第8話 握手会を開催します
金曜の昼休み。二年四組の隣の空き教室の前に、行列ができていた。
列は廊下の角を曲がり、階段の踊り場まで続いている。並んでいる顔ぶれが、どう見てもおかしい。一年生、うちわ隊、野球部の坊主頭、そして、なぜか大人が一人。
入口の張り紙には、久遠寺の楷書でこう書いてある。
『堀田誠 握手会 (運営・生徒会)』
生徒会が運営する握手会。字面だけ見ると、ほとんど学校行事だ。
話を聞きつけた久遠寺が、「運営は生徒会が引き受けます。公平を期すため、整理券制とします」と申し出たのが、きのうの朝。その整理券は、昼休みが終わるまでに一枚残らずはけていた。
俺の握手に、整理券が必要になる日が来るとは思わなかった。三週間前の俺に言っても、絶対に信じない。
警備の担当は、大貫だ。
ドアの横で腕を組み、なぜか野球部のヘルメットをかぶっている。
「なんでヘルメット?」
「警備だから」
理由になっていない。
教室の真ん中には、机が一つだけ。俺はその前に立たされ、隣では久遠寺がストップウォッチを構えている。
「お一人様、十秒です。剥がしは、私が担当します」
「剥がし?」
「時間になったら、ファンを推しから引き剥がす係です」
物騒すぎる役職名だった。
「本日、昼休みの廊下で観測された群れの長さは、購買のメロンパン以来の記録です」
俺の握手会を、メロンパンと同じ棚に並べないでほしい。
「では、整理番号一番の方、どうぞ――と言いたいところですが」
久遠寺が、整理券の控えをちらりと見る。
「一番の方は、最後尾に並ぶとのことなので、二番の方からどうぞ」
一番が、最後尾。誰のことか、聞かなくてもわかる気がした。
◇
二番は、小森だった。
色紙とマジックを両手で差し出してくる。
「先輩! リアコ流奥義、色紙の型! サインください!」
色紙には、すでに大きな字で『付き合ってください』と書いてあった。その下に、ご丁寧にサイン用の四角い枠。
「……ここにサインしたら、どうなる?」
「お付き合い成立です!」
サインって、そっちの意味なのか。油断も隙もない。
俺は色紙を受け取り、四角の中に、ていねいに書いた。
『ごめん』
「ひどいです!」
「十秒です」
久遠寺の剥がしは、容赦がなかった。小森は色紙を抱えたまま、ずるずると出口へ連れていかれる。
「でも先輩の字、きれいです! 家宝にします!」
……強い。料理部の一年生、メンタルが強すぎる。
「三番の方」
久遠寺はそう言うと、ストップウォッチを机に置く。
そして、自分で机の前に立つ。
「運営なのに並んでるのか」
「練習です」
久遠寺は俺の右手を取ると、きっちり三回振る。握る強さ、角度、振る速さ、すべてが均等。手を握られているというより、検品されている気分だった。どうやら合格だったらしい。
「いつか桜庭さんが握手会を開いたときに、失礼のないように」
「開かないと思うぞ、あいつは」
「では、開くまで練習を続けます」
久遠寺は自分でストップウォッチを止め、自分で自分を剥がしていった。
四番からは、もう収拾がつかなかった。
前の席の男子が、神妙な顔で手を差し出す。
「堀田。今まで、堀川って呼んでて悪かった」
「十秒でそれを言いに来たのか」
五番は、うちわ隊の副隊長。六番は、見覚えのある一年生だった。持久走大会で、靴ひもを結んだ子だ。
「あのときは、ありがとうございました! ひも、まだ使ってます!」
名前は、やっぱり聞きそびれた。
七番は、ドアの横にいるはずの大貫だった。
「なんで並んでるんだよ」
「姉ちゃんが言ってた。『握手会の列には、並んだ者にしか見えない景色がある』」
「その景色、ただの廊下だぞ」
ヘルメットのまま、がっちり握手された。警備がいない握手会は、もはやただの会だ。
八番の整理券を持っていたのは、担任の江口先生だった。
「先生まで!?」
「人生で大事なことはね、だいたい、列に並んで覚えたのよ……」
江口先生は俺の手を両手で包み、遠い目をした。先生、俺は舞台俳優じゃない。帰宅部です。
「十秒です」
剥がしは、担任にも容赦がなかった。
気づけば、右手の感覚がなくなりかけていた。握手会というのは、推しの側にもかなりの体力が要るらしい。世の中のアイドルを、俺はいま、心の底から尊敬しはじめている。
列が、ようやく途切れた。残りは、整理番号一番だけ。
この会を開いたのは、もともと、その一人に会うためだった。うちわ越しじゃなく、推しとファンとして、正面から。
◇
そして、最後の一人。
教室の入口に、黒い影が立っていた。
サングラス。マスク。白い手袋。そして、顔の前にうちわ。今日の文字は――
『握手は心の中で』
握手会に来ておいて、それか?
顔を見るために開いた握手会に、顔が一ミリも見えない装備で来ている。対策が、完璧すぎる。
「……一番なのに、最後に並んだのか」
「推しの時間を、ファンが独占しちゃいけないから」
うちわの向こうの声は、少し震えていた。
桜庭は、机の前まで来たところで、ぴたりと止まる。
うちわを持っていないほうの手が、白い手袋の中で、ぎゅっと握られている。
教室の後ろでは、握手を終えたはずの全員が、なぜか一人も帰らずに見守っている。小森も、大貫も、江口先生も。
「桜庭」
俺は、右手を差し出した。
「来てくれて、ありがとう」
長い、長い沈黙があった。
「……太陽に、手を入れるみたい」
うちわの向こうで、桜庭が小さくつぶやいた。
隣で久遠寺が、そっとストップウォッチを机に伏せる。
剥がしの係が、時間を止めた。
手袋の手が、少しずつ、こちらへのびてくる。
指先が触れた。手袋ごしでも、震えているのがわかる。
俺は、その手を、ゆっくり握った。
布一枚の向こうに、ちゃんと体温がある。思っていたより小さくて、思っていたより熱い手だった。
「……あったかい」
うちわの向こうで、桜庭がつぶやいた。
「……温度、知りたくなかった」
え、と聞き返すより早く、手がするりと離れた。
桜庭は身をひるがえし、黒い影のまま廊下を駆けていった。
教室に残った全員が、しばらく誰も口をきかなかった。
「……十秒、とっくにこえてたね」
やがて、江口先生がぽつりと言った。
「三十二秒です」
久遠寺が、伏せたままのストップウォッチを見もせずに答えた。
数えていたのか? 止めたふりをして。
教室の後ろで、小森が色紙をぎゅっと抱きしめていた。
「……私、負けませんから」
誰に向けた言葉なのかは、聞かなくてもわかった。
◇
その夜、俺は押し入れから、三月のうちわを出した。
『こっち見て』。
あの日のことを、ひさしぶりにちゃんと思い出す。
空き教室で泣いていた女子。顔は、腕に埋もれていて見えなかった。散らばったグッズを箱に詰めて、机の横に置いたとき、腕のすき間から手がのびてきて、箱の角をつかんだ。
その手が、震えていた。
昼休みの、手袋ごしの手と――同じ震え方だった気がする。
……まさか。
あの子の髪は、黒くて長かった。桜庭の髪は、明るい色だ。
でも、髪の色なんて、春休みが一回あれば、いくらでも変えられる。
俺はうちわを握ったまま、しばらく動けなかった。




