↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/14

第6話 応援席が二つある

 校内持久走大会の朝、グラウンドには応援席が二つできていた。


 一つ目は、スタート地点の右側。クラスの女子が六人、おそろいの水色のハチマキを巻いて、手作りのうちわを構えている。


 『うちわ隊』だ。先週の布教の結果、正式に結成されてしまった。


 真ん中に立つ隊長――桜庭のうちわには、太い字でこう書いてある。


 『完走して』


 見慣れない文字だった。いつものうちわは、見なくていいとか、接触禁止とか、こっちを遠ざける言葉ばかりだったから。


 二つ目は、左側。料理部の一年生たちが、物干し竿みたいに長い旗を立てている。


 『堀田先輩 完走したらメロンパン半分こ』


 旗の下で、小森が全力で手を振っていた。半分こ、まだあきらめていないらしい。


 そして本部テントには、マイクを握った久遠寺がいる。


「実況は、生徒会長の久遠寺です。解説は、とくにおりません。本日は、本校の生徒およそ三百名による、五キロの大移動をお届けします」


 いらないのか、解説。あと、大移動って言うな。


 うちわ隊の前を通りかかると、桜庭が、さっとうちわを顔の前に上げた。


「今日のうちわ、いつもと違うんだな」


「……今日は、特別。持久走って、推しが校庭を一周するでしょ。あれは、公転なの」


「ただのトラック一周だ」


「堀田は、走ってればいいの。見るのは、こっちの仕事だから」


 見るのは、こっちの仕事。


 うちわの向こうの声は、いつもより少しだけ低くて、真剣だった。


 土曜のことは、あれから一度も聞いていない。


 週明けの月曜、桜庭は「おはよ」とだけ言って、いつもどおりうちわの向こうに隠れた。押し入れのうちわの話は、どちらからも出なかった。


 聞けば、何かが変わってしまう気がする。だから聞かないことにした。少なくとも、いまは。


「お前、今日はどうすんの」


 スタートラインで、大貫が屈伸しながら言った。


「普通に走る。真ん中くらいで」


「欲がねえな。うちわ隊が泣くぞ」


「お前は」


「上位。野球部は十位以内に入らないと、監督にノック百本追加される」


 大貫の目は、本気だった。


 ◇


 号砲が鳴る。


 男子は五キロ。グラウンドを一周してから校門を出て、河川敷を往復するコースだ。


 最初の一キロで、大貫は「じゃあな」と言い残して視界から消えた。ノック百本の恐怖は、野球部員の足をとんでもなく速くするらしい。


 グラウンドを回っているあいだ、スピーカーからは久遠寺の実況が流れ続けていた。


「先頭は陸上部の三年生。九番手に、野球部の大貫くん。理由は、ノックだそうです」


 なんで、そこまで知ってるんだ?


 俺は予定どおり、集団の真ん中あたりで河川敷に入った。


 沿道には、ところどころに応援の生徒が立っている。うちわ隊の何人かも、自転車で先回りしているらしい。曲がり角のたびに、水色のハチマキがちらりと見えた。


 応援されながら走るのは、思っていたよりずっと落ち着かない。俺、そんなに見ごたえのある走り方をしているか?


 折り返しを過ぎて、二キロ半ほど走ったあたりだった。


 前を走っていた一年生が、急にがくんと前のめりになった。


 そのまま、砂利の上に手をついて転ぶ。


「大丈夫か」


 足を止めて駆け寄ると、一年生は顔をしかめて、自分の靴を見ていた。


 右の靴ひもが、途中でぶつりと切れている。


「すみません、これ、もう……」


「ちょっと待って」


 俺は短パンの左ポケットに手を入れた。


 予備の靴ひもは、いつもここに入れている。


 小学生のころ、遠足の途中で靴ひもが切れて、片足を引きずりながら帰った日があった。それ以来、なんでも一つ多く持ち歩く癖がついた。消しゴムが二個なのも、たぶん同じ理由だ。


