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『藤壺』との対面*其の四


 この世界の〝幼名システム〟に関しては、葵の『前世』の『平安時代』とも違う。そのため、うっかり『前世』の常識で振る舞って奇異に見られることがないよう、転生を自覚して割とすぐの頃、真剣に周囲から聞き取った。

 葵の母はいかにも育ちの良さを感じさせる、世間一般がイメージする〝皇女〟の具現者のような女性だが、それゆえに皇家と内裏については詳しい。その母が「後宮の、特に主上のご寵愛深い方のことは、仮に名乗られてもはっきりしたお許しが出ない限りは、お部屋の名前でお呼びするのが無難」と教えてくれたのだから、それが通例で間違いはないはずだ。


 ――つまり。


(女御様……紫苑様は、わたしを、通例を超えて親しくしたいと思う程度には、気に入ってくださったということかしら?)


 もしくは、単なる〝息子の嫁〟への気遣いか……。

 いずれにせよ、女御から名を許された以上、意向に沿わず会話を続けることは、却って失礼になってしまう。

 葵は感謝を込め、もう一度深く、最敬礼した。


「主上のご寵愛深き女御様に御名を許されましたことは、この身の誉に存じます。――ありがたくお言葉を頂戴し、今後は紫苑様とお呼びさせてください」

「葵様は本当に真面目でいらっしゃるのね。ただ名を呼ぶだけのことに、そこまで畏まる必要はなくてよ。どうぞお楽にされてね?」

「では、お言葉に甘えまして」


 返事をしてから身体を起こし、葵は穏やかに、御簾向こうへ微笑みかけた。――なお、上流貴族の会話の作法的に、とてつもなく分かり難いがここまでが〝導入〟となる。

 葵と同じく、上流の作法が骨の髄まで染み付いている光も、今が話を切り出すタイミングと察したのか、改めて姿勢を整えた。


「妻に温かいお言葉を頂戴し、私からもお礼を申し上げます。――お身体の具合が優れない中、これほど手厚くもてなして頂き、感無量に存じますれば」

「こうして直答をお許し頂いておりますが、紫苑様、お身体の調子は如何でございましょう? もしもお辛いようであれば、どうぞわたしどもにお気遣いは無用ゆえ、お楽にお過ごしくださいませ」

「光君、葵様、優しいお言葉をありがとう。確かに数日前から気分の優れないことが多くて、思い切って一度、里下がりすることにしたのだけれど、それほど重篤な状態ではないのよ。里へ下がってからは、人目もそれほど気にならないからか、随分と心穏やかに過ごせているわ」

「それは、何よりにございます」

「紫苑様は主上にとって至上のお方ゆえ、宮中では何かと、気の休まらぬことも多いのでしょう。お里へ下がり、心身をゆっくりとご養生なさるのは、何よりの薬かと」

「そう、かしら? ……とはいえ、里へ下がれば下がっただけ、口さがない者たちはこれ幸いと、主上に侍るには不適格と、わたくしのことを責めるのでしょうけれど」


 御簾で仕切られて表情までは見えないけれど、そう語る紫苑の口調は、いかにも沈んでいる。聡明な彼女は、直接面と向かって言われたことはなくとも、主に右大臣方の人々が〝藤壺女御〟を蹴落とすべくあれやこれやと画策していることは、とっくの昔に把握済みらしい。

 更衣であった光の母は、その身分ゆえに直接的な攻撃を受けて心身を病んだが、先帝の皇女である紫苑は、少なくともその身分が強力な盾となり、危害を加えられることはなかったはずだ。……が、あくまで〝直接〟攻撃されないだけで、相手を遠回しに貶め、蹴落とす術などいくらでもある。

 あるし、むしろ。


(平安貴族の真骨頂って、『前世』も『今世』も、そういういやらしい搦手での策略にあるものね……)


 少なくともこの世界の〝弘徽殿女御〟は、相手が皇女だからといって大人しく日陰者に甘んじるような性格ではない。一度隙を見せれば最後、その隙をどこまでも突いて来るだろうことは予想がつく。

