第10話 推しの誕生日に欲しいもの
「作戦名、『桜庭ゆあ生誕祭』。決行は今週の金曜、放課後。参加者は、二年四組の全員と、生徒会長一名と、料理部一年一名です」
月曜の放課後。桜庭が帰ったあとの教室で、久遠寺がクリップボードを高々と掲げた。
黒板の前には、クラスのほぼ全員が残っている。布教の効果は、思っていた以上に根が深い。
「桜庭には、ほんと世話になってるからな」
「私、去年の文化祭で実行委員やったとき、ずっと手伝ってもらったし」
「消しゴムの件も、桜庭に言われて堀田に返せたし」
「返したのかよ。いつの間に」
机の中を見たら、たしかに水色のケースの消しゴムが一個増えていた。気づかなかった。
口々に言う声を聞きながら、俺は少し驚いていた。
俺のことを語るのと同じくらい、桜庭は、クラスのみんなのこともちゃんと見ていたらしい。
それを、みんなもちゃんと知っていた。
「敵に塩を送るのは、本当は不本意です」
教室の後ろでは、なぜか一年生の小森が腕を組んでいる。
「でも、塩は料理の基本なので。ケーキ、焼いてきます」
料理部の理屈は、ちょっとよくわからない。でも、ありがたい。
「問題は、一点です」
久遠寺が、クリップボードを指でとんとたたいた。
「桜庭さんの規則によれば、推しから個人的にもらうのは禁止。ですので、プレゼントはクラスからとします。堀田くんは、個人としては何も渡せません」
「……それなんだけど」
俺は、手を挙げた。
「物じゃなくていいなら、一つ、頼みたいことがある」
「何を頼むんだ?」
大貫が聞き、クラスじゅうの目がこっちを向いた。
「当日まで秘密」
言ったとたん、クラスじゅうから「えー」と声が上がった。秘密にされると気になるのは、推し活をする側もされる側も同じらしい。
◇
金曜の放課後。
教室の電気を消して、全員でカーテンの陰や教卓の後ろに隠れる。
暗い教室で三十人以上が息を殺している光景は、どう見ても事件現場だろ、これ。誰かがくしゃみをこらえて、「ぷしゅ」と空気の抜ける音がした。
黒板には、うちわ隊が描いた巨大な文字。『ゆあ おたおめ』。机の上には、小森が焼いてきたケーキ。生クリームの真ん中に、うちわの形のクッキーが一枚、誇らしげに刺さっている。
「来ました」
見張り役の大貫が、戸のすき間をのぞきながら小声で言った。
足音が近づいて、戸が開く。
「忘れ物ってなにー? 堀田が呼んでるって聞いたけど――」
電気がつく。
「お誕生日、おめでとう!」
クラッカーが、いっせいに鳴った。
桜庭は、戸口で固まっている。
うちわを持っていない。まさか放課後に囲まれるとは、思っていなかったんだろう。目をまん丸にした素顔が、ほんの一瞬だけ見えた。
次の瞬間、桜庭はスクールバッグに手を突っこみ、うちわを一本引き抜く。
『こっちは見なくていい』
予備のうちわだ。いつの間にか、予備を持ち歩くようになっていたらしい。誰の影響だ、それ。
「な、な、なにこれ……銀河が、こっちに向かってくる……」
「生誕祭です」
久遠寺が、『ゆあ もっと語って』のうちわを構えて一歩前に出る。
「二年四組一同と、生徒会と、料理部より」
うちわ隊が、『おたおめ』のうちわをいっせいに振る。小森が、ケーキを両手で差し出す。
「……推しの、クラスのみんなが……私の……」
桜庭の声が、裏返った。
「こういうのは、推しにやるやつで……ファンがもらうのは、解釈違いで……」
「解釈違いでも、受け取れ」
俺が言うと、教室のあちこちで笑いが起きた。
桜庭の肩から、すとんと力が抜ける。
桜庭はうちわを顔の前に掲げたまま、一人ずつ名前を呼んでいった。
「小森ちゃん、ケーキありがと。クッキー、うちわの形にしてくれたんだ。……かわいすぎない?」
「敵に塩です。でも、おいしく焼けたので」
「マユ、黒板の字、去年より上手くなってる。アヤネ、クラッカー三つも鳴らしたでしょ。音でわかる」
名前を呼ばれたクラスメイトが、照れくさそうに笑う。
うちわで顔を隠していても、桜庭は、ちゃんとみんなを見ている。
「で、もう一つ」
俺は、桜庭の前に立った。
うちわの向こうで、桜庭が身構えるのがわかる。
「俺からは、何もあげられない。個人的にもらうのは、禁止なんだろ」
「……う、うん」
「だから、代わりに頼みがある」
教室が、すっと静かになった。
「十秒だけ、うちわを下ろしてほしい」
うちわが、びくりと揺れた。
「む、無理……推しを十秒も直視したら、網膜に太陽の跡が残っちゃう……」
「残していい。十秒でいい」
「……」
久遠寺が、ストップウォッチを高く掲げた。
「では、カウントします」
クラス全員が、声をそろえる。
「いーち」
うちわは、動かない。
「にーい」
「さーん」
柄を握る指が、少しずつほどけていく。
「しーい」
「ごーお」
うちわの縁が、ゆっくり、ゆっくり下がりはじめた。
明るい色の前髪が見える。
「ろーく」
「なーな」
眉が見えた。
「はーち」
そして――目が、見えた。
教室の真ん中で、誰の話でもきらきらさせて聞いていた目。俺が好きになった、あの目だ。
それが、うちわ越しじゃなく、まっすぐ俺を見ている。
「きゅーう」
桜庭の目が、うるんで揺れた。
十秒が、こんなに長いなんて知らなかった。体感では、五分くらいあった。
「じゅう!」
その瞬間。
「――推しの顔面、近距離は無理っ!」
うちわが、ばちんと元の位置に戻った。
推しの顔面って、俺のことか? 近距離って、いつも一メートルも離れてないだろ。
教室が、どっと笑いに包まれる。ストップウォッチを見た久遠寺が、「ぴったり十秒です。さすがです」と、なぜか桜庭をほめた。
俺だけ、笑えなかった。心臓が、自分でもびっくりするくらいうるさかったから。
「誕生日、おめでとう」
うちわに向かって、俺は言った。
「今日も存在してくれて、ありがとう」
うちわの向こうで、息をのむ音がした。
「……それ、私のセリフ」
「知ってる。借りた」
「……返さなくていいやつ?」
「予備だから」
うちわが、小さく、こくんとうなずいた。
三月のうちわのことは、まだ聞かない。いまは、これでいい。
――と、きれいに締まりかけたところで、教室の戸ががらりと開いた。
「お、やってるね。おめでとう、桜庭」
江口先生だった。手には、出席簿と、プリントが一枚。
「文化祭はね、青春の締め切りなのよ。……で、ついでに連絡。クラスの出し物の締め切り、明日な。何か案がある人ー」
一瞬の沈黙。
それから、クラス全員の声が、ぴたりとそろった。
「堀田誠カフェ!」
「は?」
俺の声だけが、どこにもそろわなかった。
黒板では、うちわ隊の誰かが、もう『堀田誠カフェ』と書きはじめている。久遠寺は「生徒会として全面的に支援します」とうなずき、小森は「メニュー、作ります!」と手を挙げた。大貫は腕を組んで、なぜか満足そうにうなずいている。
止める者は、一人もいない。本人の意見は、今日もどこにも届かない。
大騒ぎの教室で、うちわの向こうから、小さな声が聞こえた。
「……推しが、遠くなる」
たぶん、俺にしか聞こえなかった。




