346 戻る日常、戻らぬ日常
伊丹寛信との会見後、一度家臣団たちにも来年度予算案について諮る必要があるため、有馬貞朋公と斯波兼経公は結城家皇都仮屋敷を後にした。
「ようやく伊丹・一色両家を降したってのに、まだあんなのが残っていやがるのか」
客人の去った談話室の布張り椅子に乱暴に腰掛けながら、景紀は余っていた菓子を口に放り込む。
冬花が、貞朋公と兼経公の器を下げて部屋を出ていく。
「まあ、別に寛信卿でなくとも、景くんの元に娘を側室として送り込みたいと考える諸侯はこれからも出てくるはずですよ。僕が女だと露見した所為で、余計に景くんのところに集中するでしょうね」
そう言った貴通の声には、皮肉というには若干の棘があった。
「んだよ? 別に、牧姫には欠片も興味ないって」
「へぇ、興味のない相手に、あんなことを言ったんですか?」
景紀がいささか弁解じみたことを言うと、かえって逆効果になったのか、貴通の声に冷たさが宿る。
「血筋ではなく能力で評価される人間になれ。それって、兵学寮時代に僕に言った台詞じゃないですか」
「いや、まあ、確かにそうだが……」
貴通の不機嫌の原因がそんなところにあると知り、景紀は返答に窮する。
確かに兵学寮時代、五摂家という血筋で取り入ろうとしていた貴通に、景紀はそう言ったことがある。ある意味で、二人にとって今の関係性が始まる切っ掛けなったともいえるやり取りだ。
それと同じような言葉を別の女にかけたことが、貴通には不愉快だったらしい。
ただ、厳密にいえば似たようなことは幼少期の冬花にも言っている。もちろん、それを馬鹿正直に伝えたところでさらなるやぶ蛇になることは目に見えているので、景紀は黙っていたが。
「まったく、どうせ側室に迎え入れる気がないんでしたら、直接声を掛ける必要なんてないでしょうに。これからもああいう人間が出てきた時、“直接声を掛けてもらえた”ってだけで変に勘違いする女性が出てきかねませんし、親の側がそれを周囲に吹聴する可能性だってあるんですよ」
「……寛信卿が娘を俺に差し出して家の安泰を図ろうとした浅ましい人間だってことは、御用新聞を使って世に広める。これで、似たようなことを考える連中を少しは牽制出来るはずだ」
「ええ、是非そうして下さい」
妙に圧を感じさせる口調で、貴通は言う。
「まあ、景くんが血筋に強いこだわりを見せない人間だからこそ、僕たちは今こうした関係を築けているわけですけど」
多少は溜飲が下がったのか、男装の少女は溜息交じりに矛を収めた。そうして景紀が気を緩めた、刹那のことだった。
「……ちょっとした意趣返しです」
不意に貴通が顔を近付けてきたかと思ったら、そっと唇を重ねてきたのだ。
「冬花さんが皇都内乱で殿を務めると言った時にはやったのに、僕が一色家に人質として出向く時には何もなかったじゃないですか」
「……すまん」
間近に迫った貴通の、恨みがましくも艶めかしい表情に、景紀はそれしか言えなかった。
皇都内乱の際は冬花の側から唇を重ねてきたのだが、それと同じことを貴通にしてやらなかったことを、彼女は密かに不満に思っていたらしい。あるいは、景紀が牧姫に不用意な言葉を掛けたことは引き金になったのか。
いずれにせよ、この少女の想いに自分はまだ十分に報いてやれていないと景紀は感じる。
「今は、このくらいで許してあげます」
ふふっと悪戯っぽく微笑んで、貴通は景紀から離れた。
「でも、いずれは僕も宵さんや冬花さんのように、最後まで想いを遂げさせてもらいますから、覚悟しておいて下さい」
それは、“穂積貴通”ではなく穂積満子としての声だった。この少女はようやく、貴通としても満子としても葛藤なく生きられるようになってきたのかもしれない。
だから彼女に言われた通り、自分も彼女を本当の意味で“満子”として受け入れる覚悟を決めないといけないのだろう。景紀は、そう思うのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
皇都にある浦部邸にて、浦部八重は冬季休暇の課題に向き合っていた。
