『藤壺』との対面*其の一
光、楓とともに福寿丸の操る牛車に揺られ、野萩と邸の料理人たちが心を込めて用意してくれたお見舞いを携えて、葵はいよいよ三条邸――当代の〝藤壺女御〟が里下がりしている邸へやって来た。
できる宮中人であるところの光は、予め来訪予定を先方へ連絡していたらしく、簡単な名乗りだけですぐさま、牛車は車宿りまで通される。
「さすが、立派な趣きあるお邸ね……」
「藤壺の方と兵部卿宮の母后が、終の住処とされたお邸だからね。主人に相応しい品格を宿しているよ」
牛車を乗り降りする場でしかない車宿りすら格式高いのは、それだけ邸の隅々にまで気が配られている証明でもある。葵も光も、生まれた身分が身分だから、常日頃から最高品質のものに囲まれた暮らしをしているけれど、だからこそ良いものははっきり良いと分かるのだ。
そう待つほどもなく、主殿付近から女房たちがやって来るのが見えた。案内のためだろうけれど、それぞれが手に几帳を持っている。
「……もしかして、わたしを同伴することも伝えてあるの?」
「当然じゃないか。藤壺の方にもお知らせしたし、主上にも、お見舞いは妻と行くと言ってある。主上直々のお言葉でお見舞いへ出向くのに、許しない人を女御と対面させては、また周りがうるさいだろう?」
「貴族社会の煩わしさはそうだけど……具合の悪い方に余計な気を遣わせてしまうなんて、却って申し訳ないわ」
「藤壺の方からは、北の方とご一緒の来訪を歓迎しますとお言葉を頂戴しているよ? 女人の客を迎える際、家の女房がある程度の気を回すのはよくあることだ。葵が気にするほどのことじゃないさ」
「……まぁ、社会常識としてはね」
例えば椿の六条邸へ行けば、あちらの女房が几帳をわんさか持って、車宿りから主殿まで一緒に歩いてくれるし、過去に内裏へ公式訪問していた際も、目隠し役を担ってくれていたのは内裏の女房たちだ。女性の客を迎えた際、ホスト側が不自由のないように立ち回るのは、この時代の上流階級における、ごく当たり前の作法であり、常識といえる。
――だが。
「そもそも、このお見舞いすら本来なら必要なかったわけで、さらにお気まで遣わせてしまったら、常識はともかく申し訳なくもなるでしょ」
「それはうん、否定しないけれど」
光が苦笑いして頷いたところで、女房たちが到着した。
中央にいる、丸顔の優しそうな女房が、几帳を持ったまま、器用に立礼する。
「源中将様。わざわざのご足労、誠に痛み入ります」
「やぁ、王命婦。こちらこそ、女御様がお休みのところに押しかけて悪いね」
二人の挨拶を聞き、葵は表情に出すことなく、密かに息を呑んだ。
(……この人が、この世界の〝王命婦〟なのね)
『光君』が『藤壺女御』の元へ忍び入る際の協力者となった女房こそ、女御の乳姉妹として後宮にまで付き従った女房、『王命婦』である。この世界、基本的な人物背景は『原作』をなぞっていることが多いので、この王命婦もおそらくは藤壺女御の乳姉妹であろう。女房たちの代表として挨拶した様子からも、彼女が藤壺女御付き女房の中で、頭一つ高い立場にあることが察せられる。
――と、その王命婦が顔を上げた拍子に、ぱちりと視線が合った。
「中将様。そちらの方が、お話にありました、北の方様でいらっしゃいますか?」
「あぁ、そうだよ」
「――はじめまして、北の方様。藤壺女御様にお仕えしております、女房の王命婦と申します。この度は、ようこそお越しくださいました」
光だけでなく葵のことも客として遇し、丁寧に頭を下げる王命婦は、実に優秀な女房である。
直答しても良いのだけれど、周囲から散々、「せめて初対面の相手と最初に挨拶するときくらいは猫を被れ」と言われている葵は、すんでのところで声を出すのを堪え、背後の楓へ耳打ちした。
「お出迎えに感謝します、王命婦。わたしはあくまでも夫に同行しただけの存在ゆえ、あまりお気遣いなきようお願いいたします――と、御方様は仰っています」
