心よ? 特に葵様の所作の美しさは、思わず見惚れてしまうほどだったわ」

「……わたしの、所作ですか?」


 言葉の意味がよく分からず、そのまま疑問形にして発した問いに、紫苑だけでなく周囲の女房たちも一斉に頷く。


「そうよ。わたくしに招かれて、葵様が御簾へ入っていらっしゃるまでと、入られてからの所作は、本当に優美だったわ。特に、御簾をくぐられるときの足のお運びは、とても滑らかで洗練されていて、わたくし、不躾なのは分かっていたけれど、目が離せなかったもの」

「そう、だったのですね?」

「内裏では、女御同士で御簾内に招いたり、招かれたりするでしょう? わたくしは圧倒的に誘う方が多いから、自然と入ってくる方を観察する癖がついているのだけれど、葵様のお振舞いは女御たちよりずっと優美でいらしたもの。――左府の姫で、光君の妻でいらっしゃる葵様が、普段御簾内に〝招かれる〟ことなど、そうそうないでしょうに」

「……そう、ですね」


 先ほどから、褒め殺され過ぎて、そろそろ息の仕方が分からなくなってきた。通常、貴族の女人が努力の〝裏側〟を語ることははしたないとされているけれど、ここで何も言わずに帰れば、宮中で「源中将の妻は、宮中の女御たちより作法に優れている」なんて噂が一人歩きし、女御たちからどんな恨みつらみを買うか分からない。呪詛の種まき、ダメ絶対、である。


「お褒めのお言葉はとてもありがたく存じますけれど、実を申せば、それほど大層な話ではないのです。わたし、よく母の住まいへ話に出向くのですけれど、母は作法に厳しい方ですから、きちんとした振る舞いができませんと、御簾内まで入れて頂けませんの。母の薫陶あっての所作ですから、讃えられるべきなのはわたしではなく、わたしを育てた母ですわ」

「……そうでしたのね。さすがは主上の妹宮様ともなれば、姫君に対する礼儀作法の躾も、最高級でいらっしゃるのでしょう」

「はい。わたしはただ、生まれが恵まれていただけです」

「本当に慎み深くていらっしゃるけれど、その生まれを軽んじることなく受け止め、当代随一の賢姫へとご成長あそばされたのは、葵様ご自身の才覚でしょう。少しはご自身を認めてあげないと、葵様がお可哀想よ」

「……恐れ入ります。紫苑様のお優しいお言葉、とくと胸に刻みます」


 口を挟みようもない正論をぶつけられては、さすがに返す言葉がない。似たようなことを折に触れて椿にも叱られており、ここらが引き時だと察して、葵は軽く頭を下げた。その殊勝な態度に満足したのか、紫苑は扇を閉じてにっこりと笑う。


(……あ)


 その、曇り気のない笑顔が。


(……確かに、似てる)


 ごく自然に、北山の姫君――紫と、重なって。

 葵は思わず、言葉を忘れ、紫苑の顔をじっと見つめてしまった。

 先ほどと違う雰囲気を感じ取ったのだろう。紫苑が不思議そうな表情で、軽く首を傾ける。


「葵様? どうかなさったの?」

「――あ、いえ! 大変失礼いたしました」

「失礼なことは、ないけれど。何か気にかかることでも?」

「……実は、僭越ながら。紫苑様に、お話ししたいことがございまして」


 紫の存在を紫苑へ伝えておくという話は、行きの牛車の中で光にもしてある。何かあれば、彼がフォローしてくれるだろう。

 チラリと御簾向こうへ視線を流せば、万事了解したという風情で、光がこちらを見つめている。その視線に勇気をもらい、葵は少しだけ、身を乗り出した。


「少し前に、夫がわらわ病を患いまして。祈祷のため、徳の高い聖がいらっしゃるという、北山へ赴いたのですが……」


 前置きもそこそこに、葵はテンポよく、北山に住まう僧侶の庵へ招かれ、そこに彼の妹尼と、妹尼の孫姫がいたこと、その孫姫は兵部卿宮――紫苑の同腹兄の娘だったことを話していく。

 話が進むほどに、紫苑の表情は驚きと、兄への呆れで染まっていった。


「尼君は病篤く、明日をも知れぬ身でいらっしゃいましたが、娘御に辛く当たった兵部卿宮の北の方へ孫姫をお預けすることに、強い不安を抱いており……孫姫の行く先だけを案じ、涙をこぼしておいででした」

