第六話「田村くんに頼むしかない」
物事を誰かに押しつける時、人はたいてい「お願い」という形を取る。
「これ、頼んでいい?」と言いながら実際には頼んでいない。
命令だ。
「頼む」と「命令する」の間にある境界線は、言い方だけで決まる。
「頼んでいい?」という疑問形は、断る余地があるように見えて、実際には断ることを想定していない。
本庄部長の口癖は「田村くん、これ頼んでいい?」だ。
二十三年間、誠は一度もこれを断ったことがない。
断り方がわからないのではなく、「あ、はい」と口から出てしまう方が早いのだ。
問題の会議は木曜日の午後三時に始まった。
出席者は部長・課長三名・主任クラス四名、合計八名。
議題は「合併に向けた取引先への根回し訪問について」だった。
端的に言えば、「誰が面倒な挨拶回りに行くか」を決める会議だ。
部長が「今月中に主要取引先十二社を回りたい」と言った。
沈黙が流れた。
誠は議事録を取りながら、その沈黙の種類を判別していた。
この沈黙は「誰もやりたくない」という種類だ。
長さは七秒くらいが適切で、それ以上続くと誰かが犠牲にならざるを得なくなる。
七秒経った。
「十二社、ということは……担当を分けますか」と課長のひとりが言った。
「そうだな。何社ずつにする」と部長が言った。
「三社ずつで四人、というのはどうでしょう」と別の課長が言った。
「ただ、先方との関係性を考えると……」と三人目の課長が言いかけて黙った。
また沈黙が来た。
今度の沈黙は「関係性が難しい取引先をどこに割り振るか」という沈黙で、最初のより複雑だった。
誠は議事録を取りながら、頭の中で十二社の名前を並べた。
難易度が高いのは乾部長のところと、それから二年前に少し揉めた広島の取引先と、ここ最近担当者が変わった三社だ。
乾部長のところは誠が担当している。
広島は……誠が昨年一人で謝りに行った。
担当が変わった三社は……全部誠が引き継ぎに同席した。
「田村くん」
部長に名前を呼ばれた。
「はい」
「今回の根回し、お前に全部まとめてもらえるか」
全部、という言葉が空中に浮いた。
誠は「全部?」と思った。
十二社が脳内を走った。
「……全部、ですか」
「まあ、一人でなくていい。竹内も連れていけ。ただ、段取りと調整は田村くんにやってもらわないと。各社との関係が一番わかってるのはお前だから」
「はい」
口から出た。
脳が「断り方を検討しましょう」と言い始めたのは、「はい」の後だった。
遅い。
致命的に遅い。
課長たちが少し安堵した顔をしているのが、誠には見えた。
「田村くんが引き受けてくれてよかった」という顔だ。
自分たちが押しつけたという顔ではなかった。
不思議な話だが、そういうものだった。
会議が終わった後、竹内くんが誠の席に来た。
「田村さん、十二社って……大変じゃないですか」
「そうだね」
「なんで断らないんですか」
「……出ちゃったんだよ、はいって」
竹内くんは「なるほど」という顔をしなかった。
「全然なるほどじゃない」という顔をした。
誠にも全然なるほどじゃないことはわかっていたが、もう遅かった。
その夜、帰りの電車の中で、誠は「どう断ればよかったか」のシミュレーションをした。
まず「難しいですね……」と言う。
ここまでは言える。
次に「今の手持ちの業務を考えると」と続ける。
これも言える。
そして「少し調整が必要かもしれません」と締める。
これも言える。
問題は、この三段階を部長の「田村くんに頼んでいい?」の直後にやらなければいけないことだ。
部長の言葉が終わった後、一秒以内に「難しいですね」を出さないと、自分の「はい」の方が速く来る。
一秒というのは体感的に非常に短い。
誠は七駅分シミュレーションを続け、結論として「俺には無理だ」と思った。
翌週から根回し訪問が始まった。
最初の二社は竹内くんとの同行だった。
一社目は若い担当者に変わったばかりの商社で、誠も先方も初めましての状態だった。
竹内くんが流暢に会社の近況と合併の背景を説明した。
誠は横に座って、相手の担当者の表情を見ていた。
説明を聞きながら少し表情が固くなったのが気になった。
「……あの」と誠は言った。
竹内くんと担当者が同時に誠を見た。
「今のお話、聞いていて少し不安を感じられましたか」
「えっ」と担当者が言った。
「顔が、少し……その、違ったら申し訳ないんですが」
担当者は少し黙った後、「……実は」と言った。
先々月、前任の担当者から聞いていた話と内容が違う、という懸念があったらしい。
誠がその場で「前任の方とはどういうお話でしたか」と聞き、話を聞き始めた。
三十分後、担当者が「話せてよかった」と言った。
帰り道、竹内くんが「田村さん、なんで気づいたんですか、あの顔」と聞いた。
「なんとなく」と誠は言った。
「なんとなくって何ですか」
「……見てたら、なんとなく」
竹内くんは「そういうもんですか」と言い、釈然としない顔で電車に乗った。
二社目は別の意味で手こずった。
先方の担当部長が、雑談の中で「川崎物産さんとの合併って、タチバナさん側から話を持ちかけたんですか?」と聞いてきた。
これは答えに困る質問だった。
内部の経緯をどこまで話すか、まだ社内で方針が固まっていなかった。
竹内くんが少し硬直した。
誠も答えを持っていなかった。
「正直に申し上げますと、まだ私の方では全体の経緯を把握できていないんです」と誠は言った。
