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第5話 推しの家は聖地なので

「あら、誠の彼女?」


「いえ、ファンです」


「……ファン?」


 土曜の朝十時。うちの玄関で、母と桜庭が、まったく噛みあわない会話をしている。


 桜庭は、サングラスにマスクに、うちわ。今日のうちわの文字は『聖地巡礼』。顔の面積の九割が、何かしらで覆われている。


「聖地では、顔を隠すのが礼儀なので。あと、聖地の空気は、そのまま吸うと濃すぎるので」


「……誠。お母さん、いまの若い子の礼儀が、ちょっとわからない」


 大丈夫だ、母さん。俺にもわからない。


 どうしてこうなったのか。話は、昨日の昼までさかのぼる。


 ◇


 中庭の公開討論のあと、桜庭は一日じゅう、いつもより静かだった。


 うちわの文字も、翌日まで『接触禁止』のまま。新作が出ないのは、この三か月で初の事態だった。


 その空気をぶち破ったのは、昨日の昼休みに教室へ飛びこんできた小森だった。


「先輩! 今日はこれを見てほしくて!」


 差し出されたスマホの画面に、見覚えのある子どもが写っていた。


 七五三の羽織袴で、千歳飴を剣みたいに構えている、五歳の俺だ。


「……どこで、これを」


「妹さんから買いました! プリン二個で!」


 うちの妹が、俺を売っている。しかも、プリンで。


 妹の菜々は中学三年生で、小森は中学時代、菜々の料理部の一つ上の先輩だったらしい。世間が狭すぎる。


 そこへ、いつものように桜庭が割って入ろうとして、画面を見たとたん固まった。


「こ、公式の……幼少期の……供給……」


 うちわが、ぷるぷると震えている。


「独占販売なんて許されない! 公式の供給は、太陽の光と同じなの! 誰の上にも、平等に降りそそぐべきなの!」


 怒る方向が、ちょっとずれている気がする。


 でも、うちわの向こうの声には、久しぶりに元気が戻っていた。俺はそこで、ひらめいた。


「じゃあ明日、うちに来て、妹と直接話をつけてくれ」


「……え」


「公式と交渉するなら、本社に来るしかないだろ」


 うちわの向こうで、長い沈黙があった。


「推しの家とか……ブラックホールじゃん……一歩入ったら、もう二度と戻ってこれない……無理……」


「無理か」


「……行く」


 行くのか。


 ◇


 そして、現在に至る。


 リビングでは、菜々が腕を組んで待っていた。テーブルの上には、手書きの紙が一枚。


 『兄の写真 価格表』


 ・幼稚園の運動会 プリン一個


 ・七五三 プリン二個


 ・小三の遠足(転んで泣いている) 非売品


 非売品があるのが、かえって腹立たしい。


「いらっしゃいませ。公式ショップ堀田家へようこそ。店長の菜々です」


「ファンの、桜庭ゆあです……」


 桜庭が、深々と頭を下げた。公式に対する礼儀は完璧らしい。


「交渉の前に、ご案内です」


 菜々は、事務的に両手を差し出した。


「室内でのうちわ・サングラス・マスクのご使用は、ご遠慮いただいております。お手荷物は、こちらでお預かりします」


「えっ」


「母の方針なので」


 うちわが、サングラスが、マスクが、次々と菜々の手に回収されていく。


 顔が、出る――と思った瞬間、桜庭はソファのクッションをつかんで、顔の前に構えた。


 早い。うちわの代わりが、もう見つかっている。


 交渉は、思っていたより本格的だった。


「独占販売は、やめてください。推しの写真は、ファン全体の財産です」


「需要があるのに? お兄ちゃんの写真、いま一年生のあいだで相場が上がってるんですけど。在庫も、まだまだございます」


 俺の相場が、上がっている。株か何かか?


