第9話 三月の教室
三月の、終業式の三日前だった。
放課後、俺は体操服を取りに、一年の教室へ引き返していた。予備はいくつも持ち歩くくせに、本体のほうはよく忘れる。どういう性格なんだ、俺は?
階段を上がりきったところで、廊下の端の空き教室から、声が聞こえた。
泣き声だった。
戸が、半分だけ開いている。
机に突っ伏した女子が、一人。
黒くて長い髪が、机の端からこぼれていた。
床には、缶バッジやアクリルのキーホルダー、写真のカードが散らばっている。どれも、オレンジ色のものがやけに多い。
知らない女子だった。少なくとも、俺のクラスの子ではない。
通りすぎようとして、足が止まった。
床に落ちたうちわが一本、椅子の脚に踏まれそうな角度で倒れている。
俺は、なるべく音を立てないように教室へ入った。
顔は、見なかった。泣いているところを知らない男子にのぞかれるなんて、俺だったら絶対に嫌だ。だから、床だけを見ることにした。
グッズを一つずつ拾って、教卓の横にあった空の段ボールに詰めていく。
缶バッジは、傷がつかないように、ポケットのハンカチでくるんだ。予備のハンカチが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
女子は、顔を上げなかった。ただ、泣き声が、少しだけ小さくなった。
拾ったスマホの画面に、ニュースの見出しが光っていた。
――LUMINA・イオリ、グループ卒業と芸能活動からの引退を発表。
アイドルのことは、よく知らない。それでも、この部屋で何が起きているのかは、なんとなくわかった。
「好きだったんなら、それでいいと思う」
なんで、そんなことを言ったのか、いまでもよくわからない。
ただ、好きだったものが終わった日に、好きだったこと自体まで間違いだったみたいに泣いているのが、なんだか悔しかったんだと思う。
「……うちわ、折れたら困るだろ。箱に入れとく」
段ボールを机の横に置いたとき、腕のすき間から、手がのびてきた。
細い指が、箱の角をつかむ。
その手は、震えていた。
それだけ見て、俺は教室を出ようとした。
「……ありがと」
戸を閉める直前、背中のほうから、鼻声が聞こえた。ほとんど聞き取れないくらい、小さな声だった。
俺は振り返らずに、戸を静かに閉めた。
体操服を取って戻ってくると、空き教室には、もう誰もいなかった。
机の下に、うちわが一本だけ取り残されている。
箱に入れたつもりで、一本だけ落としてしまったらしい。
表には、ピンクの丸文字で『こっち見て』。裏には、オレンジ色のシールが一枚。
次の日、俺は一年の教室を、端から順番にのぞいて回った。
でも、顔を見ていないのだから、探しようがない。黒くて長い髪の女子なんて、どのクラスにも何人もいる。
そのまま春休みが来て、うちわは、押し入れの住人になった。
◇
あの日のことを、私は全部覚えている。
三月のあの日、私の宇宙から、いちばん明るい星がひとつ消えた。
イオリの卒業が発表されたのは、六時間目の途中だった。
休み時間にスマホを見て、頭が真っ白になって、放課後、誰もいない教室に逃げこんだ。
グッズを全部机に並べたのは、たぶん、確かめたかったからだ。好きだったものが、ちゃんとここにあることを。
並べたら、よけいに泣けた。手がすべって、半分くらい床に落ちた。拾う気力なんて、どこにも残っていなかった。
そこに、足音が来た。
顔なんて、上げられるわけがない。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったし、知らない男子だったし。
足音の主は、何も聞かなかった。床のグッズを、ひとつずつ拾う音だけがした。缶バッジを布でくるむ、かすかな音まで聞こえた。
「好きだったんなら、それでいいと思う」
その一言で、また泣いた。今度は、さっきとは違う理由で。
お礼を言いたかった。顔を上げて、ちゃんと。
でも、声に出せたのは、ありがと、の四文字だけだった。
腕のすき間から、そっとのぞいた。見えたのは、上履きと、名札だけ。
『堀田』。
四月。二年のクラス名簿に、その名前を見つけた。
同じクラスだった。
私は、髪を明るくした。泣いていた黒髪の私を、なかったことにしたかった。それに、もしあの日の顔を少しでも見られていたら、恥ずかしくて死ぬと思った。
それから、堀田を見るようになった。
消しゴムを、二個持っていること。曲がった傘を、黙って直していること。体育館のモップの向き。黒板の日付。
五月に一度だけ、自分から話しかけた。
「……消しゴム、貸してくれない?」
数学の小テストの直前だった。本当は、私の筆箱にも二個入っていた。
「いいよ。予備だから、返さなくていい」
堀田は、私の顔をほとんど見ないまま、水色のケースの消しゴムを差し出した。
気づかれなかった。
ほっとしたのと同じくらい、ほんの少しだけ、がっかりした。自分で顔を変えておいて、勝手な話だと思う。
その消しゴムは、いまも部屋の祭壇に飾ってある。返していない。返せるわけがない。
誰も見ていない場所で、堀田はいつも、同じように、ちゃんとしていた。
六月十二日。購買で、最後のメロンパンを一年生に譲るのを見た。
その日、決めた。
この人を、推そう。
推しなら、振られない。顔を見せなければ、あの日の私だとばれない。
それに、推しなら、終わらない。好きなまま、ずっと好きでいられる。
アイドルは、星だった。星は、ある日いきなり消える。
だから今度は、太陽にしようと思った。太陽は、卒業しない。毎朝ちゃんと、同じ場所から昇ってくる。
あのうちわは、あの日、どこかに置いてきてしまった。
『こっち見て』。イオリに向けて、何日もかけて作ったうちわ。
なくしたと気づいたとき、少しだけ、ほっとした。
もう誰にも、こっち見て、なんて言わない。
だから、新しいうちわには、こう書いた。
『こっちは見なくていい』
◇
週明けの月曜、俺は寝不足の頭で校門をくぐった。
金曜の夜、三月のうちわを眺めたまま、気づいたら朝になっていた。土日も、だいたい同じだった。
確かめたいことは、一つだけ。このうちわは、桜庭のものなのか。
でも、聞いたら、何かが変わってしまう気がする。
違ったら、ただ変なことを聞いただけで終わる。もし本当だったら――あの日のことを、桜庭はたぶん、思い出したくないはずだ。
「堀田くん」
昇降口で、久遠寺に呼び止められた。
「重要なお知らせがあります。桜庭さんの誕生日は、今週の金曜です」
「……なんで知ってるんだ」
「語録の、十月十五日のページに。『誕生日? 来週の金曜だけど、推しから個人的にもらうのは禁止だから!』」
そんなことまで記録してあるのか、あのノート。もはや公文書じゃないか?
「個人的にもらうのは、禁止」
「はい。ですので、個人的でなければよいのではないかと」
久遠寺の目が、きらりと光った。
「会場はクラスの教室、時間は放課後。ケーキは、料理部の小森さんに打診します。敵に塩を送る形になりますが、彼女ならきっと焼いてくれます」
「もう段取りが決まってるのか」
「推しの生誕祭は、ファンにとって一年でいちばん大事な日ですから」
久遠寺は、ノートをぱたんと閉じた。
「堀田くんは、クラスのみなさんに声をかけてください。推しのクラスメイトは、推しの次に大事な存在です」
俺は、ポケットの中の消しゴムを、ぎゅっと握った。
うちわのことは、まだ聞かない。
その代わりに、いまの俺にできることがある。




