『藤壺』との対面*其の六
光と葵の言葉を聞いた紫苑は、嬉しそうに何度も頷いている。
「そうね。宮中料理は目新しいものもそうないし、左大臣邸のお料理を宮中でも楽しめたら、日々に張り合いが出そうだわ」
「紫苑様にそのようなお言葉を頂戴できるとは、光栄の極みに存じます」
「大袈裟よ、葵様。でも……これほど特別なお料理ですし、里下がりのときの楽しみに取っておくのも、また一興でしょう。左大臣の配下たちに、あまり負担も掛けられないものね」
とても遠回しではあるが、紫苑の言葉はつまり、今後もし里下がりすることがあれば、左大臣邸の料理を〝見舞い〟に、また訪れてほしいというお誘いだ。さすが、長年後宮の中心にいた紫苑は、宮中貴族の話法も洗練されている。
「かしこまりました。また紫苑様とお話しできるその日まで、より腕を磨いておくよう、家内の者たちに伝えておきます」
「ふふ、楽しみだこと。……それにしても、こんなにたくさんあると、どれを食べようか迷ってしまうわね」
折敷に乗った涼菓子たちを楽しげに眺めつつ、紫苑が選んだのは、鮮やかな緑の小皿に乗ったまん丸の水饅頭だ。完全に透明な甘味というのは、平安の常識から考えてみれば、なるほど目新しい。
「こちらは、なんという名前のお菓子なの?」
「はい、紫苑様。菓子の見た目にちなみ、〝水饅頭〟と名付けました」
「水饅頭……確かに、見た目通りのお名前ね。――お持たせになってしまうけれど、良ければ葵様と光君も選んでちょうだい? ご一緒に頂きましょう」
「ありがとうございます、紫苑様」
「感謝いたします、女御様」
御簾の内と外からそれぞれ礼を述べ、女房たちがまずは光へ、次は葵へ、掛盤を運んでいく。その間に別の女房たちが衝重――お月見団子を乗せる三宝がそのまま大きくなったような、食事の皿を置く台――を持ってきたりと、しばらく人の出入りが続いた。
ちなみに、光と葵が選んだのは、どちらもオーソドックスな小豆の水羊羹だ。見舞いを持ってきた側が、いくら勧められたからといって、珍しく価値のあるものを貰わないのもまた、礼儀の一つ。……こうなるパターンも予想したのか、シンプルな小豆の水羊羹は結構な数が用意されていて、葵は内心ほっとしつつ皿を示した。
「では、わたしはこちらを」
「かしこまりました」
女房が葵の選んだ小皿を衝重に乗せ、葵の前へ丁寧に置いてくれた。いつの間にかやって来た新しい女房は、手に杯の入った折敷を掲げている。紫苑が密かに、飲み物を持ってくるよう指示していたのだろう。
その予想は正しく、折敷を掲げた女房によって爽やかな薄黄緑色のお茶が入った杯が配られたのを待ってから、葵は改めて、紫苑へ軽く頭を下げた。
「ご丁寧にありがとうございます、紫苑様。却ってお気を遣わせてしまい、申し訳ございません」
「まぁ、何を仰るの、葵様。せっかく甘味があるなら美味しいお茶を飲みたいと、わたくしが思っただけよ? 気なんて遣ってませんから、どうか畏まらないで」
「そんなことより、さっそく頂きましょう?」という紫苑の言葉を合図に、しばしのおやつタイムが始まる。とはいえ、この場で最も位が高いのは紫苑だから、彼女が水饅頭を口に運ぶまで、光と葵は申し訳程度に白湯を口に含みつつの様子見だ。
そんな紫苑は、お世辞でなく水饅頭が気になるようで、さっそく小皿と匙を持ち、新しいお菓子を切り分けて口へと運ぶ。
「! まぁ、とても美味しいわ。透明なのに甘くて、喉越しも良いのね」
「恐れ入ります。内側には白餡も入っておりますので、どうぞ、味の違いを楽しみながらご賞味くださいませ」
「中に入っている半透明の白いものは、白餡だったのね。けれど、とても不思議だわ。水のように色がないのに、こんなに甘くて、なのにつるんと喉へ入ってしまうのだもの。どうすれば、このようなお菓子が作れるの?」
「ところてんに使われる、テングサという海藻を用いております」
「テングサ? でも、海藻をそのまま使ってしまったら、海藻の色が出るでしょう?」
