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『藤壺』との対面*其の五


「ちょっと待って」の言葉に従って大人しく待つことしばらく、御簾の中の人影の位置が変わり、その後、その御簾自体がくるくると、紫苑の胸元辺りまで巻き上げられた。

 光と二人で目を丸くしていると、御簾の向こうで紫苑が手招きするのが見える。


「せっかくの甘味だもの。葵様と頂戴したいわ。良かったらどうぞ、こちらへいらして?」

「し、紫苑様と同席を……?」

「もちろん、気が進まないなら無理にとは言わないけれど」

「とんでもございません」


 初対面で御簾内を許されるなど、葵の身分を割り引いても破格の待遇である。これを蹴るなど、それこそ失礼極まりない。

 チラリと光へ視線をやれば、彼も驚いていたようだけれど、微笑んで頷いてくれた。理解のある夫に感謝しつつ、葵は畳に手をつき略礼する。


「お招きに預かり、恐悦至極に存じます。お言葉に甘え、同席させてくださいませ」

「本当? 嬉しいわ。――こちらへどうぞ」

「はい」


 立ち上がってゆっくり歩き、御簾手前でもう一度座って略礼をしてから、今度は膝を使って静かに前進する。自分より身分高い人と同席する際の作法だが、葵の身分でここまで遜ることは滅多にないため、高位の姫であればあるほどうっかり忘れがちな立ち居振る舞いベストファイブに入ると思っている動作の一つだ。この身体のスペックはもともと高く、一度覚えた作法を忘れることはそうそうないけれど、アラサーまで生きた前世が「反復練習大事!」と告げてくるのもあって、忘れがちな動きは母宮相手に定期練習していた甲斐あり、無事に納得する振る舞いができた。

 葵と、葵の背後から〝見舞い品〟を掲げて入ってきた楓を迎え入れてから、御簾は再び降ろされた。用意された円座(わろうだ)に座り、葵は目で楓に合図し、〝見舞い品〟を手元まで持ってきてもらう。

 品を手元に置いたところで顔を上げると、斜め前正面で一段高い畳を敷いて座っている、とんでもない美人と目が合った。


(う……っわぁ。これは何というか……世間一般で言うところの、〝楚々としてたおやかな清らか美人〟の完成形って感じ……)


 美しく整ったアーモンド型の目に、程よく通った鼻筋。

 ほのかな薔薇色に染まった頬に、血色よく瑞々しい唇。

 一つ一つのパーツから配置まで限りなく完璧で、ここまでレベルが違うといっそ嫉妬する気にもならないような美人が、こちらをじっと見つめている。その完成された美しさは光と通ずるものがあり、なるほど、並べば血縁者にも見えそうだ。――彼女こそが、紫苑その人で間違いない。


(今の帝って、もしかしなくても、究極の面食いね?)


 光の母は紫苑とそっくりだったらしいが、実際彼女を目の当たりにしてみると、「そりゃこんなとんでもない爆美女見たら、他の女なんか目に入らんわな」という感想しか浮かばない。それくらい、彼女の〝美〟はとんでもなく極まっている。


(こんな美人と子どもの頃から親しくしてて、でも成人したら気軽に会えなくなって、けれど常に気配は感じられる距離で……ってなったら、そりゃ『光君』じゃなくても情緒は歪むし、異様なレベルで執着しても無理ない、かしら?)


 だからといって無理やり襲うのはどう足掻いても擁護できないが、紫苑が男を容易く狂わせそうな美貌と気配を纏った〝美人〟であることだけは、どうやら疑いようがない。


 ――紫苑と目が合って、葵がここまで思考を巡らしたのは、時間にしておよそ数拍程度だったろう。沈黙としては長い部類に入るかもしれないが、ステージの違う美人に思わず感嘆した時間と思ってもらえれば、それほど不自然ではないはずだ。

 ……が。


(……え? えっと?)