皇国は内戦の最中であるというのに、通常通りに課題を出してきた学院の教師陣が恨めしい。
もちろん、八重も学院の教師陣が皇都に残った生徒たちに平時と同じように授業を行おうとしている苦労は理解している。しかし理解はしていても、恨めしいものは恨めしいのだ。
学院では八重に結城家への取り次ぎを願ってくる連中に辟易としていたので、冬季休暇になって一時的にせよそういう連中から逃れられたことを喜んでいられたのもつかの間。今度は冬季休暇の課題という面倒事に追われることになったのである。
八重自身も鉄之介の子を身籠もったことで激しい動きは控えるよう言われていたから、何かと鬱憤の溜まる日々が続いていた。
景紀たちが伊丹・一色両家を降したことは新聞などで知っているが、出来れば自分も鉄之介と共に戦いたかったというのが本音である。
とはいえ、自身の子を景紀たちの子のシキガミにしたいという願いも抱いているので、宵姫と懐妊の時期が重なったのは、それはそれで幸運なことだとは思っている。
「……やっぱり、気が散ってしょうがないわね」
文机に向かって課題に取り組もうとしても、いまいち集中出来ない。
鉄之介には自分が書いた呪符を渡しているので大丈夫だとは信じているが、それとは裏腹に彼を心配する気持ちもある。
単純明快であることを好む八重にとって、今の自分自身の複雑な心情はらしくないと思ってしまう。鉄之介を信じるなら信じるで、その気持ちを貫き通せばいいのに、それが出来ない。
以前はうじうじと悩むことの多かった鉄之介を姉弟子として叱咤する立場だったというのに、いつの間にか鉄之介のうじうじ癖が伝染ってしまったようだ。そんな八つ当たりじみた感情すら浮かんでしまう。
「―――八重」
だから不意に聞こえてきた声に、一瞬、八重は耳を疑ってしまった。
「んだよ、また学院の課題で手こずってんのかよ」
「……うるっさいわね。帰ってきた第一声がそれだなんて、随分と弟弟子も言うようになったじゃない」
突然帰ってきていきなり減らず口を叩いてきた鉄之介に、八重はそう言い返した。
むっとすると同時に、いつもの自分たちらしい会話に懐かしさすら覚える。とはいえ、鉄之介の第一声が大いに不満であることは事実だった。
「ねえ鉄之介、帰ってきたなら、もっと別に言うことがあるんじゃないの?」
片手を持ち上げて、八重はそこに雷をまとわせる。バチバチと、音が散った。すると、鉄之介が気まずそうな表情になる。そして何か覚悟を決めたような表情になると、八重に向き合うように腰を下ろした。
「た、ただいま。無事、帰ってきた」
「うむ、よろしい」
それで八重も、まとわせた雷を解く。
「お帰りなさい。あんたが無事で、何よりだわ」
たぶん鉄之介は、何となく恥ずかしかったのだろう。自分と鉄之介は婚儀を挙げたとはいえ、まだまだ呪術を学ぶ者同士という意識の方に引き摺られがちであるし、日々の鍛錬や帯城軍乱、皇都内乱を潜り抜けた陰陽師としての相棒という意識も強い。
夫と妻としてのやり取りに、互いにまだどうにも慣れないし、気恥ずかしいものを感じる。
多分、まだ自分たちは男女として不器用極まりないのだろう。
男女の機微に疎い八重でも、その程度の理解は持ち合わせていた。
「で、若様や冬花義姉様も皇都に戻ってきているの?」
「ああ、有馬貞朋公や斯波兼経公と一緒に参内して陛下に戦勝を奏上して、その後は屋敷で今後のことについて会談だとさ。俺も、宮城に入るところまでは同行して、部長に帰還の報告をしてきた」
「やっぱり、当主になっちゃうと若様も大変ね」本心からの同情を、八重は景紀に寄せる。「ようやく内戦が終わったのに、少しもゆっくり出来ないなんて」
「まあ、あいつは当主になる前から忙しくしていた気がするがな」
姉の冬花が補佐官として常に景紀の側に侍っていたから、鉄之介は景紀たちの多忙さをある程度、知る立場にあった。
とはいえ、八重は政の難しいことはよく判らない。ただ、これから結城家家臣団に加わる者として、景紀たちの敵は自分と鉄之介でぶっ飛ばすといった覚悟を決めている程度だ。