「その通りです。しかしながら、当家の使用人たちの尽力により、テングサを加工することで、水をこのように喉越しよく固めることのできる粉末を作ることに成功いたしました。加工の過程でテングサの色も抜けますので、このように、色を変えぬまま、水を様々な形に固めることができます」
「……素晴らしいわ。葵様のお手元にある羊羹も、その粉を使って固めたの?」
「さすがのご慧眼ですわ。小豆餡を使った羊羹は、通常、漉し餡をさらに煮詰めて水分を限界まで飛ばしたものを型に押し込み成形いたします。そちらも大変に美味ですが、夏場に食べるにはどうしても重く感じ、試しに粒餡を多めの汁で似た液に件の粉末を混ぜ、冷やし固めてみたところ、喉越しの良い羊羹を作ることができました。――先にできていた〝水饅頭〟にちなみ、こちらは〝水羊羹〟と称しております」
「水饅頭に、水羊羹ね。名称も良いし、夏に食べるに相応しいお菓子だわ」
紫苑は本当に気に入ったらしく、会話の合間も匙を口に運ぶ手を止めず、葵が説明し終わる頃になると、それほど大きくなかった水饅頭は小皿の上からすっかり姿を消していた。もともと、種類を多く楽しんでもらおうと作られていたので、一つずつの大きさは小さめだったけれど、それを割引いてもかなり進みが良かったのは間違いない。
紫苑が食べ終わったというのに、葵がいつまでもチンタラしているわけにもいかず、会話が途切れた隙に葵もなるべく急いで――平安の姫は、急いでいてもそうとは気取られないようにしなければならないので動きは緩慢だが――水羊羹を食していく。御簾向こうから察してくれたらしい光が、「妻の用意したお見舞いはお気に召しましたか?」と会話を引き取ってくれたのが、とてつもなくありがたい。
「お気に召した、どころの話ではないわ。雇われているのが左府の邸でなければ、料理人を全員まとめて召し上げたいくらいよ」
「お気持ちは分かります。私も婚姻後、左大臣邸の料理を食すようになって、何度驚いたか分かりませんので。……しかしながら女御様、あの邸の料理は、料理人の腕もさることながら、先ほどお話しした粉末をはじめとする、〝左大臣邸にしか存在しない材料〟なくしては成り立たないものも多いのです。宮中での再現は容易ではありませんよ」
「お話を伺う限り、どうもそのようね。それにしても、海藻から水を固める粉を作るなんて、どうすればそんなことが思いつくのかしら。左大臣邸には、奇想天外な発想をお持ちの発明家でもいらっしゃるの?」
「…………えぇ、まぁ」
長い黙考の末、光は短い肯定だけを返した。目の前にいる妻がまさにその発明家です、と沈黙が語っているのは間違いないが、さすがに葵も、初対面の高貴な方に自身の特異性をカミングアウトすべきでないことくらいは分かるので、水羊羹が口に入っているのを幸い、無言を貫く。
「そうなのね。左府ほどの者なら、お抱えの発明家の一人や二人いても、おかしくはないけれど。葵様もお詳しくていらしたし、邸に住む者は皆、発明品に馴染んでいるみたい」
「あの邸の者にとっては、〝発明家〟の作品が身近にある暮らしこそが〝当たり前〟なのですよ。妻は主一家の者として、邸内の状態を常に把握しているに過ぎません」
「光君は本当に、できた北の方をお迎えされたわ。心映えが優れておいでなのはもちろんのこと、高位の女人としての所作も申し分なく、その上、端正で流麗な顔は、まさに当代一の美姫でいらっしゃるもの。光君と並べば、さながら男雛と女雛といったところかしら」
「さすがは女御様。出会って数刻で妻の美点をこれほど的確に見抜かれるとは、主上のご寵愛を一身に受けていらっしゃる方は、人を見る目もずば抜けておいでです」
「……恐れ入ります、紫苑様。夫がまた、失礼なことを」
話題が急に葵自身のことへスライドしてきて、居心地が徐々に悪くなって来たトドメとして、謙遜もへったくれもない光の惚気が落ちてきた。光が本音で話しているのは間違いないが、高貴な女人から妻や身内を褒められた場合、嘘でもそれ以上に相手を持ち上げるのが作法である。