 古いひもを抜いて、新しいひもを通す。きつめに結んで、ほどけないように二重にする。


 そのあいだに、後ろから来た集団が、俺たちの横を何十人も追い抜いていった。


「……先輩、順位が」


「いいよ。どうせ真ん中くらいの予定だったし」


 一年生を立たせて、背中をぽんとたたく。


「ほら、行け」


 一年生は、何度も頭を下げてから走り出した。


 名前を聞きそびれた。まあ、いいか。靴ひもは返さなくていいやつだし。


 誰も見ていない河川敷なら、こういうことは平気でできる。見られていないから、なんでもないことのままにしておける。


 さて、俺も行くか。だいぶ後ろになったけど。


 そう思って顔を上げたら、曲がり角の向こうで、水色のハチマキの三人が、そろってスマホを耳に当てていた。


 ……なんだか、嫌な予感がする。


 ◇


 その予感は、校門をくぐった瞬間に当たった。


「――ただいま、河川敷のうちわ隊から入った情報によりますと」


 グラウンドのスピーカーから、久遠寺の落ち着いた声が流れている。


「二年四組の堀田誠くんが、転倒した一年生の靴ひもを、自分の予備の靴ひもで結び直したそうです。予備を、持ち歩いていたそうです」


 なんで二回言うんだ?


「繰り返します。予備を、持ち歩いていたそうです」


 三回目。


 グラウンドが、どっと沸いた。


 最後の一周は、トラックだ。


 俺が入っていくと、そこらじゅうから拍手が起こる。順位は、たぶん百番台の後ろのほう。それなのに、優勝したみたいな拍手だった。


 右の応援席から、うちわ隊の声がそろう。


「ほ・っ・た! ほ・っ・た!」


 左の応援席では、料理部の旗が大きく揺れている。


「先輩! 炭水化物は、愛です! メロンパン、半分こです!」


 メロンパン、いま関係あるか?


 全校の目が、俺に向いていた。


 誰も見ていないはずの河川敷で靴ひもを結んだのに、気づけば全員に見られている。


 見られるって、こういうことなのか。うれしいのか恥ずかしいのか、自分でもよくわからない。


 右の応援席の真ん中で、『完走して』のうちわが、高く高く掲げられていた。


 頼まれたら、走るしかない。


 残りの半周を、肺がちぎれそうになるまで全力で走る。


 ゴールテープは、とっくに切られて片づけられている。それでもラインを越えた瞬間、グラウンドじゅうが歓声に包まれた。


「堀田くん、ゴール。百八十七位です」


 久遠寺の実況が、なぜか少しだけ震えていた。


「……失礼しました。少し、感動しています。本校の生態系が、いま、変わろうとしています」


 実況席で感動するな。いや、してくれるのはありがたいけど。


 ◇


 ゴールの先で、膝に手をついて息を整える。


 大貫が、スポーツドリンクを放ってよこす。


「九位。ノック回避」


「……おめでとう」


「お前のほうがおめでとうだろ。何だよ、あの拍手。俺のゴールのときより大きかったぞ」


 大貫は文句を言いながら、なぜか少しうれしそうだった。


 うちわ隊の輪の中に、桜庭の姿がない。どこに行った?


 見回すと、応援席の端の、桜の木の陰に一人で立っていた。


 うちわで顔を隠して、肩が小さく震えている。


「桜庭」


 近づくと、うちわの向こうから、鼻をすする音がした。


「……尊すぎて、超新星爆発しそう」


「するな」


「推しが……全校に、見つかっちゃった……」


 いつもの冗談みたいな言い方だった。


 なのに、うちわの下から、涙が一粒だけ落ちた。


 グラウンドの乾いた土に、小さな染みができる。


 その涙が、うれしいほうなのか、そうじゃないほうなのか。


 俺には、まだわからなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。