『藤壺』との対面*其の三
現実の〝藤壺女御〟と言葉を交わし、妙なところで『光君』に感情移入してしまった葵。
そんなことはもちろん知らない女御は、親しげに話を続けてくる。
「葵様は、今をときめく源中将の北の方でいらっしゃるのに、あまり貴族の女人たちの間で話題にならないのよね。中将があれほど大切にしている掌中の珠はどのような方かと、宮中でも度々噂されていてよ?」
「畏れ多いお話にございます。わたしはただ、たまたま左大臣の娘に生まれたことで、運よく中将の妻に選ばれたに過ぎない存在なれば……宮中の高貴な皆様方の耳目を楽しませるような特技もないつまらない身で、恥ずかしいばかりですわ」
「ご謙遜が過ぎましてよ。中将は何かと言えばすぐ、『妻に教わった』『妻の助言に従っただけ』と、北の方のことばかり話すのです。中将の立身出世を内助の功で支えておいでの葵様が、ただ身分で選ばれただけの、つまらない方であるわけがないわ」
「それはわたしではなく、心から妻を大切にしてくださる中将の心映えが優れているのでしょう。このひとは、生来の愛情深さゆえか、外の方へ少々大袈裟にわたしのことを話しているようですので」
「それは聞き捨てならないな。私はいつだって、本当にあったことを、その通りにしか話してないよ」
軽く唇を尖らせ、光が会話に参戦してきた。
止める間もなく、光は滔々と語り出す。
「私がこうして恙無く宮中で仕事をできているのも、左近衛を居場所とできているのも、全て葵が助言してくれたおかげだろう。葵に宮中でのお役目の大切さを説かれなければ、私は間違いなく主上の子という立場を笠に着て、適当な仕事をしていただろうからね。左近衛の皆は優秀だから、私一人がろくに働かない怠け者でも問題はなかったかもしれないが、自分の仕事を人に被せてばかりで感謝もしないような輩に、人望は集まらない。主上の子という立場に頭を下げられるだけの空虚な人間に成り下がる未来を防いでくれたのは、間違いなく葵だよ」
「……ちょっと、光。女御様の御前で、あまり個人的な話をするものではないわ」
「葵が葵自身を過小評価するのが悪い。宮中で葵のことを話すのだって、まるで私が一人で立っているかのように周囲が褒めちぎってくるから、訂正しているだけなんだ。心からの本音を言えば、葵が私と出逢って妻となってくれなかったら、出世どころか宮中での立場すら、私はどうでも良いからね。左近衛中将として立てているのは、全て葵の存在あってこそだと言うのは、冗談でも大袈裟に誇張しているわけでもなく、単純明快な事実に過ぎない」
「分かった、分かったから。今は女御様とお話ししましょう?」
恥ずかしさのあまり消え入りたくなったところで、御簾向こうから弾けるような笑い声が響いた。相当プライベートな話を(主に光が)していたけれど、どうやらその会話の何かが、女御の琴線に触れたらしい。
「ふふふふふ……実にお似合いのご夫婦だこと。北の方を悪く言われると光君が止まらなくなるのはいつものことだけれど、それは当の北の方がお相手でも変わらないのね」
「無論のことです」
「……いつものこと、ですか?」
「そうよ? 葵様もご存知だと思うけれど、光君には敵も多いわ。具体的には、弘徽殿の方を筆頭とした右府のお身内と、彼らに付き従う勢力ね」
「はい、存じております」
「光君が元服されて、葵様とご結婚なさった当時はね。光君に関わりある全てを悪様に言う品のない方々が、随分と多くいらしたのよ。左府も、当時は蔵人少将だった葵様の兄君も、『捨てられた皇子をわざわざ拾うなんて、左大臣家はなんとさもしいことか』と陰口を叩かれていたわ」
「なんてこと……そのように仰る方の心根の方が、よほどさもしくておいででしょう」
「本当に、その通りね」
深々と頷き、女御は御簾越しに真っ直ぐ、葵を見つめてくる。
「葵様のことも、ね。当時は、左府に正妻腹の娘御がいらっしゃることすら知らない人がほとんどだったから。『世間にろくな披露目もしないまま、臣籍降下した皇子と娶せるなぞ、どうせ大した姫ではない』とか、『作法も教養もさして仕込めず、容貌にも見るところがないような姫だから、東宮へ差し上げるのを諦めたのではないか』とか、それはもう酷いことを言われていたわ。――ところが、よ?」