「そんな姫君がいらしたなんて……」

「そうなのです。孫姫様にもお目にかかりましたが、姪御様でいらっしゃるからか、紫苑様とどことなく顔立ちの似通った、お可愛らしい方でしたよ」

「まぁ。そのような姫を不遇な状況のままにしているなんて、我が兄ながら、なんと情けないこと」


 これまでに比べて強い口調で言葉を発してから、紫苑は深くため息をついた。


「よく話してくれました、葵様。お兄様が北の方以外の方と子を儲け、その方を死なせ、独り遺された子を冷遇しているなんて、わたくしちっとも知らなかったわ」

「男の方は、家内の不祥事を外へ漏らしたがらぬものと聞きますから……」

「そうは言っても、お兄様の北の方が大層悋気の激しい人だというのは、京中とはいかずとも、内裏中の者が知っていてよ。――光君もご存知でしょう?」

「……兵部卿宮の北の方が、相当にご気性の激しい女人だという話は、何度か聞いたことがありますね」

「それもあって、お兄様は他に妻を持たれることもなければ、お外に恋人を作られることもなさらないと聞いていたのに。まさか、こっそり女人のもとへ通い、子をなし、北の方にバレてお相手を追い詰め、心痛で死なせていたなんて。とんでもない話よ」

「尼君も、北の方様と娘御の仲が良好であったなら、迷いなく孫姫を兵部卿宮へお預けになったでしょうけれど……」

「尼君の判断が正解だと思うわ。わたくしも何度か顔を合わせたけれど、あのような方が継子を、しかも美しい姫君を引き取ってしまったら、間違いなく〝落窪姫〟にしてしまうでしょう」

「僭越ながら、わたしも同意見です」


 継子イジメの古典代表作、『落窪物語』。継母にイジメられている美しく高貴な姫が、当代一の貴公子に見初められて幸せになるという、平安版シンデレラストーリーだ。葵の『前世』でも古典文学の一つとして伝わっており、その作年は『源氏物語』よりも旧い。だからかは不明だが、『源氏物語』を下敷きにしていると思われる今世において、『落窪物語』は貴族から庶民まで広く知られている娯楽作品の一つとして親しまれていた。

 継子イジメといえば『落窪物語』という連想が成り立つほどメジャーな話なので、紫苑も例に出したのだろう。言われてみれば、気性が荒く意地悪な継母が、美しく気立ての良い継子を引き取るというシチュエーションは、まさに『落窪物語』そのものだ。


「幸い、滞在期間を通して、尼君や孫姫様とは、文を交わし合う間柄となれました。これもご縁ですし、何かお困りのことがあれば、わたしにできる範囲でお手伝いできればと考えております」

「ありがとう、葵様。何か身内の手が必要なことがあれば、遠慮なくわたくしに知らせて頂戴。宮中にいても、できることはあるから」

「頼もしいお言葉、大変心強く思います。お言葉に甘えて、何かありましたら、またご相談させてくださいませ」

「もちろんよ」


 紫のことを話し合っているうちに、気づけば日は大きく傾いていた。いつの間にか外は暗くなり、夜風が肌を撫ぜてくる。


「まぁ、もうこんな時間。こんな遅くに、光君と葵様をお返しするわけにはいかないわ。夕餉とお湯を用意するから、今日はよければ、泊まっていってちょうだい」

「いえ! お見舞いに参上した身で、図々しくもそこまでご厄介になるわけには」

「お見舞いにいらしてくださったからこそ、よ。わたくしを、お客人も満足にもてなせない女にさせないでくださいな」


 ……女御にそこまで言われては、断る方が失礼になる。どうしようかと光を見れば、御簾越しにも思索している様子であったが、しばらくの沈黙を数えた後、彼はゆっくりと顔を上げた。


「では、お言葉に甘えまして。今夜一晩、お世話になってもよろしいでしょうか?」

「えぇ、光君。どうぞゆっくりしていらして」

「就寝する際は、妻と同室でお願いいたします。私たち夫婦は、外泊の際も部屋を分けてはおりませんので」

「ふふ、聞いておりますよ。紀伊守の邸へ葵様を連れて方違えへ行かれ、ひと時たりとてお側からお放しにならなかった、と」

「……色々誇張された噂ですわ」

「えぇ。不本意ながら、離れた時間もありましたね」


 夜闇が邸を包む中、紫苑の明るい笑い声が、邸内に響く――。


次回より、新章です。

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