巡り逢ひて*其の十
伝言を頼んだ楓は、しばらくの時間を置いて、少し困った様子で戻ってくる。
「御方様。少々よろしいでしょうか」
楓がそう前置いてくるときは、概ね、外の人へは聞かせられない、内々の話が待っている。
葵は菊乃に一声かけて、御簾のぎりぎり近くまで下がった。
「……どうしたの? もしかして、明け方過ぎに出なきゃいけない用事でもあった?」
「そういうわけではございません。そもそも、用事があったとて、それが姫様のご希望と食い違えば、あの方は迷いなく用事の方を打ち捨てられるでしょう」
「……そうね。逆にこっちが申し訳なくなる勢いで、わたしを優先してくれるわ」
「ですので、お帰りの時間がずれ込むこと自体は、特に何とも感じていらっしゃらないご様子でした。――問題は、その理由です」
「紫様のこと、説明申し上げた?」
「ざっと、概要のみですが」
そこで一度言葉を切った楓は、菊乃たちにはバレないようにクソデカため息を吐き出した。
「端的に申し上げるなら、まぁ、嫉妬でしょうね。ご機嫌はあまり麗しくないご様子でした」
「嫉妬? 光がわたしに?」
「なんで光様が姫様に嫉妬するんですか。あの姫君に対して、です」
「光が紫姫に? 何で?」
「姫様の関心を奪われたから、以外にあります?」
「えぇー……」
関心を奪われたといっても、紫はまだ裳着も済ませていない少女だ。同年代の男じゃあるまいし、嫉妬の対象になるとは思えないが。
「姫様は相変わらず、光様のお心を甘く見ていらっしゃいますね。あの方、他のことはともかく、姫様に関して、お心は相当に狭いですよ」
「そ……う、なの?」
「あまり表に出しすぎると姫様から鬱陶しがられかねないと、なるべく自重はしていらっしゃるようですけれど。本音では、姫様の興味関心を独り占めしたいと思っておいででしょう」
「うーん……。光のことはとても大切だけれど、光だけに興味関心を持っておくのは、ちょっと無理かしらね……」
「そんな姫様のご気質も、光様は痛いほど理解しておいでですので、もちろん無理強いはなさいません。とはいえ、ご自身の知らないところで姫様が新しくお心を寄せる対象と巡り逢われたとなれば、お心穏やかでいられないのは道理かと」
「だから、端的に言えば嫉妬、なのね」
「左様にございます」
光が、多くを語らず、聞かず、見ないフリをすることで葵の心を守ってくれていたと、つい先ほど実感したばかりだ。きっと、葵を不安にさせないため、光自身が飲み込んでいた感情も多かっただろう。
(どちらかが過剰な我慢をすることで成り立つ関係は、健全じゃないわ)
ずっと、心のどこかで、光と真正面から向き合うことを避けていた自覚はある。『原作』の通りに世界が動く度、『原作』に記された通りに誰かが命を落とす度、〝この世界〟はきっといつか、〝葵の上〟たる己をも飲み込んでいくのだと、怯えて。
光が今、葵を好きなのは事実でも。『原作』こそが〝正史〟であるのなら、彼はいつか、葵の元を去っていく。そのときに心を引き裂かれないため、光に心を預け切ることを……彼がくれる心を大切にし過ぎないようにと、己を戒めてきた。
(……でも、もう、誤魔化せない。もう、逃げたく、ない)
光の心に深く触れる中で、葵は恋を自覚した。光へ抱く想いは、いつの間にか昔とは大きく形を変え、一人の女として唯一の男を慕う、恋慕の情が大きくなっていると、突きつけられたのだ。
たとえ、未来に別離が待っていても。光が葵を愛し、葵も光を想った、その時間が嘘になることはない。いつか訪れる別離に怯え、光との間に壁を作って過ごすなんて、あまりにも虚しいではないか。
(『葵の上』の未来に立ち向かうことを、止めるわけではないけれど)
きっと、きっとあるはずだ。〝光源氏〟を拒絶する以外にも、この世界で〝葵の上〟が生き延びる、術が。