先方の部長が「ほう」という顔をした。
「ただ、今日伺ったのは経緯の説明より、御社との関係をこの先も大切にしたいという気持ちをお伝えするためでして」
「……なるほど」
「その点だけは確かです」
先方の部長がふっと笑った。
「田村さん、正直な人だね」と言った。
誠は「そうですかね」と言ったが、自分では正直にしたつもりよりも、単に知らなかっただけだった。
帰り道、竹内くんが「あれ、うまかったですよ」と言った。
「え、何が」
「正直ですって言いながら、上手くかわしたじゃないですか」
「……かわしたつもりはないんだけど」
竹内くんは「田村さんって、わざとやってるのか天然なのかわからない」と言った。
誠も自分でわからなかった。
三社目は誠がひとりで向かった。
訪問先は「まるひろ物流」という中堅の運送会社で、担当の田嶋課長とは五年の付き合いがある。
五年間、毎年年賀状を欠かさず出していた。
内容はいつも「本年もよろしくお願いいたします」の一文だけだったが、毎年ちゃんと届いていたので問題ないと思っていた。
応接室に通されて待っていると、田嶋課長が入ってきた。
「田村さん! お久しぶりです」
「お世話になっております」
「合併の話ですよね。聞いてますよ、うちも少し気になってて」
「ありがとうございます、はい、今日はその件で……」
「でも田村さん、その前に一個聞いていいですか」
「はい」
「毎年来る年賀状、なんでいつも一月十日くらいに届くんですか」
誠は「あ」と思った。
年賀状は毎年十二月の二十五日ごろに書いて出している。
つまり元日着のはずなのに、なぜか届くのが十日前後になるらしかった。
「……ポストに入れるのが遅かったですかね」
「いや、去年は一月の八日消印でしたよ。田村さん、書くのが遅いんじゃないですか」
「……あ」
「毎年楽しみにしてるんですけど、もう少し早く来るといいなあと思って」
楽しみにしている、という言葉が誠には意外だった。
「本年もよろしくお願いいたします」の一文だけで、楽しみにしてもらえるのか。
しかも五年間。
「来年は、もう少し早く出します」
「いや、別に急がなくていいんですよ。届くから嬉しいんで。田村さんから来るってわかってるから」
田嶋課長は笑った。
誠は「そうですか」と言い、なぜかわからないが少し胸が詰まった。
合併の話は、二十分でまとまった。
「田村さんが来てくれた以上、うちは特に問題ないです」と田嶋課長は言った。
四社目の訪問は、誠一人だった。
相手は神明物産の乾部長だ。
竹内くんに「あそこは俺一人で行く」と告げたら「大丈夫ですか」と言われたが、大丈夫だった。
乾部長のところは、竹内くんを連れていくより一人の方がうまくいく気がしていた。
乾部長は「田村くんか、また来たな」と言った。
「いつもお世話になっております」
「合併の件だろ」
「……はい」
「まあ座れ」
乾部長は最初の十五分、最近の若者は根性がないという話をした。
誠はひたすら聞いた。
それから本題に入った。
乾部長はいつものようにきびきびしていた。
話が早かった。
要点だけ聞いて「わかった。うちは今のところ静観する」と言った。
「静観、というのは……」
「様子を見るということだ。引き続き田村くんが担当なら、まあ、いいだろう」
それだけだった。
誠は「ありがとうございます」と言い、辞去した。
エレベーターを待ちながら「引き続き田村くんが担当なら」という言葉を反芻した。
担当が変わることへの懸念を、そう言って示してくれたのだ。
乾部長なりの、支持表明だった。
誠はそれを、帰りの電車の中で初めて理解した。
八社目の夕方、あかりから社内メッセージが届いた。
「今日、何社行きましたか」
「今日で六社。計八社」
「全部一人ですか」
「竹内くんと半分ずつ」
「……お疲れ様です。何か変なことありましたか」
「変なこと」というのがあかりらしい聞き方だと誠は思った。
「大変なことはありましたか」でも「困ったことはありましたか」でもなく、「変なこと」だ。
「手土産に桜餅を持っていったら、三社連続で担当者が桜餅を食べられない人だった」
「……それは変ですね」
「しかも三社目で『私、桜餅が苦手で』と言われた瞬間に『私もそうなんです』と言ってしまいました」
「なんでですか」
「わかりません。反射的に」
少し間が空いてから、あかりの返信が来た。
「田村さん、一応聞きますが、桜餅は好きですか」
「好きです」
「……わかりました」
最後の「わかりました」に何の意味があるのかは不明だったが、なぜか誠は少し楽になった気がした。
十二社を回り終えたのは、訪問開始から十日後だった。
報告書をまとめながら、誠は各社の担当者の顔を思い出していた。
不安そうだった人、興味を持っていた人、明らかに関心がなかった人。
全員の話を聞いた。
全員に「引き続きよろしくお願いします」と言った。
十二社分の「よろしくお願いします」は、腰と膝に来た。
竹内くんが「田村さん、十二社全部でお礼メール届きましたよ」と言ってきた。
「そうですか」
「全社って珍しいですよね」
「そうかな」
「田村さん、何かしたんですか」
「……特に何もしてないと思うけど」
竹内くんはまた「そういうもんですか」という顔をして、自分の席に戻っていった。
誠も何もした記憶はなかった。
聞いていただけだ。
ただ、聞いた。
それだけだ。




