巡り逢ひて*其の十一
光が葵を大切にする以上に、光を心から大事にしたいと、さっき決めたばかりなのに。初手でこれほど大きな愛情を見せつけられては、道のりの長さを果てしなく感じてしまう。
穏やかに微笑む光の隣に座り、葵はそっと、彼の肩に頭を預けた。
「……葵? どうしたの?」
「なんでも、ないわ。ただ、実感したの。わたしって、随分と、あなたの優しさに甘えていたんだな、って」
「そんなの、わざわざ実感する必要ないのに。あなたを甘やかすのは、私の数少ない、趣味みたいなものなんだから」
光の腕が葵の背へと回され、ごく自然に視線が上向く。
視線が合ったところでゆっくりと、触れるだけの口付けが降ってきた。
優しさと労りに満ちた熱を受け止め、葵は穏やかに微笑む。
「……ねぇ、光。あなたはさっき、自分のこと、〝心に虚を抱えてた〟って言ったけれど。あなたの心は今、少しでも満たされているかしら?」
「葵はおかしなことを言うね。あなたと巡り逢って、一度は喪いかけたけれど、こうして縁が繋がり夫婦となれた。――葵を得た私が、いつまでも虚なままでいるはず、ないだろう?」
「そう言ってくれるあなたと巡り逢えた私も、きっと驚くほどに幸福で、幸運なのよね……」
「葵……? 本当に、何があったの?」
光が体勢を変えて、葵の全身を両腕で抱き込んでくる。全身を光の熱に包まれながら、葵はさり気なく脱力し、その身の全てを光へと預けた。
「尼君と、姫君と、お話しをして。尼君の焦燥とご不安、姫君の孤独に、触れて。……わたしの『異能』が教えてくれるままに、お二人の仲立ちのようなことはしたわ。お節介とは思ったけれど、放っておけなくて」
「……うん」
「幼い頃の光は、無条件に愛してくださる存在を喪って、お母様と、お祖母様に代わる愛を求めてた。――あの姫君は、自身を見て、ありのままを受け止め肯定してくれる、理解者を求めてると、思う」
「そう、か」
「姫君がお求めのものを、尼君へ提示することは、できたと思うわ。でも、わたしの『異能』が示す、姫君が本当に欲しいものを与え切るには、時間も、関わりも、全然足りない」
「葵……」
「こんなの、お節介ですらない、単なる自己満足じゃないのか、って。さっきから、頭の中が、ぐるぐるしてる……」
光に安心してほしくて、紫とのことを説明するはずが、どうしてか出てくるのは弱音のような本音ばかり。……このひとを前にすると、葵の情緒はいつも、どこかが緩んでしまう。
自己嫌悪に陥りそうになったが、抱き締めてくる光が心なしか嬉しそうに見えて、葵は何となく首を動かし、視線を彼と合わせてみた。
「自己満足でも良いじゃないか。葵の優しい心はきっと、尼君にも、姫君にだって、伝わっているはずさ。だからこそ、姫君は懐いてくれたんだろう?」
「伝わるだけじゃ、ダメなのよ。懐いてくれたからこそ、このまま袖擦り合って終わってしまっては、却って酷でしょう。……ほんの少し話しただけのわたしを掴んで離さないくらい、あの子は〝分かってくれる人〟を求めていたのだから」
「……まぁ、確かに。法師に聞いたけれど、姫君の父親でいらっしゃる兵部卿宮は、どうやら大変な恐妻家らしい。兵部卿宮が姫君の母――尼君の娘御の元へ通うようになった際も、随分と苛烈な嫌がらせをしたようでね。その心労が祟り、娘御はまだ赤子だった姫君を遺し、若くして亡くなられたそうだから。父には頼れず、頼みにしてきた祖母君の体調が優れないとなれば、他に理解者を求めて当然だ」
「もちろん、そういったお心細さもあったと思う。でもそれ以上に、姫君はご自身の良いところをあまり認めてもらえなくてね。感情に振り回されがちな、幼い面ばかりを心配されて、なかなかご本人に合った接し方を周囲ができていなかったの。それで、姫君のお気持ちに沿って話せたわたしのことを、気に入られたのだと思うわ」
「あぁ……」
葵の説明で光は、昼間に垣間見た(光は声を聞いただけだが)姫君を〝幼い〟と感じたことを思い出したらしい。抜群に頭の良いひとだから、今の説明だけで葵が紫の何を案じ、何故「時間をかけて関わりたい」と思ったのか理解したようで、何度か大きく頷いた。
「それなら、話は簡単だ。関わり続ければ良い」
「……良いの?」
「葵はつまり、一度話しただけじゃ、周囲がまた姫君への接し方を間違うかもしれないから、定期的に様子を見て、必要そうなら助けに入りたいと思っているのだろう? 幸い、尼君は葵を信頼している様子だし、姫君とて葵を引き留めるほどに懐いてるんだ。親しくなったお相手と文通するくらい、京じゃよくあることじゃないか」
