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第15話 総監修が来ない日

「総監修がいないと、星図が読めない……」


 月曜の放課後。副隊長が、黒板の前でチョークを持ったまま途方に暮れている。


 黒板には、先週桜庭が書いた店の配置図が、そのまま残っている。窓際の推しの席、一回だけ曲がる通路、少し低い客席。線はきれいに引かれているのに、細かいところが分からない。


「ここの『光の角度は午後二時基準』って、どういう意味?」


「この矢印の横の『ときめきの助走』って、何メートル?」


 誰にも答えられない。答えられるのは、総監修だけだ。


 その総監修は、三日続けて、放課後の準備に来ていない。


 授業にはちゃんと出ている。休み時間には、いつもどおり友だちとしゃべって、笑っている。


 俺の前では、いつもどおりうちわで顔を隠す。


 なのに、チャイムが鳴った瞬間、誰よりも先に教室を出ていく。


 空いた総監修の席に、『総監修』のうちわだけが置き去りにされていた。


「……桜庭がいないと、こんなに何も決まらないんだな」


 誰かがぽつりと言った。


 俺も、同じことを思っていた。


 推しを見せる係が、いちばん見えていなかったのかもしれない。


 ◇


「桜庭さんの下校経路は、三日前から変わっています」


 生徒会室で、久遠寺がノートを開いた。表紙には『語録』ではなく『観測』と書いてある。種類が増えている。


「以前は駅の方向。現在は、商店街の方向です。毎日、十六時十分ごろ、商店街の入口を通過しています」


「……それ、桜庭のノートと同じことしてないか?」


「私のは、推し活です」


 久遠寺は、一切悪びれずに言い切った。


「生徒会は、生徒の安全のために観測しているだけです。推し活は、私の私生活です」


「いま、二つ混ざってなかったか?」


 隣で聞いていた大貫が、腕を組んだ。


「商店街なら、魚屋のおっちゃんに聞くのが早い。あの人、商店街の全員の顔を知ってる」


 なんで知ってるんだ、と聞くと、「野球部の打ち上げは、いつもあそこの裏の店だから」と返ってきた。


 野球部の情報網は、思っていたより地元に根を張っていた。


 三人で、商店街へ向かった。


 ◇


 魚屋のおじさんは、大貫の顔を見るなり、話を全部わかったような顔をした。


「明るい髪の、うちわの子? ああ、鶴見さんとこの新しい子だろ。奥のクレープ屋」


 商店街の奥。この前の買い出しの帰りに、桜庭がちらりと見ていた方向だった。


 小さな店だ。軒先に、手書きの看板。『クレープ つるみ』。


 甘い匂いが、通りの半分くらいまで漂っている。


 カウンターの向こうに、エプロン姿の桜庭がいる。


 うちわは、持っていない。


 接客中だからだ。両手は、生地を焼くトンボと、クリームの絞り袋でふさがっている。


 俺たちに気づいた瞬間、桜庭の手が止まった。


 それから、目にもとまらぬ速さで、カウンターの上の手書きのメニュー表をつかみ、顔の前に立てた。


 メニュー表に、桜庭の顔が隠れる。『いちごカスタード 四八〇円』の文字が、ちょうど目のあたりにきている。どうせなら、もっと甘そうなメニューで隠れてほしかった。


「……いらっしゃいませ」


 メニュー表の向こうから、消え入りそうな声がした。


「ちょっと、ゆあちゃん」


 奥から、エプロンをつけた女の人が出てきた。四十代くらいで、髪をきゅっとまとめている。この人が鶴見さんらしい。


「お客さんには、ちゃんと顔見て注文とりなさい。メニュー表は、お客さんが読むものよ」


「て、店長、この人たちは、お客さんっていうか……推しと、その他です」


「その他って言われた」


 大貫が、真顔でつぶやいた。その他で悪かったな、と顔に書いてある。野球部の坊主頭は、感情が全部顔に出る。


「生徒会長です」


 久遠寺は、なぜか少しうれしそうだった。


 鶴見さんは、俺の顔とメニュー表を交互に見て、全部わかったような顔をした。商店街の大人は、どうしてみんな察しがいいんだろう。


「じゃあ、推しのお客さん。ご注文は?」


「……いちばん甘いやつを」


「はいよ。ゆあちゃん、いちばん甘いの、一つ」


 ◇


 メニュー表を片手に、桜庭はもう片方の手だけで、器用に生地を焼きはじめた。


 鉄板に生地を流し、トンボで薄く、丸くのばす。端がこんがりと色づいたところで、ひっくり返す。クリームを絞り、いちごを並べ、くるりと巻いて、紙で包む。


 片手なのに、迷いがなかった。


「……上手いな」


「三か月やってるから」


 メニュー表の向こうで、桜庭が小さく言った。


 鶴見さんが、カウンターに肘をついて、俺のほうに身を乗りだす。


「クレープってね、包むまでが料理なのよ」


「はあ」


「どんなにいい中身でも、包み方が下手だと、持った瞬間に全部こぼれちゃう。かといって、ぎゅうぎゅうに包みすぎると、中身が見えなくなる。気持ちも、だいたい同じね」


 誰に向けて言っているのかは、聞かなくてもわかった。


 メニュー表が、小さく揺れていた。


 渡されたクレープは、たしかに、いちばん甘かった。


「……なんで、準備に来なくなったんだ」


 クレープを半分食べたところで、聞いた。


 しばらく、返事はなかった。鉄板の上で、次の生地が焼ける音だけがしていた。


「私がいると、推しの準備を、私の解釈で全部埋めちゃうから」


 メニュー表の向こうの声は、静かだった。


「ポスター、見たでしょ。あれ、私が作ったの。成長記録とか書いて、全校に貼って。……みんなが堀田を見るようになったの、私のせいだから。これ以上、私の好きで、推しを遠くにしたくない」


 俺は、クレープの包み紙を、指で少しだけ折った。


 桜庭は、俺が遠くなるのが嫌で、俺から離れようとしている。理屈は、めちゃくちゃだ。めちゃくちゃなのに、なぜか、いちばん桜庭らしかった。


「その解釈が、要るんだよ」


 メニュー表の端が、ぴくりと動いた。


「黒板の配置図、誰も読めないんだ。『ときめきの助走』が何メートルなのか、俺にも分からない」


「……三メートル」


「ほら。桜庭しか知らない」


 俺は、空になった包み紙をたたんだ。


「金曜の夜、前日の準備で看板を塗る。来てくれ。俺一人じゃ、星図が読めない」


 メニュー表の向こうで、長い沈黙があった。


 鶴見さんが、何も言わずに、次の生地を鉄板に流した。


「……行く」


 小さな声だった。でも、ちゃんと聞こえた。


「看板の色は、水色ね。それだけは、総監修として譲らないから」


 店を出ると、大貫が「その他のクレープ、うまかった」と言った。久遠寺は、いつのまにか『観測』のノートに、何かを書きつけている。


「何を書いたんだ?」


「『推しが焼いたクレープを、推しの推しが食べた』。本日の観測です」


 どっちが推しで、どっちが推しの推しなんだ。もう俺にも分からない。


 振り返ると、メニュー表が、少しだけ下がっていた。


 『いちごカスタード 四八〇円』の上から、目が、ほんの少しだけのぞいていた。

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