『藤壺』との対面*其の二
いよいよ『藤壺』登場です!
左大臣邸の使用人について語る光の様子にヨイショの気配はなく、どうやら本気で〝宮中より水準が高い〟と思っているらしいことが伝わってくる。
目を丸くしたまま、葵は首を盛大に傾けた。
「そう言ってくれるのはありがたいけど、にわかには信じられない話だわ。ウチの使用人の水準が宮中よりも高いなんて、さすがに言い過ぎだと思う」
「左府への忖度で言っているわけではないよ。本心からそう感じてるんだ」
「……例えば、どんなところが?」
「そうだねぇ……」
一瞬言葉を区切った光だが、言いたいことを整理したかっただけのようで、すぐさままた語り出す。
「左大臣邸の者たちは皆、自分の仕事に対して誇りを持ち、常にできる最善を尽くそうとしているんだ。この仕事にどういう意味があって、自身が最善を尽くすことでどんな効果が見込めるのか、そこまで考えて動いていると言えば良いのかな。ただ漫然と仕事をこなすだけじゃなく、常に〝その先〟を見据えているからか、命じられる前から自発的に動く者もとても多いね」
「それは……確かにある、かも?」
「あと、単純に学がある者も多いだろう? 字の読み書きや算術ができる下働きの雑色なんて、普通はいないよ」
「あぁそれは、わたしがお父様にお願いしたの。この屋敷で働く人全員に、読み書きと算術を教えてほしい、って。わたしが作った道具類には、操作を誤ると危険なものも多くてね。だからと言って一人ひとりに説明して回るわけにもいかないし、伝言方式もどこかで大事な注意事項が抜け落ちるかもしれないじゃない?」
「……そ、そうだね?」
「結局、わたしが書いた注意書きを道具の近くにどーんと貼って、使う人全員が読めるようにするのが、いちばん手っ取り早くて安全って結論になったのよね。算術に関してはついでだけれど、数字に強くて困ることはないし」
ちなみに、左大臣邸では門外不出の条件で、現代式の算用数字と十進法、四則演算を伝授している。こちらも理由は簡単で、葵が作ったいくつかの道具は簡単な計算をしながら使う必要があるけれど、深く考えずに調整した結果、馴染み深い前世式の算用数字や四則を使う様式にしてしまったからだ。算術なんてものは学者が大学で研究するものとされている〝概ね平安時代〟において、貴族女性が算数、数学系の学問を学ぶ風習などそもそもなく、御多分に洩れず葵もこの世界の算術に疎かった。ゆえに、このような齟齬が起きたのである。
(ヤッベやらかしたー! と思って、このときばかりは『神託』で算数の知識を得たことにして、まずはお父様とお兄様相手に授業したんだっけ……なんか懐かしいなぁ)
現代算数が広まってしまったら、さすがにこの世界の健全な学問の発展を妨げかねない。その程度の危機意識は働いたので、使用人たちへ教える際は、「外の人へ〝左大臣邸式算術〟の詳細を教えてはいけない」と言い含めてある。とはいえ人の口に戸は立てられないので、いずれじわじわ広まることくらいは覚悟していたけれど、初めて現代算数を教えてから十年以上経った今でも、〝左大臣邸式算術〟が流出している気配はない。
「……左大臣邸の使用人たちの結束力が高いのは、主一家への恩義をそれだけ感じていることの証左かもしれないな」
「光?」
「要するに、葵は葵にしかできないやり方で、使用人たちの水準を高めていたということさ。誇って良いし、これまで通りに過ごしていれば、自然と今以上に左大臣邸の者たちは世間から認められていくと思うよ」
「そう……? まぁ、いつもウチに尽くしてくれている皆が、世間から良い評判を得られるなら、それに越したことはないけど」
話をまとめたところで、タイミング良く外から襖が叩かれた。入室の許可を求められ、光が了承を返す。
入ってきたのは、王命婦とは違う、別の女房だった。
「失礼いたします。女御様がいらっしゃいました」
