第7話 同担だと思ったら私が推されていた
持久走大会の翌朝から、俺には新しいあだ名がついた。
「予備の先輩」。
昇降口で上履きに履きかえていると、知らない一年生の女子が、おずおずと近づいてくる。
「あの、予備の先輩ですよね? 絆創膏の予備、ありますか」
ある。かかとの靴ずれ用に、いつも筆箱に三枚入れている。
一枚渡すと、一年生は「本物だ……」とつぶやいて、拝むように両手で受け取っていった。本物って何だ?
教室に着くまでに、同じことがあと二回あった。ばんそうこうが一枚、ティッシュが一袋、俺の手元から旅立っていく。
名前も知らない相手が、俺のことを知っている。
正確には、俺の筆箱の中身を知っている。
それが、なんだかくすぐったくて、少しだけ落ち着かない。
◇
生徒会室に呼び出されたのは、その日の放課後だった。
長机の向こうに久遠寺が座り、こちら側に、俺と桜庭が並んで座らされている。
桜庭のうちわは『反省中』。用意がいい。
「本日お呼びしたのは、持久走大会での、うちわ隊の沿道応援についてです」
久遠寺は、書類を一枚めくった。
「自転車での併走。曲がり角での集団通話。どちらも、危険行為にあたります」
「……ごめんなさい」
うちわの向こうで、桜庭が小さくなる。
その情報をマイクで全校に流したのは誰だったか、という点には、なぜか誰も触れない。
「以上が、建前です」
「建前?」
久遠寺は書類を脇へよけると、机の下から一冊のノートを取り出した。
表紙には、きっちりした楷書でこう書いてある。
『桜庭さん語録』
「……え」
「本日の本題は、こちらです」
ページが開かれる。日付と、桜庭の言葉が、びっしりと並んでいた。
――十月七日 ホームルーム 『消しゴム一個に、思いやりが二個入ってるの』
――十月八日 校門 『布教は、本能だから』
――十月九日 中庭 『距離ごと、尊いの』
「日付まで覚えてんの!?」
今度は、桜庭が叫ぶ番だった。
その台詞、ホームルームでクラス全員が言ったやつだ。立場が、きれいに入れ替わっている。
「布教されました、と申し上げましたね」
久遠寺は、表情を一つも変えずに続ける。
「正確には、堀田くんに布教されたのではありません。堀田くんについて語る桜庭さんの、その語り口に、布教されました」
生徒会室が、しんと静まった。
「……つまり」
「私の推しは、桜庭さんです」
思い返せば、校門でファイルを受け取ったときの、あのほころんだ顔。あれは、推しから直接もらった供給への顔だったのか。
「僭越ながら、ひとつ朗読を」
久遠寺はノートを両手で持ち、背筋をのばした。
「十月九日、中庭。『推しとファンのあいだには、距離があるの。地球が生き物の住める星なのは――』」
「やめてやめてやめて! 本人の前で読まないで!」
桜庭が、うちわで机をばしばしたたく。
わかる。ものすごくわかる。ホームルームで俺が味わった地獄を、いま桜庭が、そっくりそのまま味わっている。
ちょっとだけ、胸がすっとした。ごめん。
久遠寺は朗読をやめると、机の下から、さらにもう一本取り出した。
うちわだ。きっちりした楷書で、『ゆあ もっと語って』。
「ひっ」
桜庭は椅子ごと後ずさり、そのまま俺の背中の後ろに回りこんだ。
制服の背中を、両手でぎゅっとつかまれる。
「ただいま、ファンが推しの背後に隠れました。天敵から身を守るときの行動です」
天敵って、あんたのことだぞ。
「推しを盾にするな」
「だって、推しの後ろは、太陽の裏側だから! いちばん安全なの!」
太陽に裏側はない。いや、ちょっとうれしいけど。
「ご安心ください」
久遠寺は、うちわを胸の前で静かに構えた。
「同担拒否の方から推しを奪うつもりは、ありません。私は、桜庭さんが堀田くんを推している姿を、推しているので」
「推しが、推しを、推して……?」
「推しの推しを推す、です」
早口言葉みたいになってきた。
「桜庭さんは、好きなものを語るとき、相手のいいところを、相手より先に見つけます」
久遠寺は、うちわの柄をそっと握りなおした。
「消しゴムの言い方も、傘のことも。堀田くん本人ですら、気づいていなかったでしょう。あれは、才能です。私はその才能を、推しています」
背中の後ろで、桜庭が「う……」と小さくうめいた。
悔しいけど、その意見には完全に同意する。
背中に桜庭の体温を感じながら、俺は妙な気分になっていた。
生徒会長に、推しを持っていかれそうになっている。いや、推しは俺のはずだ。じゃあ俺は、いったい何を持っていかれそうになっているんだ?
「つきましては、本日から毎週『桜庭さん語録』の朗読会を――」
「し、失礼しますっ!」
桜庭は俺の背中をぐいぐい押して、そのまま二人で生徒会室を飛び出した。
◇
夕方の渡り廊下まで来て、ようやく桜庭が足を止める。
息が切れている。うちわは、いつのまにか『反省中』の面がこっちを向いていた。
「……びっくりした」
「俺もだ」
「推されるって、ちょっと怖いね」
桜庭は、うちわの縁を指でなぞった。
「望遠鏡で、ずっとのぞかれてる星って、こんな気持ちなのかな。見られてるのに、見られてない感じ。私が言ったことは全部覚えてもらってるのに、私のことは、べつに知られてない感じ」
俺は、少しだけ笑ってしまった。
「俺は、ずっとそれだよ」
うちわの動きが、ぴたりと止まる。
「消しゴムのことも、傘のことも、メロンパンのことも、全部見られてる。今朝なんか、知らない一年生に絆創膏の予備をもらいに来られた。でも、俺がいま何を考えてるかは、たぶん誰も知らない」
「……あ」
うちわの向こうで、小さな声がした。
「私……堀田に、ずっとそれ、してたんだ」
しばらく、二人とも黙っていた。窓の外から、運動部のかけ声が遠く聞こえてくる。
「昨日ね」
桜庭が、ぽつりと言った。
「同担が増えて、うれしいはずなのに、泣いちゃった」
持久走大会のあと、桜の木の陰で落ちた涙のことだ。
「推しが全校に見つかって、みんなが堀田のいいところを知って……それ、ずっと私が望んでたことなのに。なんか、遠くに行っちゃった気がして」
うちわの柄が、きしりと鳴る。
「ファン失格だよね」
「そんなこと――」
「あるの。推しの幸せがいちばん、なのに」
言い切る声は明るかった。明るすぎて、かえって、ちっとも明るく聞こえない。
教室の真ん中で、誰の話でもきらきらした目で聞いている桜庭を、俺は知っている。
その目は、俺の前でだけ、うちわの向こうに隠れたままだ。
うちわ越しに話しているかぎり、俺たちはずっと、この距離のままなんだろう。推しとファン。見る側と、見られる側。
だったら、その形のままでいい。推しとファンが、ちゃんと顔を合わせる場所を作ればいい。
世の中には、まさにそのためのイベントがあるじゃないか。
「桜庭」
「……なに」
「金曜の昼休み、空けといてくれ」
うちわが、ぴくりと揺れた。
「決めた。――握手会を開く」