「それに、プリンがないと困るんです。今月、化粧品にお金使いすぎちゃって」


 菜々が、前髪をいじりながら口をとがらせた。


 見ると、菜々のまぶたが妙にきらきらしている。ラメが、まぶたの外まで盛大にはみ出していた。


 クッションの向こうで、桜庭の声色が変わった。


「……そのアイシャドウ、指で塗った?」


「え、はい」


「ラメはね、ブラシの先でちょんって置くの。まぶたの真ん中だけ。……ちょっと、貸して」


 気づいたら、桜庭はクッションを膝に置き、菜々の顔をのぞきこんでいた。


 顔が出ている。なのに、俺のほうには背中しか向けていない。この状況でも推しの視界にだけは入らない、驚異の位置取りだ。


 五分後、菜々の目もとは、別人みたいにすっきりしていた。


 菜々は手鏡を見つめたまま、しばらく黙りこんだ。


「……プリン、いりません」


「え」


「その代わり、メイク、また教えてください。写真の販売は、今日で終わりにします」


「交渉、成立?」


「成立です」


 公式とファンが、テーブルの上で固い握手を交わした。


 俺の写真の行方は、俺抜きで決まった。だいたい、いつもそうだ。


「じゃ、聖地巡礼のメインどうぞ」


 菜々が、廊下の奥を指さす。俺の部屋だ。


「メイン……」


「お兄ちゃんの部屋に決まってるでしょ。公式ツアーです」


 ◇


 そういうわけで、桜庭はいま、俺の部屋の入口で、クッションを顔に当てたまま立ち尽くしている。


「……ここが、恒星の中心核……推しの部屋の空気、吸っていいの?」


「ただの六畳だ。吸ってくれ。普通に」


 桜庭は、地雷原でも歩くみたいに、一歩ずつ部屋へ入ってきた。


 机の上の消しゴムの箱を見つけて、「予備の、予備……」と震える声でつぶやく。そこ、感動するところか?


 二人きりだ。


 壁の時計の音が、やけに大きく聞こえる。


 クッションの端から、明るい色の髪と、真っ赤な耳がのぞいていた。うちわより、クッションのほうが隠せる面積が少ないらしい。


「なあ」


「な、なに」


「来てくれて、ありがとな」


「……ファンサ禁止だって、言ったのに」


「これはファンサじゃない。普通のお礼」


 クッションが、ぎゅっと縮んだ。


 そのとき、桜庭の動きが止まった。


 視線の先には、押し入れがある。ふすまが、少しだけ開いていた。


 奥に立てかけてあるのは、あのうちわだ。表にはピンクの丸文字で『こっち見て』、裏にはオレンジ色のシールが一枚。


「ああ、それ」


 俺は、なんでもないことのように言った。


「三月に、空き教室で拾ったんだ。持ち主に返したくて、ずっと探してる」


 返事がない。


 クッションを持つ手が、震えていた。中庭で見た、白くなった指と同じ震え方だった。


「……見つかると、いいね」


 やっと聞こえた声は、かすれていた。


「き、今日はこれで! 供給過多なので!」


 桜庭はクッションを俺の胸に押しつけると、部屋を飛び出していった。


 玄関のほうで、菜々が預かっていたうちわを返す声がする。


「はい、お手荷物です」


「あ、ありがと! お、お邪魔しました!」


 ドアが閉まり、嵐が去ったあとみたいに、家の中が静かになった。


 リビングに戻ると、菜々が妙ににやにやしていた。


「お兄ちゃん」


「なんだ」


「あの人のうちわの裏、見たことある?」


「裏? ないけど」


「ふーん」


 菜々は、冷蔵庫から出したプリンのふたを、ぺりっとはがした。


「プリン三個で、教えてあげてもいいけど」


「何を」


「……やっぱ、やめとく。公式は、口が堅いので」


 何なんだ、うちの公式は。


 部屋に戻って、押し入れのうちわを手に取った。


 桜庭は、どうしてこれを見て、あんな声を出したんだろう。


 押し入れのうちわは、今日も『こっち見て』と言っている。


 誰に向かって言っているのか、俺はまだ知らない。

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