 何故か紫苑の方も――紫苑だけでなく彼女の周囲に侍っている女房たちも一様に、こちらを凝視したまま動作を完全に停止しているのだ。悪感情ゆえの停止でないことは分かるが、どうにも落ち着かない心地になってしまうのは致し方ないだろう。

 どうすべきか少し考えてから、葵はほんの少し小首を傾げ、紫苑へ微笑みかけてみた。


「あの……紫苑様?」

「!」


 呼びかけたことで我に返ったのか、紫苑が動きを再開させた。手元の扇をはらりと口元へかざし、彼女は緩やかに目礼する。


「失礼しましたわ、葵様。ごめんなさいね」

「いいえ、とんでもございません。――こちら、お話ししました、お見舞いの甘味にございます。どうぞご査収くださいませ」


 まずは招かれた用事を済ませるべく、葵は目の前にある掛盤(かけばん)を、そっと手のひらで前へ押し出した。掛盤とは平安時代の貴人が使っていた一人用の食事机のようなもので、四本足のために安定性が高いのが特徴だ。今回は女御への捧げ物であるため、掛盤の上に食事を乗せる折敷(おしき)と呼ばれる盆を置き、その上に作ってもらった菓子類を並べて、埃を被らないように蒔絵(まきえ)の箱で覆って持ってきた。さすがは左大臣家の料理人というべきか、菓子の届け先が宮中で今をときめく〝藤壺女御〟と聞いただけで、何の指示を出さずとも万事滞りなく見舞い品として完璧に整えるのだから、「左大臣家の使用人の水準は高い」という光の言も、あながち身内の贔屓目ではないのかもしれない。

 その、完璧に整えられた〝見舞い品〟を見て、紫苑は控えている女房に目で合図する。合図を受けた女房が葵の前まで進み出て、一礼してから掛盤ごと受け取り、紫苑の目前へと運んでいった。……葵が直接紫苑へ渡せば話は早いのだけれど、しつこいようだがこれも、貴族女性が物を贈る際の作法なのである。


「ありがとう、葵様。拝見しますわね」


 受け取った紫苑が礼を述べるのを待って、掛盤を運んだ女房が、覆いである蒔絵の箱を持ち上げる。――その内側にあったのは。


「まぁ……! なんて可愛らしいの。それに、見たことのないお菓子ばかりだわ」

「お気に召されましたら幸いです。紫苑様のご回復を願い、当家の料理人たちが一つ一つ、心を込めて作って参りました」


 形も色も様々な小皿にそれぞれそぐうよう作られた、色とりどりの水羊羹。羊羹といえば主な材料は小豆だが、葵の『アーカイブ』には、様々な変わり種の水羊羹や水饅頭、わらび餅や葛餅といった、いわゆる〝涼菓子〟のレシピが入っていた。それだけでなく、そういった涼菓子作りには欠かせない寒天の原材料であるテングサについても、詳細な情報があったのだ。『前世』の〝彼女〟が一時期、体型を気にする妹たち向けに、カロリー控えめの和菓子類について調べ尽くしていた成果であろう。

 そのため、『前世』では江戸時代に発明された寒天と、寒天を使った様々な料理および菓子類を、左大臣邸ではかなり前から楽しめていた。特に夏場は、ツルッと食べられるところてん系列や水羊羹系列が大人気なのだ。

 今回、紫苑用に料理人たちが作ってくれたのは、オーソドックスな小豆を使った水羊羹をはじめ、グミや杏、林檎といった果物類を使ったフルーツ寒天に、透明感が目に楽しい水饅頭。寒天系ばかりでは飽きるだろうと、蜜をかけて食べるわらび餅や葛餅も用意されていた。もちろん、かける蜜も何種類か取り揃えるという豪華仕様だ。


「素晴らしいわ……。左大臣邸の料理は他に類を見ないと聞いたことがあるけれど、甘味一つ取ってもまるで違うのね」

「恐れ入ります。腕の良い料理人たちが尽くしてくれるおかげですわ」

「そうはいっても、主人である左府や宮様が使用人たちのお心を掴んでいなければ、これほど丁重な仕事をしてはくれないでしょう。宮中での評判以上に、左大臣邸は主一家から使用人たちまで、優れた人たちが揃っているのね」

「お望みであればいつでも、宮中の方々へ、調理法をお伝えします」

「……そうですね。宮中料理として出すには難しいものも多いですが、女御様へ個人的にお作りする分には問題ないでしょう」


 葵の言葉に、光も御簾の外から口添えしてくれた。確かに、寒天は大量生産の目処が立ちつつあるけれど、左大臣邸で使っている材料の中には大勢へ供給するのが難しいものもあるので、その辺の線引きは大切かもしれない。


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