それはもしかしたら、安易に〝主人公〟を避けて生きるよりずっと、険しい路かもしれないけれど。
(それでも……わたしは光を、わたしの唯一の夫を、大切にしたい。あのひとがわたしを大切にしてくれるように――ううん、それ以上に、もっと)
――心が決まれば、あとは実行するだけだ。
葵は楓に軽く頷くと、姿勢良く腰を上げ、菊乃へ近づいた。
「菊乃様。夫は、姫君が起きるまでの滞在を、認めてくださいました」
「まぁ……なんとお優しい旦那様でしょう」
「えぇ。わたしには勿体無い、できた夫なのです」
常々思っていることを笑顔で言語化し、葵は一度、膝をつく。
「ですが、女房からその経緯を聞いて、夫はどうやら、詳細をわたしの口から聞きたいと感じたようでして。一度夫の元へ戻り、紫様がご起床になる頃、もう一度お部屋へお邪魔してもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。そもそも葵様は、ご病気のご夫君をお思いになり、このような山奥までいらしたと伺っております。旦那様を優先なさるのは当然のこと、我々に構わず、どうぞお戻りくださいませ」
「ありがとう存じます。春とはいえ、山深いこの地では、夜も冷えることでしょう。菊乃様もどうぞ、暖かくしてお休みくださいませね」
「お心遣い、痛み入ります。葵様も、お風邪など召されませぬように」
辞去の挨拶を述べ、葵は楓とともに立ち上がった。案内の女房をつけてもらうのは遠慮して(元は身分ある人とはいえ尼だからか、菊乃はそれほど多くの女房を抱えているわけではなかった)、葵は光の待つ室へ戻る。
「失礼いたします、中将様。御方様がお戻りになりました」
「葵? どうぞ、入って」
念のため、几帳を立てかけながら帰ってきたけれど、室内には光しかいない。光明法師はどうやら、話し終えて下がっているらしい。よくよく見れば、屏障具の向こう側には、簡易な寝具の用意が済まされていた。
「法師様は随分と、細やかなお気遣いのできるお方なのね」
「ん? あぁ、寝具か。私一人ならどうとでもなるけれど、さすがに葵もいるからね。少し前に、ここの女房たちが整えてくれたよ」
そう答えた光は、どうやら手持ち無沙汰に、法師が貸してくれた仏教関連の書物をめくっていたらしい。「本、面白い?」と問えば、「興味深くはあるけれど、葵より優先したいものでもないかな」と返され、そのまま書物は閉じられた。
「葵こそ、良いの? 楓の話だと、法師の妹君と、随分打ち解けたそうじゃないか」
「打ち解けはしたけれど、あくまでお見舞いだもの。夜通しお話しするわけないでしょう」
「そうだが……妹君の孫姫も、葵にかなり懐いて離れなかった、と聞いたよ?」
「そうね。確かに懐かれたし、彼女があんまり健気だから、つい起きるまでここにいるって約束しちゃった。……勝手にごめんなさい」
「謝らないで。帰る頃合いが予定より少し遅くなるくらい、大したことじゃない。それに、京まで良清たちが取りに行っている贈物類を配る時間を考えたら、建前上は早朝の出発と言ったって、実際に帰り出すのは陽が昇り切ってからになるだろうし」
「でも、光の知らないところで知り合った子と、光のいないところで勝手に話を進めて……面白くは、ないでしょう?」
「それは……寂しい気持ちが、ないわけではないよ。でも、葵が幼子に優しいひとだから、私たちは巡り逢えたんだ。あなたが孫姫に心を砕くのは、きっと彼女があの頃の私と同じように、どこか心に虚を抱えた子だからだろう、というのも、分かるつもりだよ」
「光……」
……どうしてこのひとは、これほどまでに、葵の心を察し、寄り添ってくれるのだろうか。葵より四つも歳下の、令和の時代ならやっと成人くらいの年頃でしかないのに、いつの間にか彼は、心も身体も大きく、頼り甲斐のある大人へと成長していた。