そういう難しいことは、景紀や宵姫、そして義姉の冬花たちに任せておけばいいと思っている。自分はただ、呪術師として誰にも負けないほどに強くなればいいのだ。
「それで、私の書いた呪符、ちゃんと役に立ったかしら?」
ぐいと身を乗り出して、八重は訊いてみた。声に、隠しきれない期待の響が籠っていた。
「ああ、あの呪符のお陰で、あの八束いさなとかいう一色家の術者と渡り合うことが出来た。ほんと、助かった」
「ふふっ、私の書いた呪符なんだから、当然ね」
得意げに、八重は胸を張る。自分は彼と相棒を組んで戦うことは出来なかったが、自分の呪符が鉄之介の力になれたのなら嬉しかった。
「それじゃあ、あんたの戦いぶり、聞かせなさいよ。もちろん、若様や冬花義姉様の活躍もね」
そして、共に戦うことが出来なかった分、八重は鉄之介にそう求めた。自分の呪符を鉄之介がどう使ってくれたのか、知りたかったのだ。
「まあいいけど、先に学院の課題、終わらせた方がいいんじゃないか?」
鉄之介の視線が、ちらりと文机の方に向く。
「そっちは、あんたの話を聞いてから」
八重がぐいと文机を脇に押しやると、鉄之介は諦めたような視線で文机を追った。
「だいたい、私が課題を終わらせる頃には冬季休暇が終わってるでしょうが」
「自慢気に言うなよ……」
流石に鉄之介が呆れた声を出すが、八重はさして気に留めない。
「まあでも、勝てたのはお前の呪符のお陰でもあるしな。ちょっと長くなるかもしれないが、いいか?」
「ええ、望むところよ」
ようやく話してくれる気になったらしい鉄之介に、八重は改めて身を乗り出す。陰陽師の少年はその様に小さく笑みを浮かべてから、語り出した。
それに、八重は相槌や質問を挟みながら耳を傾ける。
まだまだ自分にはよく判らない問題が多く残っているのだろうが、それでも八重は皇都内乱で断ち切られた日常がようやく戻ってきたように感じるのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日の夜、景紀は執務室で忍の青年・朝比奈新八からの報告を受けていた。
角灯の灯った部屋には、冬花と貴通も同席している。
「そうか。皇都に潜伏していた伊丹・一色両家の忍連中は、あらかた片付けてくれたのか」
「まあ、僕ら忍は使われる側や。若のお姫さんが上手ぁく采配してくれたんがやっぱ大きいわ」
雇い主への気遣いなのか、新八はそう言って宵を持ち上げる。
「僕らや風間家、それと結城家の隠密衆がばらばらに動いとったら、かえって連中の跋扈を許してもうたかもしれへんからな」
実際問題、景紀個人に傭われる新八、結城家に直属する忍集団・風間家、そして情報機関である隠密衆という、互いに横の繋がりを持たない三者が円滑に活動するためには、当主自身が適切に彼らを統制する必要があった。
これも、情報機関自体が封建的であり続けていることの弊害の一つだろうと景紀は思う。とはいえ主家直属の忍集団は、中央集権化を進める中で手放すには惜しい存在であることも確かだった。
「宵は本当に、俺の不在中、上手くやってくれたみたいだな」
「若もちゃんとお姫さん褒めとかないとあかんで」
新八がいささか茶化すように言ってくる。
「判ってるよ」
流石に気恥ずかしいものを感じながら、景紀は返す。
「とはいえ、新八さんたちもよくやってくれた。これでもし伊丹・一色両家の忍連中が暴れ出して、皇都に大火なんて起こされた日には、伊丹・一色両家を戦うどころじゃなくなっていただろうからな」
この内戦中、結城家領軍は後方での破壊活動などにほとんど悩まされることなく、伊丹・一色家の追討に専念することが出来た。それは、紛れもなく皇都で敵の密偵たちを狩ってくれた新八らの功績だろう。
「まあ、そっちの五摂家の坊ちゃん……ああ、姫さんの件は僕としても出し抜かれた感じがして、ちょいと悔しいもんがある」
「いえ、その件は僕も景くんも迂闊でしたから。それに、あの件があったから、僕は僕自身や景くんにどう向き合っていくのか、踏ん切りがついた部分もあります」
そう答えた貴通の声には、以前ほどの葛藤はなかった。それに、新八も気付いたのだろう。
「若、大切にするんやで」
