第16話 看板は夜に塗る
「ペンキの乾燥中は、顔を出せないの」
金曜の夜、六時半。誰もいなくなった教室の戸口で、桜庭が言った。
今日のうちわの文字は『乾燥中』。体操着の上にエプロンをつけて、うちわだけはいつもどおり顔の前にある。
「何が乾燥中なんだ」
「表情。ペンキの近くで顔を出すと、表情に色がついちゃうから」
「つかない」
「つくの。推しの看板を塗る夜の表情は、たぶん水色になる」
理屈は分からないが、来てくれたことだけは分かる。それで十分だ。
教室の机は、明日のために全部後ろへ寄せてある。床の真ん中には新聞紙が敷かれ、その上に大きな板が一枚、寝かせてある。
白く下塗りされた板に、鉛筆で、丸い文字の下書きがしてある。
『堀田誠カフェ』
下書きをしたのは、もちろん総監修だ。どの文字も、少しずつ丸くて、少しずつ楽しそうに見える。
板の横には、クラスのみんなが帰りぎわに残していった付箋が、何枚も貼られていた。
『総監修へ 看板は任せた!』
『ときめきの助走、三メートル確保しました』
『明日の配置図、ちゃんと読めたよ』
桜庭は、うちわの陰で、その付箋を一枚ずつ指でなでていった。何も言わなかったけれど、うちわが、ほんの少しだけ下がった。
「二十時までね」
廊下から、江口先生が顔を出した。今日の見回り当番らしい。
「看板を塗る夜って、本番より楽しいのよ。本番は、あっという間に終わっちゃうから」
それだけ言うと、先生は職員室のほうへ戻っていった。俺たちは顔を見合わせ――いや、見合わせたのは俺の顔と、うちわだった。
◇
水色のペンキ缶を開けると、つんとした匂いが広がる。
「ペンキの匂いって、ちょっと宇宙の匂いがするよね」
「しない。宇宙の匂いを嗅いだことあるのか?」
「ないけど、たぶんこんな感じ」
刷毛は二本。文字は六つ。
「どう分ける?」
「堀田は、『堀田誠』を塗って」
「なんで俺が、自分の名前を」
「推しの名前を、私の筆で塗るなんて、恐れ多いから」
桜庭は、うちわを片手に持ったまま、もう片方の手で刷毛をつかむ。
「私は『カフェ』と、まわりの枠をやる」
こうして俺は、自分の名前を、自分で看板に塗ることになった。
堀、の一画目を塗りながら思う。
こんなに恥ずかしい作業が、この世にあったのか。自分の名前を、水色で、太く、丁寧に。明日、この字の下で、一日じゅう指さしをするのだ。
隣で、桜庭は黙々と「カ」を塗っている。
うちわを顔の前に立てたまま、片手で塗っている。それでも、線は一本もはみ出さない。クレープ屋の鉄板で鍛えた手つきだ。
「なあ。なんで、クレープ屋でバイトしてるんだ?」
「推し活には、お金がかかるの」
即答だった。
「うちわの紙、ペン、ラミネート。祭壇の電池式のロウソク。等身大パネルは、段ボールだけで二千円」
「俺のパネル、二千円もしたのか」
「安いくらい。……前の推しのときは、うちわを百本くらい作ったから。オレンジの紙で、ぜんぶ手書きで」
オレンジ。
刷毛を持つ手が、一瞬だけ止まった。押し入れのうちわの裏の、オレンジ色のシールが、頭の隅に浮かぶ。
この前の買い出しで、桜庭がオレンジのペンキを避けたときの、あの一瞬の間も。
でも、桜庭はもう次の文字に移っていて、俺は何も聞けなかった。
しばらく、刷毛が板をこする音だけが続く。
窓の外はもう真っ暗で、蛍光灯の光が、ペンキの表面でゆらゆら揺れている。
「明日ね」
「フ」に取りかかったところで、桜庭がぽつりと言った。
「明日は、みんなが堀田を見に来るね」
「らしいな」
「推しの、晴れ舞台だね」
声は明るかった。でも、刷毛の動きが、少しだけゆっくりになっていた。
「私は、厨房の奥にいるから。見えないところから、ちゃんと――」
「俺は、君に見てほしいんだけど」
◇
言ってから、自分の声が、教室にやけに大きく響いた気がした。
桜庭の刷毛が、止まった。
刷毛の先から、水色のしずくが一滴、落ちた。
しずくは、桜庭の左手の、うちわの上に落ちた。『乾燥中』の「乾」のすぐ横に、小さな水色の点ができる。
桜庭は、それをぬぐおうともしなかった。
うちわの縁から、耳が見えた。
さっきまで普通の色だった耳が、じわじわと、端のほうから赤くなっていく。
壁の時計の秒針が、こつ、こつ、と三回鳴った。
俺は、そこでやっと、自分が何を言ったのかに気づいた。
「……看板を」
声が、変なところで裏返った。
「看板の出来を。総監修に、見てほしい。そういう意味で」
「……う、うん」
うちわの向こうから、小さな返事がした。
「看板ね。看板」
「看板だ」
「看板、だよね」
三回、看板を確認された。
桜庭は、刷毛を持ちなおした。うちわの水色の点は、そのままだった。
それから、何も言わずに「フ」の続きを塗りはじめた。
俺も、「誠」の最後のはねを塗る。手もとが、さっきより明らかに雑になっている。自分の名前の最後の一画が、ちょっとだけ震えて、水色がはみ出した。
看板に、俺の動揺が永久保存された。明日、全校がこれを見上げるのか?
◇
二十時の少し前に、看板は塗り終わった。
『堀田誠カフェ』。水色の、少し丸い文字。
最後に、桜庭が、刷毛の先にほんの少しだけペンキをつけて、看板の右下の隅に何かを描いた。
小さな丸と、そのまわりの、短い線が八本。
太陽だった。
水色の、太陽。
「……太陽って、水色だったっけ」
「推しのメンカラだから」
桜庭は、それ以上は何も言わなかった。
水色の太陽なんて、見たことがない。見たことはないけれど、なぜか、その小さな落書きが、看板のどの文字よりもいちばん目に入った。
「はい、時間よー」
江口先生の声が廊下から響いて、俺たちはあわてて刷毛を洗いはじめた。
水道の前で、桜庭は、うちわについた水色の点を、一度だけ指でなぞった。消そうとしたのか、確かめようとしたのか、俺には分からなかった。
「じゃ、明日。……がんばってね、推し」
「おう」
「今日も存在してくれて――」
言いかけて、桜庭は口をつぐんだ。
「……ありがと」
それだけ言って、上履きの音が廊下の向こうへ消えていった。
◇
片づけを終えて教室に戻ると、窓際の机の上に、ピンクの表紙のノートが一冊、残っている。
『観測記録』。
看板の文字の大きさを決めるのに、桜庭がずっと開いていたノートだ。
追いかけようとして、やめた。上履きの音は、もうとっくに聞こえない。
それに、俺は桜庭の連絡先を知らない。推しがファンの連絡先を知るのは、認知の極みで解釈違いらしい。どういう理屈だ? 三か月前に、本人にそう断られている。
俺は、ノートを開かずに、桜庭の机の引き出しにそっとしまった。
明日の朝、本人が気づくだろう。
床では、看板が、ゆっくりと乾いていく。
右下の隅で、水色の太陽が、蛍光灯の光を少しだけ返していた。




