第七話「乾部長の本音」
十二社への根回しが終わって三日後、乾部長から直接電話が来た。
「直接電話」というのが珍しかった。
乾とのやりとりは通常、訪問か、事前にアポを取ってからの電話だ。
いきなりかかってくることは、ここ五年でほとんどなかった。
「田村くんか」
「はい、田村です」
「来れるか、今週中に」
「あ、はい」
また口から先に出た。
今度は理由を聞く前に「はい」が来た。
手帳を確認したら水曜の午後が空いていたので、「水曜の午後はいかがでしょう」と言い、乾は「じゃあ三時に来い」と言った。
「承知しました」と誠は答え、電話を切ってから「何の用事だろう」と思った。
水曜日の午後三時。
神明物産の応接室。
乾部長は最初から機嫌が悪かった。
いつもの愚痴前の「溜め」がなく、座るなり話し始めた。
「田村くん、川崎物産って知ってるか」
「はい、合併の相手先の……」
「あそこ、昔うちと似たような規模だったんだよ。十年前はな」
誠は「そうなんですか」と言い、手帳を開こうとしたが、乾の雰囲気がメモを取る場ではないと告げていたので、手帳を膝の上に置くだけにした。
「それが今じゃ俺たちより規模がでかくなってる。十年でそうなった。わかるか、それが何を意味するか」
「……」
「タチバナさんが川崎に吸収されるとしたら、うちも気が気じゃない。川崎が主導権を持ったら、今の担当との関係がどうなるかわからん」
「……そうですね」
「田村くんがいなくなったら、うちは困る」
誠は「はい」と言いかけて止まった。
「田村くんがいなくなったら困る」という言葉を、もう一度頭の中で確認した。
困る。
困るというのは、いなくなることが損失であるということだ。
誠には少し実感がなかった。
「……ありがとうございます」
「お礼を言われても困る。本当の話をしてるんだ」
「はい」
「川崎物産の営業は、話が速すぎる。数字だけで動く。俺はそういうのが嫌いだ」
誠はそれを聞きながら、乾の言葉を丁寧に受け取っていた。
「話が速すぎる」
「数字だけで動く」。
これは単なる好き嫌いではなく、もし合併後に川崎物産の営業スタイルが神明物産との関係に持ち込まれた場合、関係が壊れかねない、という警告だった。
乾は今、タチバナ産業に向けてシグナルを送っている。
誠にはそれがわかった。
ただ、そのシグナルを「どこに」「どう」届けるべきか、その方法は持っていなかった。
「田村くん、お前は報告書にこの話を書くか」
「……書こうと思っていましたが、どうしますか」
「好きにしろ。ただ、俺が言ったとは書くな」
「……わかりました」
乾は「お茶でも飲むか」と言い、珍しく自分で給湯室に向かった。
誠はひとりになった応接室で、膝の上の手帳に短くメモを取った。
「話が速すぎる。数字だけ。田村くんがいなくなったら困る」。
メモを書きながら、「田村くんがいなくなったら困る」という部分が、どうしてもうまく書けなかった。
他人の言葉をそのまま写すのに、うまく書けなかった。
翌日、本庄部長に報告した。
各社の反応を一覧にまとめた資料と、口頭での補足説明だ。
誠が「概ね好意的に受け止めていただけた印象ですが、一部でご懸念の声もありました」と言うと、部長が「どこが懸念してるんだ」と身を乗り出した。
「神明物産の乾部長と、あとは中堅どころの数社です。主に担当者の継続性について」
「担当者の継続性? 要するに今の担当を変えるな、ということか」
「そういう意味合いだと思います」
「なるほど」と部長は言い、考え込んだ。
「それは向こう(川崎物産)との交渉で一つのカードになるな」
カードになる。
誠は「はい」と言ったが、カードになるという発想は自分にはなかった。
ただ聞いたことを報告しただけだった。
「田村くん、これよくまとめてくれた。助かった」
「ありがとうございます」
「ついでにもう一個聞くが、川崎物産に知り合いはいるか」
誠は一秒止まった。
「……昔、一度だけ話したことがある人が……いるかもしれないです」
「昔って、いつ」
「二十年くらい前に、懇親会で」
「今も向こうにいるか」
「わかりません」
部長は「わからんか」と言い、資料に視線を戻した。
「もし判明したら教えてくれ」とだけ言って、話が終わった。
誠は自席に戻りながら「川崎物産の人」を思い出そうとした。
名前は覚えていない。
顔もぼんやりしている。
ただ、あの夜、延々と話を聞き続けた感触だけは残っていた。
話が終わった時の「すっきりした、ありがとう」という声も。
昼食後、竹内くんが「部長への報告、どうでしたか」と聞いてきた。
「まあ、よかったと言ってもらえた」
「そうですか。俺も一緒に回ったのに、あの報告書に載ってる細かいニュアンス、俺には書けなかったと思います」
「そうかな」
「そうですよ。各社の『懸念』って書いてあるところ、俺が一緒にいた時でも気づいてなかった内容があった。田村さん、ちゃんと聞き取ってたんですね」
