『若紫』の帖は進む*其の一
本日より、新章始まります!
春に季節外れのわらわ病を患った光だったが、北山の聖による加持祈祷の効果は抜群で(彼の煎じた護符にマラリア特効薬であるオウカコウが含まれていたから、当然の帰結ではある)、山を降りる頃にはすっかり元気を取り戻していた。あの日は山を降りる間際、葵が北山で出逢った紫と挨拶を交わしている頃に、光と葵が病の治療のため遠出したと聞かされた兄、暁が友人たちを引き連れ迎えに来て、外がやたら賑やかだったことを覚えている。
後から聞いたところ、「お前と光がコソコソ二人で遠出とか聞いて、ちょっと面白くなかった」とかふざけたことを言ったので、その辺はきっちり義姉である夕花に告げ口し、シメてもらったが。彼が来て、即席の宴会が開かれたことで、庵の空気も華やいだことを思えば、そう悪いばかりでもなかったのだろう。
ちなみに、御簾の中から男たちの酒席を見ていた紫は、あまりにも顔の良い男たちがずらりと並ぶ様に、口をあんぐりさせながら見入っていた。その中でもやはり、ずば抜けて顔の良い光については「父宮さまよりずうっと立派な方」と身も蓋もない感想を漏らしており。周囲の女房たちから「あの方がこちらの御方様のご夫君でいらっしゃいますよ」と教えられ、ぱっちりした目をさらに丸くさせるという、一幕もあった。
「そうなの? 葵さま、源中将の妻だと仰っていたけれど……じゃああの方が、源中将様?」
「はい。彼がわたしの夫です」
「ふぅん……」
やや唇を尖らせた紫の様子が気に掛かり、「どうかしましたか?」と尋ねてみると。
「葵さまと、とても、お似合い……」
「まぁ。ありがとうございます」
「お似合い過ぎて、葵さまを連れて帰らないでって、お願いできない……」
「あらあら」
「父宮さまみたいな人になら、言えたのに」
物心ついたときから出家した尼である祖母に育てられた紫にとって、〝現世〟に属する男といえば、父である兵部卿宮くらいだったのだろう。その父が凡庸な人となれば、彼女の中で〝男イコール平凡〟の図式が成り立っていてもおかしくはない。葵が「夫と帰ります」と話したとき、〝言いたいことは山ほどあるのに上手く言語化できない〟と焦れた顔を見せたのは、「男なんてつまらないものに付き従わず、自分と一緒にいて欲しい」という心情を、本人自身が理解できていなかったかららしい。
素直ゆえ、好きになった相手への好意が真っ直ぐな紫が可愛くて、葵はくすりと笑いつつ、紫の髪を撫でた。
「あのひとは、わたしの夫に相応しいと、紫様にお認め頂けました?」
「……葵さまにお似合いの方なんて、いるはずないって思ったのに。ちょっと、悔しい」
「これ、姫。そのように言うものではありませんよ。この世は全て、あるべきようにできているのです」
「あるべきように?」
「そうです。――天女の化身であらせられる葵様の夫君となるべく、この世のものとは思えぬほど美しく高貴な源氏の君が、天によって遣わされたのでしょう。葵様のご夫君に相応しいのは、源氏の君くらいですから」
「お二人は、運命のご夫婦でいらっしゃるのね……!」
「そうです、姫。お二人のような比翼連理のご夫婦は、滅多にいらっしゃるものではありません。引き裂くなんて、それこそ罰当たりですよ」
「はい、おばあさま!」
何度か「夫もわたしも、そのように大層な存在ではありません」と口を挟む隙を窺った葵だが、孫と祖母は二人で大盛り上がりし、最終的に紫も納得していたため、まぁいいかとスルーした。
訂正し損ねた結果、葵は天女の化身となり、光は天の御遣いと化したが、祖母孫の仲が改善したことを思えば、うん、些事である。
そうして、北山の彼女たちと文通の約束を交わして京へと戻ってきた葵は、それから――。
「ただいま、葵」
「あぁ、光。お帰りなさい、お疲れさま」
「あれ? また文が届いたのかい?」
「えぇ。北山の姫君からね。読んだ本の感想とか、北山に咲いた花のこととか、色々と教えてくださるのよ」
