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第3話 推しのファンサは断れないらしい

「ご覧ください。推しが、登校してまいりました」


 翌朝、校門の前で、生徒会長がメモ帳を構えて待っていた。


 登校中の生徒たちが、俺と久遠寺を見比べながら、遠巻きに通りすぎていく。


 学校一の美少女に、野生動物みたいに実況されながら迎えられる朝。そんな予定は、俺の人生の予定表には一行も書いていない。


「おはようございます、堀田くん。本日は、推しの生態調査に参りました」


「生態調査?」


「新規として、基本情報を把握したいのです。まず一つ目」


 久遠寺は、ボールペンをかちりと鳴らした。


「消しゴムは、なぜ二個なのですか。三個ではいけない理由はありますか」


「……三個だと、筆箱が閉まらない」


「なるほど。合理的な生態です」


 さらさらとメモを取っている。


 そこ、メモするところか?


「二つ目。傘を直すとき、骨は何本まで――」


「ちょっと待ったーっ!」


 駅のほうから、桜庭が全力で走ってきた。


 スカートをひるがえし、スクールバッグを振り回し、それでも右手のうちわだけは顔の前から一ミリも動かない。


 体幹がどうなっているんだ。


 今日のうちわは、ゆうべ作り直したらしい。マジックの跡もなまなましい『同担拒否』。


「し、新規さんは! まず過去の供給を履修してからにしてください! 推しの歴史を知らないで推しを語るのは、星図を持たずに銀河に出るのと同じだから!」


「では、その星図をいただけますか」


「……はい」


 桜庭は、バッグから分厚いファイルを取り出して、両手で差し出した。


 昨日の資料より、さらに厚い。


 色分けのインデックスまでついている。


「拒否するんじゃなかったのか」


「布教は、本能だから……」


 同担を拒否したい気持ちと、推しを語りたい気持ちが、うちわの向こうで殴りあっている。


 どちらが勝ったかは、ファイルの厚みを見れば明らかだった。


 久遠寺はファイルを受け取ると、表紙を一度そっとなでてから、丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます。大切に読みます」


 無表情な横顔が、ほんの少しだけほころんだ気がした。


 ◇


「お前さ、推されてるんだろ」


 昼休み、野球部の部室の前でパンをかじりながら、大貫が言った。


「らしいな」


「だったら、推しにしかできないことがあるだろ。ファンサだよ、ファンサ」


 大貫の姉は、ライブの最前列に命をかけるタイプのドルオタだ。


 おかげで大貫は、野球のサインより先に、アイドルのファンサの種類を覚えたらしい。


「手を振る。指さす。ウインク。名前を呼ぶ。お見送り」


 大貫が、指を一本ずつ折っていく。


「姉ちゃんが言ってた。『ファンサは、撃つ側にも反動が来る。撃つなら、覚悟して撃て』」


「何の覚悟だよ」


「知らん。姉ちゃんは、それを言ったあと、ウインク一発もらって三日寝込んでた」


 撃たれた側じゃないか。


 なるほど。つまり、桜庭の推し活に、こっちも推しとして応じればいい。


 昨日から振り回されっぱなしだったけれど、そろそろ反撃したっていいはずだ。


「よし。ウインクの練習をする」


「やってみろ」


 ぱちっ。


「それはまばたきだ」


 ぱちっ。


「両目閉じてんだよ」


 ぱちっ。


「……もうやめとけ。お前は指さしにしろ」


 ◇


 放課後の昇降口。桜庭は、下駄箱の前で靴を履きかえていた。


 俺に気づいた瞬間、うちわが顔の前に跳ね上がる。『同担拒否』の文字が、まっすぐこっちを向いた。


 心臓がうるさい。


 指をさすだけだ。たったそれだけのことで、なんでこんなに緊張しているんだ?