「あなたは、良いの? わたしが関わる先を増やして、嫌な気持ちになったり、寂しくなったり、しない?」
目を見て尋ねると、光はゆっくり、その瞳を細くして。
「……葵が、どれだけ、心を砕く相手を増やしても。こうして私の元へ戻ってきて、私の腕に〝総て〟預けてくれるなら、あなたの〝唯一〟は私だと、実感できるからね。嫌にもならなければ、寂しくもないよ」
「光……」
「さぁ、もう夜も深い。いくら明日の朝はゆっくりだといっても、さすがに休まないとね」
言うが早いか、光は葵を抱き上げ歩いて、葵を抱いたまま、寝具へと横たわってしまった。あまりの早技に、「たかが数歩の距離を抱いて移動することもないでしょう」と抗議する間すらない。
「ちょ、ちょっと光……」
「……しかし、残念だな。どうしてここは、出先なんだろう」
掛布を手に取りつつ、光は何やら、よく分からないことをぼやいている。
「葵が、閨以外で、私に〝総て〟を預けてくれることなんて、そうそう無いのに。ここが東の対なら、これほど素直に心の内を見せてくれる葵のこと、もっと愛しめたのにね」
「……忘れてるようだけれど、あなた、病を患っているのよ。いくら熱発作が治っているからって、病人の体に負荷をかけるようなこと、させるわけないでしょう」
「そういうところ、葵は本当に真面目だな」
「真面目はきらい?」
「私が葵を嫌いになるわけないだろう。真面目なところも、破天荒なところも、――世話焼きで、お節介なところも。葵の全てを、愛しているよ」
真っ直ぐに告げられた、愛の言葉。気恥ずかしくて彼の懐へ潜り、どうにか「ありがとう」の声を絞り出せば、頭の上から響いてくるのは忍び笑いだ。
「……ほんとうに、葵は、かわいい」
「もう。そればっかり、言うんだから。……寝るんでしょう?」
「そうだね。おやすみ、葵」
「おやすみなさい、光」
就寝の言葉を交わすと同時に、葵の意識は急速に落ちて――。
そして、翌朝。
「中将様。この度は、私どもにまで、結構なお品を頂戴しまして……」
「お気になさらず。一晩お世話になった御礼ですので」
早朝、山頂の寺から降りてきた聖から最後の加持祈祷を受け、「もう大丈夫」とお墨付きをもらった光が、京より新たに持ち込まれた品々を北山の人々に配っている間。葵は葵で、菊乃を始めとした庵の女人たちに、絹やちょっとした日用品などを御礼として渡しつつ、紫の起床を待って。
「おはようございます、葵さま!」
「はい。おはようございます、紫様」
「葵さま。私の手作りのお人形、見てくれる?」
「まぁ。紫様は、お人形を手作りできるのですね。凄いわ」
起きてきた紫と、ひとしきり遊び(京から兄が光を迎えにきたついでに、何やら即席の宴会が始まったので、思ったより時間に余裕ができた)。
陽が昇り切り、いよいよ帰宅の運びとなった。
「……葵さま。もう帰っちゃうの?」
「これ、姫。無理を言ってはいけません。葵様は、京の高貴な方なのですから」
「……」
潤んだ瞳でじぃっとこちらを見つめてくる紫と、そんな紫を嗜めながら、こちらもどこか縋る雰囲気を醸し出す菊乃に、葵は笑って申し出た。
「こうして親しくなれたのもご縁です。よろしければ今後、わたしと文のやり取りなど、して頂けませんか?」
「……葵様と、文を?」
「はい。何かあっても、何かなくても、近況をお知らせくださいませ。もちろん、わたしも書きますので」
「葵さま。文って、ゆかりも書いていいの?」
「えぇ、もちろん」
よく似た祖母と孫の表情が、目に見えて明るくなった。何ができるわけでもないけれど、葵と緩い繋がりを残すことで二人の心が晴れるなら、文通くらいいくらでもしよう。
「……御方様。そろそろお時間です」
「そうね。――菊乃様、紫様。お世話になりまして、ありがとうございました。またお会いできる日を、楽しみにしておりますね」
「こちらこそ……ありがとうございました、葵様」
「葵さま、絶対、ぜったい、また会いに来てね……!」
菊乃と、紫に、見送られ。
「……じゃあ、帰ろうか」
「――はい」
来たときと同様、光の手を取って。
(想定外しかない、北山だったわね……)
――葵は、北山を後にした。
〝若紫〟本格登場の回がここまでの超ボリュームになるとは、あまり想定してませんでした。
長くなりましたが、ここで一区切りです。