別れ際、「何かあっても、何もなくても、文が欲しい」と言った葵の言葉を、紫は忠実に守ってくれた。北山から帰って以降、およそ週に一度のペースで、紫から手紙が届く。最初こそ申し訳なさそうに姫君の文に一筆添えていた菊乃だけれど、葵が返事に「これも姫君のお手習の一環とお思いになり、お気軽にやり取りできれば嬉しゅうございます」と書いたからか、最近は口出しも手出しもせず、静かに見守っているようだ。
「そうなのか。外の人と文をやり取りする経験は、姫君にとって良い刺激だし、何より良い学びにもなるだろうからね」
「えぇ。最初の頃に比べて手跡も今風に洗練されてきたし、返歌の技量も上がってる。本当に物覚えの良い姫君だわ」
「当たり前だよ。葵ほどの姫と、これほど頻繁に文をやり取りしているのだから」
京で生きる、そこそこ以上の身分の者にとって、文と歌によるやり取りは必須スキルである。令和人がIT機器とSNSを使いこなせなければやっていけないのと同じで、〝概ね平安時代〟なここでは、綺麗かつ優雅な手跡で、読んでいて心地よく楽しい文章を綴り、その内容をみそひともじで〝上手いこと言う〟和歌の技量がなければ、人生のどこかで必ず詰む。ましてや紫は宮家の姫、どれほど立派な文が書けるようになっても、分不相応ということにはならない。
「わたし、特に姫君へ何かをお教えしているわけではないのよ? ただ、文のやり取りをしているだけ。それだけでこれほどお上手になるのだから、彼女はやっぱり、とても物覚えの良いお子だし、学習意欲も高いわ」
「そうだね。葵の文を読んで、おそらくはその手跡で手習をして、歌の詠み方なども学んでいるのだと思う」
「……随分はっきり断言するのね?」
「他ならない私がそうだったもの。幼い頃は、あなたが書いてくれた書き付けを室へそっと持ち込んで、誰もいないときに一人でその手跡を真似て、戯れに詠んでくれた歌を書き記していたものだよ」
「そ、そうだったのね……」
それはなんというか、幼い頃の話なのでギリギリほのぼのエピソードだけれど、『原作』を知っている葵にしてみれば、どこか湿っぽい気質のある『光源氏』の片鱗が光にも宿っている証左のようで、素直に喜べない。いや、光がそれほど葵を慕ってくれていたことは嬉しいし、感謝すべきなのも分かるけれど。
兎にも角にも、光が帰ってきた以上、紫の文に返事するのは明日だ。葵は手早く文机を片付け、光の着替えを手伝う。
「そういえば、今日、主上にお目通りしたのだけれど。随分と、気落ちされたご様子でね」
「気落ち? 主上が?」
仕事着である袍を脱いだ光は、気楽な様子で寛いでいる。葵は袍を洗濯へ回す籠へ入れながら、光の帰宅と同時に飲み物を取りに行ってくれていた楓より、杯の乗った衝重を受け取った。
それを光の元へ運び、彼の前に置いたところで。
「あぁ。――どうやら、藤壺女御様の具合が思わしくなく、しばらく里下がりすることになったそうなんだ」
「……っ!」
……衝重を置いた後で良かった。置く前だったら、さすがに上に乗った杯を揺らし、白湯を溢してしまっていただろう。
(北山で、〝若紫〟と出会った次は、〝これ〟だって。……知っていた、はず、なのに)
実際に光の口から突きつけられた〝現実〟に、葵の心は、今日も容易く揺さぶられる。
「そ……そう、なのね。藤壺女御様といえば、確か、先帝の皇女様でいらっしゃる……」
「うん。北山の姫君の父である、兵部卿宮と同腹の皇女で、若くして入内された方だよ。主上はよく、藤壺の方と私の母だった桐壺御息所が瓜二つだと仰るのだけれど、私は母の顔を覚えていないから、懐かしみようもなくて申し訳ないね」
光の口から藤壺女御について語られるのは初めてで、自然でいようと思うのに、つい、固唾を飲んで聞き入ってしまう。自分でも不自然だと理解はしているけれど、こればかりはどうしようもない。
先週は無言で更新をすっ飛ばしてしまい、申し訳ありませんでした。。。
ここ最近はTwitterもサボりがちで……心配してくださったお優しい読者様に、この場をお借りして感謝申し上げます。
ちょっと4月から忙しくなり、更新についても見直したいなと考えていますので、この連休中にまとめて活動報告上げますね。
引き続き、よろしくお願いいたします!