「……ところが?」
「ご自身についてはどのように言われても受け流していらした光君が、葵様の悪い噂を聞いた途端、それはそれは恐ろしい怒りを見せられてね。光君の怒りに触れた者たちは、揃って閑職へ追い込まれ、出世の道を閉ざされたわ。何もしなければ、それなりの地位に登ったであろう者もいたけれど」
「…………、光」
ため息をつき、隣に座る光へ視線を流すと、彼はふいと明後日の方を向いた。
「当然の報いだよ。私の妻は、実際に会ったこともない女人を面白半分で悪く言うような連中に、軽んじられて良いひとではないのだから」
「あなたの気持ちは嬉しいけれど、そういう連中はどれだけ駆逐したところで完全に消えはしないし、下手をすれば反発して増えかねないから、無視が一番だっていつも言ってるでしょう?」
「だから、私に関する噂の数々は、特に触らず放置しているさ。けれど、宮中で実際に働いて、噂が根も葉もないと示せる私と違って、葵の噂は放っておけば、葵を知らない人の間でどんどん尾鰭がついて、不名誉な広まり方をしかねないだろう?」
「わたしの悪い噂はあなたの不名誉にもなりかねないから、否定するくらいなら問題はないけれど。噂を流した人を探し出して、出世の道を閉ざして人生終了へ追い込むのは、普通に過剰防衛よ。敵が多いの自覚してるくせに、自分から恨みを買うような真似してどうするの」
「……お恨み申し上げますよ、女御様。葵が知ったら間違いなくこう言うと分かっていたから、害虫駆逐は宮中内で完結させ、家には持ち込まないよう腐心しておりましたのに。まさか、女御様から明かされるとは」
「あらあら」
先ほどからずっと、女御は心底楽しそうだ。くすくすと笑い声を漏らした後、彼女はにわかに姿勢を正す。
「光君と葵様は、誠にお心が通じ合ったご夫婦でいらっしゃるのね。――本当のことを言うと、葵様のこととなると加減を忘れておしまいになる光君を、主上が密かに案じていらしたの。今回のお見舞いもそうだけれど、主上はわたくしを光君の〝母〟のように思ってくださっているからか、わたくし相手に光君のお話をよくされていてね」
「……そう、だったのですか。主上が、私のことを」
「主上も、光君の〝敵〟が増えかねないことを、憂慮しておいででしたよ。ですけれど、宮中での光君のご様子を拝見するに、止められるのは愛妻でいらっしゃる葵様、ただお一人ではと感じまして。せっかくこんな機会を得られたわけですから、この際、全てお話ししてみようと思ったのです」
「――女御様のお心遣いに、深く感謝申し上げます。宮中での振る舞いに関しましては、家に帰ってからゆっくり夫と話し合い、互いの意見を擦り合わせて参りたいと存じますわ」
「そうしてくださると嬉しいわ。――それと、」
次の瞬間、御簾越しでも分かるほど、女御は晴れやかな笑みを浮かべて。
「葵様、わたくし相手にそれほど構えず、気を楽にお話しなさってね。光君の妻でいらっしゃるなら、わたくしにとってもあなたは義娘のようなものだもの。どうぞ親しく、紫苑とお呼び頂けると嬉しいわ」
「……わたしのようなものに、女御様の御名をお許し頂けるのですか?」
「もちろんよ。そのために名乗ったのだから」
藤壺女御――紫苑の言葉は、軽い衝撃を葵に与えた。挨拶の際、確かに初手で名乗られはしたが、だからといって気軽に呼ぶには彼女の立場は重すぎる。女御という地位以上に、現帝唯一の愛妃という〝立場〟は、他に類を見ないのだ。葵の交友範囲の中では、先東宮の愛妃であった椿が立場的には一番近いが、やはり御位にある方とない方の妃では、そもそもの重さが違う。
(極端な話、愛妃の御名はご自身しか呼ぶことをお許しにならない帝もいらっしゃるという話だし……)
葵とて、腐っても皇女を母に持つ身。皇家のあれやそれやは母から何かと聞き齧っているのだ。




