第6話 応援席が二つある
校内持久走大会の朝、グラウンドには応援席が二つできていた。
一つ目は、スタート地点の右側。クラスの女子が六人、おそろいの水色のハチマキを巻いて、手作りのうちわを構えている。
『うちわ隊』だ。先週の布教の結果、正式に結成されてしまった。
真ん中に立つ隊長――桜庭のうちわには、太い字でこう書いてある。
『完走して』
見慣れない文字だった。いつものうちわは、見なくていいとか、接触禁止とか、こっちを遠ざける言葉ばかりだったから。
二つ目は、左側。料理部の一年生たちが、物干し竿みたいに長い旗を立てている。
『堀田先輩 完走したらメロンパン半分こ』
旗の下で、小森が全力で手を振っていた。半分こ、まだあきらめていないらしい。
そして本部テントには、マイクを握った久遠寺がいる。
「実況は、生徒会長の久遠寺です。解説は、とくにおりません。本日は、本校の生徒およそ三百名による、五キロの大移動をお届けします」
いらないのか、解説。あと、大移動って言うな。
うちわ隊の前を通りかかると、桜庭が、さっとうちわを顔の前に上げた。
「今日のうちわ、いつもと違うんだな」
「……今日は、特別。持久走って、推しが校庭を一周するでしょ。あれは、公転なの」
「ただのトラック一周だ」
「堀田は、走ってればいいの。見るのは、こっちの仕事だから」
見るのは、こっちの仕事。
うちわの向こうの声は、いつもより少しだけ低くて、真剣だった。
土曜のことは、あれから一度も聞いていない。
週明けの月曜、桜庭は「おはよ」とだけ言って、いつもどおりうちわの向こうに隠れた。押し入れのうちわの話は、どちらからも出なかった。
聞けば、何かが変わってしまう気がする。だから聞かないことにした。少なくとも、いまは。
「お前、今日はどうすんの」
スタートラインで、大貫が屈伸しながら言った。
「普通に走る。真ん中くらいで」
「欲がねえな。うちわ隊が泣くぞ」
「お前は」
「上位。野球部は十位以内に入らないと、監督にノック百本追加される」
大貫の目は、本気だった。
◇
号砲が鳴る。
男子は五キロ。グラウンドを一周してから校門を出て、河川敷を往復するコースだ。
最初の一キロで、大貫は「じゃあな」と言い残して視界から消えた。ノック百本の恐怖は、野球部員の足をとんでもなく速くするらしい。
グラウンドを回っているあいだ、スピーカーからは久遠寺の実況が流れ続けていた。
「先頭は陸上部の三年生。九番手に、野球部の大貫くん。理由は、ノックだそうです」
なんで、そこまで知ってるんだ?
俺は予定どおり、集団の真ん中あたりで河川敷に入った。
沿道には、ところどころに応援の生徒が立っている。うちわ隊の何人かも、自転車で先回りしているらしい。曲がり角のたびに、水色のハチマキがちらりと見えた。
応援されながら走るのは、思っていたよりずっと落ち着かない。俺、そんなに見ごたえのある走り方をしているか?
折り返しを過ぎて、二キロ半ほど走ったあたりだった。
前を走っていた一年生が、急にがくんと前のめりになった。
そのまま、砂利の上に手をついて転ぶ。
「大丈夫か」
足を止めて駆け寄ると、一年生は顔をしかめて、自分の靴を見ていた。
右の靴ひもが、途中でぶつりと切れている。
「すみません、これ、もう……」
「ちょっと待って」
俺は短パンの左ポケットに手を入れた。
予備の靴ひもは、いつもここに入れている。
小学生のころ、遠足の途中で靴ひもが切れて、片足を引きずりながら帰った日があった。それ以来、なんでも一つ多く持ち歩く癖がついた。消しゴムが二個なのも、たぶん同じ理由だ。
古いひもを抜いて、新しいひもを通す。きつめに結んで、ほどけないように二重にする。
そのあいだに、後ろから来た集団が、俺たちの横を何十人も追い抜いていった。
「……先輩、順位が」
「いいよ。どうせ真ん中くらいの予定だったし」
一年生を立たせて、背中をぽんとたたく。
「ほら、行け」
一年生は、何度も頭を下げてから走り出した。
名前を聞きそびれた。まあ、いいか。靴ひもは返さなくていいやつだし。
誰も見ていない河川敷なら、こういうことは平気でできる。見られていないから、なんでもないことのままにしておける。
さて、俺も行くか。だいぶ後ろになったけど。
そう思って顔を上げたら、曲がり角の向こうで、水色のハチマキの三人が、そろってスマホを耳に当てていた。
……なんだか、嫌な予感がする。
◇
その予感は、校門をくぐった瞬間に当たった。
「――ただいま、河川敷のうちわ隊から入った情報によりますと」
グラウンドのスピーカーから、久遠寺の落ち着いた声が流れている。
「二年四組の堀田誠くんが、転倒した一年生の靴ひもを、自分の予備の靴ひもで結び直したそうです。予備を、持ち歩いていたそうです」
なんで二回言うんだ?
「繰り返します。予備を、持ち歩いていたそうです」
三回目。
グラウンドが、どっと沸いた。
最後の一周は、トラックだ。
俺が入っていくと、そこらじゅうから拍手が起こる。順位は、たぶん百番台の後ろのほう。それなのに、優勝したみたいな拍手だった。
右の応援席から、うちわ隊の声がそろう。
「ほ・っ・た! ほ・っ・た!」
左の応援席では、料理部の旗が大きく揺れている。
「先輩! 炭水化物は、愛です! メロンパン、半分こです!」
メロンパン、いま関係あるか?
全校の目が、俺に向いていた。
誰も見ていないはずの河川敷で靴ひもを結んだのに、気づけば全員に見られている。
見られるって、こういうことなのか。うれしいのか恥ずかしいのか、自分でもよくわからない。
右の応援席の真ん中で、『完走して』のうちわが、高く高く掲げられていた。
頼まれたら、走るしかない。
残りの半周を、肺がちぎれそうになるまで全力で走る。
ゴールテープは、とっくに切られて片づけられている。それでもラインを越えた瞬間、グラウンドじゅうが歓声に包まれた。
「堀田くん、ゴール。百八十七位です」
久遠寺の実況が、なぜか少しだけ震えていた。
「……失礼しました。少し、感動しています。本校の生態系が、いま、変わろうとしています」
実況席で感動するな。いや、してくれるのはありがたいけど。
◇
ゴールの先で、膝に手をついて息を整える。
大貫が、スポーツドリンクを放ってよこす。
「九位。ノック回避」
「……おめでとう」
「お前のほうがおめでとうだろ。何だよ、あの拍手。俺のゴールのときより大きかったぞ」
大貫は文句を言いながら、なぜか少しうれしそうだった。
うちわ隊の輪の中に、桜庭の姿がない。どこに行った?
見回すと、応援席の端の、桜の木の陰に一人で立っていた。
うちわで顔を隠して、肩が小さく震えている。
「桜庭」
近づくと、うちわの向こうから、鼻をすする音がした。
「……尊すぎて、超新星爆発しそう」
「するな」
「推しが……全校に、見つかっちゃった……」
いつもの冗談みたいな言い方だった。
なのに、うちわの下から、涙が一粒だけ落ちた。
グラウンドの乾いた土に、小さな染みができる。
その涙が、うれしいほうなのか、そうじゃないほうなのか。
俺には、まだわからなかった。