もともと細い目をさらに細めて、新八はそう言ってきた。からかい混じりとも微笑ましげともいえぬ、何とも生暖かい視線だった。
昼間の口付けを見られていたわけではないだろうが、景紀としてはそれもあってどうにもいたたまれない気分になってしまう。
「とはいえ、お姫さんにも言うたが、まだまだ油断は出来へんやろから気ぃ付けや。まだ皇都には僕らの目をかいくぐって潜んどる連中がおるやもしれんし、そん中で主家が降ったことに納得しとらん奴が何かしでかすかもしれん」
「判った。その点は、小山首相を通して政府の密偵や内務省にも警戒させておく」
新八が真面目な話題に戻ったので、景紀も気を取り直して応じた。
皇都内乱にて、結城家は伊丹家や一色家の機密文書を大量に押収してその分析を行っている(伊丹家は大部分が焼却されてしまっていたが)。そうした成果の一部が、皇都に潜む伊丹・一色両家の密偵の排除に繋がっているわけだが、やはり文書に残らない存在というものはある。
特に伊丹家については、皇都内乱で当主・正信を結城家に討ち取られている。正信への忠誠篤い忍が、敵討ちとして景紀の暗殺を企てないとも限らないのだ。
そうでなくとも伊丹家は現在、寛信が不穏な動きを見せている。配下の忍集団を使って、一騒動起こす可能性は否定出来なかった。
景紀たちは伊丹家の居城・姫丘城で伊丹家の機密文書を大量に押収したので、それの分析を通して改めて伊丹家の密偵の排除に乗り出す必要があるだろう。
「新八さんの方でも、警戒を怠らないでくれ」
「合点承知や。任しとき」
「それと、可能であれば葦原にある新八さんの伝手で、これから皇都に流入してくるかもしれない牢人たちの動向についても気を配っておいてくれ」
新八は、遊郭街である葦原の用心棒としての顔も持っている。
「まあ、あんだけ大きな家が二つも潰れるんや。そりゃあ、どんなに救済措置を講じたとこで牢人は出てまうやろうな」
かつて姉が葦原に身売りをした身でもあるため、忍の青年は飄々とした態度の奥にやるせなさを滲ませていた。
教養を備えた武家の娘は、娼妓として高く売れる。困窮した元士族の親が娘を身売りしたり、あるいは娘自身が家族のために葦原に入ろうとすることは十分に考えられた。
また、主家を失った元士族が一時的な享楽を得るために葦原に向かうことも考えられた。
伊丹・一色両家を解体する以上、新たな仕官先を求めた元家臣たちが皇都に集まってくる可能性は高い。攘夷派浪士たちは皇都内乱とその後の匪賊討伐でその多くが捕らえられたが、皇都に集まった伊丹・一色両家の元家臣たちが新たに治安を悪化させる要因になりかねないのだ。
もちろん、景紀としてはかつて佐薙家を解体した経験を元に、出来るだけ治安を悪化させる要因となる牢人を出さないようにする方針ではある。しかし、やはりどうしても取りこぼしてしまう者たちは出てくるだろう。
そのための備えは、必要であった。
「……宵の夢見るような国にはまだ遠いな」
景紀は溜息交じりに呟く。
かつて宵は、将家同士のいがみ合いもなく、自分と同じような年頃の娘が身売りする必要のない国を見てみたいと言っていた。しかし彼女の願いとは裏腹に、六家は骨肉の内戦を繰り広げ、そして破れ没落してゆく側の家から新たに身売りする娘が出てくるかもしれないのである。
元牢人で姉が身売りせざるを得なかった新八でなくとも、多少のやるせなさは感じてしまう。
「まあ、若が政務を執るようになって二年と少しでそんな国が出来たら、むしろびっくりやわ」
そんな雇い主の内心を察したのか、新八が気楽な口調で言ってきた。
「僕のことはこれからも上手ぁく使うてくれればそれでええ」
彼はひらひらと火の点いていない煙管を弄びながら、立ち上がった。
「んじゃ、若も疲れとるやろうから、今夜はこれで。河越のお姫さんにも、よろしゅう」
「ああ、頼んだ」
皇都へと帰還しても、かつての日常とはほど遠い。
それでもいつか日常を取り戻せると信じて、自分たちは進んでいかなければならないのだろう。景紀は廊下の暗がりの中へと姿を消した新八の姿を見送りながら、そう思うのだった。