誠は「まあ、聞いてただけだよ」と言った。
竹内くんは「それが難しいんですよ」と言い、少し考える顔をしてから「田村さんって、なんでそんなに聞けるんですか」と続けた。
先日の帰り道と同じ質問だった。
「……さあ」と誠は言った。答えは今も変わっていない。
「さあって……」
「遮り方がわからないだけだよ、本当に。話の途中でこっちの話をしたり、違う方向に持っていく技術が、俺にはないんだと思う」
「技術がないことが強みになってるの、すごいですね」
「強みかどうかはわからないけど」
竹内くんはしばらく黙って、それから「俺もうちょっと聞けるようになりたいな」と言った。
自分に言い聞かせるような声だった。
誠は「なれると思うよ」と答えた。
根拠はなかったが、そう思った。
竹内くんは「田村さんに言われると妙に説得力あるな」と言い、自分の席に戻っていった。
その夜、あかりから「よかったら一杯どうですか」とメッセージが来た。
誠は「いいですよ」と返した。
誘われることはたまにあった。
たまに、とはいっても年に二、三回だ。
いつも近くの居酒屋で、あかりが先に席を取っていて、誠が後から入る形になる。
今日もそうだった。
カウンター席の端に、あかりがいた。
生ビールがすでに半分減っていた。
「先に飲んでましたか」
「少しだけ」
「少しじゃないですよ、半分」
「……計ってたんですか」
誠も生ビールを頼んだ。
二人で少し黙った。
居酒屋の中の音が、遠くから聞こえてくる感じがした。
「根回し、終わったんですよね」とあかりが言った。
「はい、一応」
「大変だったでしょう」
「まあ……でも、行ってよかったとは思ってます。各社の人の話が聞けたので」
「田村さんって、出張行くと帰ってきた時の顔が少し違いますよね」
「違いますか」
「なんか……ちょっとだけ、生き生きしてます」
誠は「そうですかね」と言い、ビールを飲んだ。
生き生き、という言葉が少し照れくさかった。
「乾部長のところ、なんか言ってましたか」と、あかりがさりげない口調で聞いた。
「いろいろ」
「具体的には」
「川崎物産の営業スタイルが好きじゃない、という話と……田村くんがいなくなったら困る、という話と」
あかりが少し間を置いた。
「田村さん、それ、すごいことですよ」
「そうですか」
「あれだけ取引先との関係に厳しい乾部長が、個人名を出して『いなくなったら困る』って言ったんでしょう?」
「……まあ」
「自覚ないんですか」
「……ないですね」
あかりはため息をついた。
ため息だったが、怒ったため息ではなく、どこか呆れながらも温かい種類のため息だった。
「田村さん、自分が思ってるより、ずっと大事にされてると思いますよ」
「村瀬さんに言われると、なんか……」
「なんか、何ですか」
「……お世辞っぽくないから、困りますね」
あかりが少し笑った。
今日は声に出すほどではなかったが、目が笑っていた。
誠はそれが見えた。
見えたのに、どこに視線を向けたらいいかわからなくなって、ビールグラスを見た。
しばらく、二人で黙った。
居酒屋の中の音が、また少し遠くなった気がした。
「田村さん」
「はい」
「最近、家どうですか」
唐突な質問だったが、あかりの口調はいつも通りだった。
知っているのかもしれない、と誠は思った。
というより、あかりはたいてい「知っている」のだ。
直接聞かないだけで。
「……なんか、うまくいってないです」
「何が」
「全部、かな」
「全部ですか」
「全部って言うと言い過ぎか。でも……佳代も颯太も莉子も、俺のことをあまり必要としてない感じがして」
「それは田村さんの思い込みじゃないですか」
「思い込みですかね」
「莉子さん、お父さんの顔に出てるって言ったんでしょう」
「……言ってました」
「必要としてない人の顔、見ませんよ」
誠は何も言えなかった。
言えなかったが、あかりの言葉が静かに沁みた。
帰り際、二人で店を出た。
夜風が少し冷たかった。
あかりが誠の右肩に手を伸ばした。
さっと何かをつまんだ。
「糸くず」
「……またですか」
「今日は二本ついてました」
「二本」
「過去最多です」と言って、あかりはさっさと歩き始めた。
誠はその背中を見ながら「ありがとうございます」と言った。
あかりは振り向かずに「お疲れ様でした」と言った。
二本の糸くず分、ちゃんとお礼が言えた気がした。
家に着いて、靴を脱いでいたら、莉子がリビングから顔を出した。
「お帰り」
「ただいま」
「なんか顔、さっきよりましじゃん」
「さっきって……何時から見てるの」
「さっきって言い方がおかしかった。なんかいつもよりましじゃん」
莉子はそれだけ言って引っ込んだ。
誠は玄関に立ったまま「いつもよりまし」という言葉を反芻した。
いつも、と言うことは、いつも見ているということだ。
あかりが言っていたことが、ここでも重なった。
必要としてない人の顔は、見ない。
誠はそれをもう一度、頭の中で繰り返した。