 撃つなら、覚悟して撃て。大貫の姉ちゃんの声が、なぜか頭の中で再生される。会ったこともないのに。


 俺は腕をまっすぐ伸ばした。


 人さし指の先を、うちわのど真ん中に向けて。


「……桜庭。今日も、来てくれてありがとう」


 一秒。


 二秒。


「――あ」


 うちわの向こうから、空気の抜けるような声がした。


 桜庭の体が、下駄箱にもたれたまま、ずるずると下がっていく。そのまま床に、ぺたんと座りこんだ。


「桜庭!?」


「推しの……指さし……ゼロ距離……」


「生きてるか」


「……いま、私の中で、宇宙がひとつ生まれた」


「勝手に宇宙を生むな」


「ビッグバンって、こういう音がするんだね……」


 しない。昇降口には、下駄箱の扉がきしむ音しかしていない。


 効きすぎた。反動は、たしかに来た。こっちの心臓にも、けっこう来ている。


 俺はしゃがんで目線を合わせ――ようとして、やめた。合わせる目が、うちわの向こうにあるからだ。


「じゃあ次。お見送り会」


「お、お見送り……?」


「推しがファンを、家の近くまで見送るイベント」


「そんなイベントない!」


「いま作った。ファンサだから、断れないよな?」


 うちわの向こうで、うー、とうなる声がした。


「……ずるい。推しのくせに」


 「推しのくせに」って、いったいどういう種類の悪口なんだ。


 ◇


 帰り道の桜庭は、うちわを顔の前に掲げたまま歩いた。


 前が見えているのかどうか、かなり怪しい。


 案の定、三本目の電柱に、うちわごと正面からぶつかった。


「いった……!」


「前、見えてないだろ」


「見えてる! 心の目で!」


 俺はさりげなく車道側に回り、ついでに、電柱が来るたびに「電柱」と知らせる係になった。推しの仕事にしては、ずいぶん地味だ。


「なあ。なんで、俺なんだ」


 四本目の電柱をよけたところで、聞いてみた。


「それは秘密」


「なんで」


「推しに推しの理由を言うのは、ネタバレだから」


「本人にネタバレって概念あるのか?」


「あるの! 太陽はね、自分が明るいって知らないの。知ったら、たぶん照れて沈んじゃうから」


 わけのわからない天文学なのに、うちわの向こうの声は、教室にいるときよりずっと楽しそうだった。


 桜庭は、好きなものの話をするときがいちばん早口になる。推し活の心構え、うちわの文字の選び方、誕生日の祭壇のロウソクは火事が怖いから電池式だったこと。


 ……電池式で、心の底から安心した。


 うちわを持つ指先が、水色に光っていた。


「爪、きれいだな」


「あっ……これ、堀田のメンカラ」


「メンカラ?」


「メンバーカラー。勝手に決めたの。水色。堀田の消しゴムのケースの色」


 消しゴムのケース。俺の色の決め手が、まさかの文房具だった。太陽の色ですらない。


 でも、悪い気はしない。むしろ、ちょっと、いや、かなりうれしい。


「前にも、推しがいたのか」


「いたよ。アイドル」


 桜庭は、少しだけ間をおいた。


「三月に、卒業しちゃった」


「卒業……」


「もういいの。いまは堀田がいるし」


 言ってから、うちわががたっと揺れる。


「推しとして! 推しとしてね!」


「わかってるよ」


 わかってる。わかってるけど、わざわざ二回言うのはどうなんだ。


 交差点で、桜庭は立ち止まった。


 ここから先が、彼女の家の方角らしい。


「お見送り、ありがと。……今日も存在してくれて、ありがと」


 くるりと背を向けて、走り出す。


 その一瞬だけ、うちわが下がった。


 見えたのは横顔の、頬の端っこだけ。


 夕焼けのせいにするには、ちょっと赤すぎた。


 ◇


 推しに、指をさされた。


 部屋に帰るなり、私はベッドに倒れこんで三回転がり、四回目で床に落ちた。


 痛い。でも、それどころじゃない。今日、私の中で宇宙がひとつ増えたのだ。床の固さくらいで、どうにかなるものじゃない。


 ――今日も、来てくれてありがとう。


 あの声が、まだ耳の奥で鳴っている。


 棚の上には、ガムテープで封をした段ボール箱がある。マジックで書いた『開封禁止』。


 前の推しの、全部だ。


 その隣の小さな祭壇には、水色のケースの消しゴムが一個だけ置いてある。五月に借りて、「予備だから」と言われて、そのまま返せなくなったもの。


 公式グッズ、第一号。


 告白、された。


 うれしかった。死ぬほど。


 だけど、付き合ったら、いつか終わる。終わったら、もう推すこともできなくなる。


 推しなら、ずっと推していられる。


 三月みたいなのは、もう嫌だ。


 私はうちわを抱えて、天井を見上げた。


 表には『同担拒否』。堀田には、こっちの面しか見せたことがない。


 裏返す。


 私の側にだけ向いている面の、いちばん下の隅。うちわを作るたびに、どうしても書いてしまう二文字がある。


 『すき』


「……推しとして、だから」


 誰もいない部屋で言い訳をして、私はうちわに顔をうずめた。

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