「ありがたき仰せにございます」
楓と王命婦が言葉を交わしている間に、他の女房たちは素早く葵の周囲を取り囲み、几帳で姿を隠してくれた。これで、車宿りから庭を通って主殿まで歩いても、外から顔を見られる心配はない。
「王命婦様。用意、整いました」
「はい。――では、源中将様、北の方様。女御様の元へご案内申し上げます」
王命婦の合図で、彼女に続いて歩き出した光と葵の動きに合わせ、周囲の女房たちもしずしずと進み出す。ほとんど足音を立てないその動きの優雅さはさすがで、後宮女房の中でも群を抜いて所作が洗練されていた。主上の寵妃に仕えている自負が、彼女たちを一流へと誘うのであろう。
(椿様がいらっしゃる頃の梨壺も、このような風情だったものね……)
椿はあの頃、東宮妃の一人でしかなかったけれど、何人かいる妃のうち、先の東宮が心から愛して求めたのは彼女だけだった。先の東宮が病没しなければ、椿は彼の即位と同時に中宮の位についてもおかしくないほど、その趨勢は揺るぎなかったのである。椿に仕える女房たちも自然、未来の中宮に仕えているという気概を持ち、椿と先の東宮の恥とならぬよう、常に自分たちを高め続けていた。……そんなあの頃の梨壺と、今、葵の周囲を囲んでいる藤壺の女房たちの雰囲気は、とてもよく似ている。
(改めて後宮って、主上の寵愛を得ているか否かで、妃の立場から女房たちの雰囲気まで、がらりと変わるのね……。そんな怖い場所へ、間違っても行かなくて良かった)
光から聞いた右大臣方の迷走を見るに、もしも命惜しさに東宮へ入内するなんて道を選んでいたら、今頃はきっと壮大な嫁イビリの果てに宮中での立場を失い、脱出計画の一つや二つ、本気で立てていたかもしれない。左大臣という地位にありながら、そこまで権勢欲旺盛でない父に感謝しなければ。
――そんなことをつらつら考えつつ、主殿正面の階から寝殿内に入り、入ってすぐの位置に設けられている室へ通された。御簾や屏風、襖で区切り、室礼を美しく整えてあるが、これはどう見ても来客向けだ。寝殿造の構造的に、庭と面した御簾のかかっている向こう側が、藤壺女御が普段過ごしている空間と思われる。
室に入り、御簾が下されてしまったら、この場にいる男性は夫である光だけだ。屏障具の類は必要なく、役目の終わった几帳係の女房たちは、そのまま一礼して去っていった。
唯一残った王命婦も、襖の近くで床に座り、深く礼をして。
「どうぞ、そのままお待ちくださいませ。じきに女御様がいらっしゃいます」
「あぁ、分かった。ここまでありがとう」
「勿体無いお言葉です。……では中将様、北の方様、御前失礼いたします」
最後まで優雅に、王命婦は退室していった。『原作』を読んだときは、『光君』に絆されて密通に手を貸した、意思薄弱な女房のように感じたけれど、実際に会った〝王命婦〟は主に忠誠深い、有能な人という印象だ。これもまた、〝光君〟が『原作』と大幅に乖離したことで起きている、世界の〝ズレ〟の一つなのかもしれない。
「……葵、大丈夫? 疲れた?」
「大丈夫よ。普段、あれほど気合の入った女房たちに囲まれる機会なんてそうそう無いから、圧倒されただけ。藤壺女御様は、良い女房を揃えていらっしゃるわね」
「元は皇女で、今は主上の寵愛深き方だ。使える者たちも、自然と洗練されるのだろう」
「東の対の女房たちが洗練されていないわけじゃないけれど、主人がわたしな時点でね……」
「そんなことはない。東の対……だけでなく左大臣邸は全体的に、使用人の水準が高いよ。所作だけを見れば後宮の女房たちの方が美しいのだろうけれど、なんというか、仕事に対する熱量や向き合い方は、宮中と比較しても遜色ないどころか上を行くと感じるときもある」
「そうなの?」
思わぬことを言われ、葵は素で目を見開いてしまった。