彼女の言葉を合図に、御簾に向かって光が略礼を執り、葵は床に手をついて平伏する。女御に対し、臣下に降ったとはいえ今上帝の皇子である光は略礼で良いが、降嫁した皇女と臣下の間に生まれ、臣下に嫁いだ葵は明確に立場が下のため、正式礼を執る必要があるのだ。夫婦であってもそれぞれの立場によって礼が違う辺り、平安の礼儀作法も地味にややこしいといつも思う。
「女御様、お加減はいかがでしょうか。主上の思し召しにより、源中将がお見舞いに参上いたしました。――こちらに控えますは、私の妻、左大臣殿の大君にございます」
「女御様には、お初にお目にかかります。この度はわたしの同席をお許し頂けましたこと、幸甚の極みに存じます」
挨拶は下の者からという作法に則って光が、彼から紹介された流れで葵が、それぞれ口上を述べた。こんな畏まった挨拶をしたのは、地味に光との結婚以来かもしれない。
「――丁重なご挨拶、誠に痛み入ります。中将も北の方も、どうぞお楽になさってね」
御簾向こうから聞こえてきたのは、鈴の音の如く可憐な声。声だけでも分かる気品と格式高い雰囲気からして、どうやら藤壺女御直々に話してくれているようだ。
ひとまず彼女の言葉に従って視線を戻すと、顔は見えないものの御簾越しに、いかにも高貴な風情を醸し出す女人が座っているのが見えた。
「宮中でも評判になっている、中将の北の方にお会いできて嬉しいわ。主上の後宮にて藤壺を与えられております、紫苑です。今日はわざわざお越しくださり、どうもありがとう」
「勿体無いお言葉を頂戴し、恐悦至極に存じます。――改めまして、源中将が妻、葵と申します」
「葵様、と仰るのね。素敵な御名だわ、あなたにとても似合ってる」
「主上唯一の愛妃と名高い女御様からお褒めの言葉を頂戴したと知れば、父も喜ぶことでしょう。とはいえあまり捻った幼名ではなく、葵祭の頃に生まれたことにちなんで名付けられたと聞いておりますが」
「名付けの経緯も含めて、左府らしいこと。人身位を極めながら、あれほど権勢に固執せず、自然体でいられる人は珍しいけれど、父親としても変に構えたりはしないのね」
「そう……かも、しれません」
平安貴族の常として、葵は父左大臣とそう頻繁に顔を合わせているわけではない。両親ともに普段は不干渉で、何か用事があるときだけお互いに行き来する生活をしている。
そのため、家族の意識は前世に比べて随分と希薄だが、客観的に見た〝父左大臣〟は、良い意味で世界に対して変なバイアスや欲を抱かず、全てを〝あるがまま〟に見つめた上で受け止めている人だなと、昔から感じていた。もちろん、左大臣という立場上受け入れられないことも、認められないことも多いだろうけれど、ことの良し悪しはさておき、まずは目の前の有り様をそのまま受け止めた上で思索する寛容さが、彼にはある。
「女御様は、父とも親しくていらっしゃるのですか?」
「主上が最も頼みにしておいでの方ですから。わたくしも自然と、言葉を交わす機会は増えたわ。親しいというほどでもないけれど、よく話す方ではあるかしら」
「そうだったのですね。寡聞にして存じ上げず……いつも父と夫が、お世話になっております」
「あら。お世話されているのはわたくしの方だわ」
ころころ音を立てて笑う御簾向こうの彼女は、親しみやすくあるけれど、決して馴れ馴れしいわけではない。話す相手が不安にならず、思わず話を続けたくなるような雰囲気を纏ってはいるけれど、必要以上に踏み込んでこない距離感の保ち方はさすがだ。
(……なるほどね。こういう方だから、『原作』の『光君』は、あれほどの妄執に取り憑かれたのかもしれないわ)
親しく言葉を交わすことはできるのに、見たい心の内を覗かせてくれることもなければ、こちらの心へ踏み込んでくることも、差し出す心をもらってくれることもないのだ。手が届くようで、決して届くことのない様は、『光君』にとって諦め切ることもできず、かといって手を伸ばすことも止められない、苦しい恋だったに違いない。沼男ならぬ沼女とでも称するべき〝ハマりやすい〟女性だと、実際に話した葵も感じる。