 そんな〝敵〟から四六時中見張られている生活を続ければ、どれだけ立派な健康ハナマル優良児でも、気鬱になってむしろ当然ではないかと、葵はほんの少し、腹立たしい気持ちになった。


「口さがない者には、言わせておけばよろしいのですわ。紫苑様を存じ上げている者は皆、主上の愛妃に誰よりも相応しいお方でいらっしゃると、理解しております。里下がりという、女御様方に認められた権利を悪く言うなど、道理も弁えぬ愚か者の所業でしかございません。そのような愚か者には、いずれその振る舞いに見合った報いが訪れましょう」

「まぁ、葵様……」

「紫苑様が宮中にて、主上をどれほど支えてくださっているかは、外から窺い見ているに過ぎぬわたしのような者でも存じていることです。大変なお役目を果たしてくださっている紫苑様が具合を悪くされたというのに、心配どころか責め立てるなど……そのような不忠者の戯言などお気になさらず、どうかごゆっくり、ご自身を労って差し上げてくださいませ」


〝帝の愛を一身に受ける妃〟とは物語の定番でこそあるけれど、現実はそう簡単でも綺麗な話でもない。帝の愛を一身に受けている分、周囲からのやっかみだって一手に引き受けねばならないし、国の頂点たる人物の精神的支柱をたった一人で担うというのは、とんでもない重圧が彼女の肩にかかっていることを意味している。特に現帝は感情に振り回されやすい性質だから、紫苑がどっしり構えて彼を受け止めねば、たちまち不安定になるだろう。

 光と結婚したことで、結果的に宮中から距離を置いた葵だけれど、一度は京一の東宮妃候補でもあったのだ。女御が担う責任については、母宮から遠回しにうっすらと教わってきた。帝が慣例的に妃を複数娶るのは、権力均衡の意味合いが大きいけれど、女御たちが責任を分担し、一人一人の負荷を軽くする理由もある、と。そういった教育を受けてきたからこそ、東宮妃だった椿の話相手として白羽の矢も立ったわけで――と、今の事情は蛇足だが。

 だからこそ、分かる。情深く、自他の感情に溺れがちな今の帝を支える紫苑が、どれほど内裏に、ひいてはこの国にとって、大切な存在かということが。


「紫苑様がどれほど尊い存在でいらっしゃるか、(みやこ)で暮らす者であれば、それこそ庶民の幼子でも存じておりますわ。あなた様を悪く言う輩など、ごくごく一握りに過ぎません。忠義を尽くしていらっしゃる女房方ほどではなくとも、わたしも夫も、誠心誠意お支えして参ります」

「妻の申し上げた通りです。私にできることはお気軽にお申し付けくださり、女御様はどうぞ、御心安らかにお過ごし頂ければ」

「……葵様。光君も、本当にありがとう。まさか、そんな風に言ってもらえるなんて思わなかったわ」

「何を仰います。当然のことしか、申し上げておりませんのに」

「ふふ。葵様は本当に、生真面目で真っ直ぐな方なのね」


 紫苑の声が、どことなく潤んで聞こえる。声音も先ほどよりは随分と明るく、なんとか気分を上昇傾向へ持っていけたと、葵は胸を撫で下ろした。


「紫苑様。お加減が優れないとお聞きしておりましたので、この度はお見舞いに、喉の通りが良い甘味をお持ちしたのですけれど。女房殿へお渡ししてよろしいでしょうか?」


 気分が上向いたところに甘いものがあれば、さらに場の雰囲気は明るくなる。

 そう考え、ようやく〝お見舞い〟の品について切り出せば、御簾の向こうで紫苑の影が大きく揺れた。


「まぁ! わざわざお見舞いに、甘味をお持ちくださったの?」

「左大臣邸の料理人たちは、甘味作りが得意なのですわ。紫苑様のお口に合えばよろしいのですけれど……」

「葵様はとてもよく気の回る方ね。光君が心酔される気持ちが分かるわ」

「そうでしょう。さすがは女御様です」

「ちょっと光、今は口を挟まないで。――では、お品をお出ししますね」

「えぇ。……あ、ちょっと待って」


 何かを思いついた様子の紫苑が、扇の陰で女房たちに指示を出している様子が、御簾越しに分かった。


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