第五話「合併の噂と本庄部長の顔色」
社内に噂が広まる時、それはたいてい給湯室から始まる。
火曜日の朝、誠がコーヒーを淹れに給湯室に入ると、三人の社員が小声で話していた。
誠が入ってきた瞬間、三人同時に黙った。
「あ、田村さん」と一人が言い、残りの二人が会釈をして出ていった。
誠は「おはようございます」と言い、ひとりでコーヒーを淹れた。
こういう時、誠は特に聞き出そうとしない。
聞き出す技術を持っていないので、聞かなかったことにする。
ただ、「なんかあったんだな」とは思う。
それだけ思って、コーヒーを九人分淹れた。
一人ずつの机に置いて回る。
これも誰かに頼まれたわけではないが、いつの間にかそうなっていた。
最初にやったのがいつだったか、もう覚えていない。
本庄部長の机にコーヒーを置いたのは、八時四十五分ごろだった。
部長はパソコンの画面を睨んでいた。
いつもならコーヒーを置く前から「田村くん、これ頼んでいい?」と次の仕事を振ってくるのに、今日は誠に気づいていなかった。
珍しいことだった。
「部長、コーヒーどうぞ」
「あ、ああ、ご苦労」
ご苦労。
本庄部長から「ご苦労」という言葉を聞くのは、誠の記憶では初めてだった。
いつもは「うん」か「どうも」だ。
たまに「あ、サンキュ」の時もある。
丁寧さが三段階くらい上がっていた。
部長の頭の中に余裕がなくなると、言葉が丁寧になるのかもしれない。
誠は「部長、今日なんかあったんですか」と聞きたかったが、やめた。
聞いたら聞いたで「田村くんには関係ない」と言われそうだし、そもそも聞いて何かが解決するわけでもない。
コーヒーを置いて、自分の席に戻った。
午前中のうちに、「吸収合併の話が出ている」という情報が誠の耳にも届いた。
届いた経路は竹内くんだ。
竹内くんは情報の流通速度が速い。
廊下でたまたますれ違った時に「田村さん、聞きました?」と耳打ちしてきた。
「何を」
「いや、その……合併の話、出てるらしいですよ。上の方で」
「どこと」
「川崎物産って聞きましたけど、確かじゃないです。先輩の先輩から流れてきた情報なんで」
川崎物産。
誠はその名前を頭の中で一度転がした。
業界では中堅の商社で、タチバナ産業と事業領域が一部かぶっている。
吸収合併となると、どちらが「吸収する側」かによって話が全然違ってくる。
規模感から言えばタチバナ産業の方が少し小さい。
「ふーん」と誠は言った。
「ふーん、ですか。田村さん、怖くないですか?」
「怖い、というのは」
「リストラとか。合併ってそういうことじゃないですか。うちと向こうで同じ仕事してる人がいたら、片方はいらなくなるわけで」
「……まあ、そうだね」
「田村さんの仕事は大丈夫なんですか? 議事録とか、コーヒーとか……」
竹内くんの声がうっかり本音に近い方向に行きかけたのを、誠は感じた。
「コーヒーとか」の「とか」には、言葉にされなかった続きが詰まっていた。
誠にはわかった。
「そういう仕事は向こうの会社にもいる人がいて、いらなくなる可能性が高い」という意味だ。
「まあ、なんとかなるんじゃないかな」と誠は言った。
根拠はなかった。
「そうですかね……」と竹内くんは言い、まだ心配そうな顔をしたまま自分の席に戻っていった。
誠は「(合併か……俺の仕事、なくなるかな……)」と思った。
なくなるとしたら、議事録係と、コーヒー係と、幹事係だろうか。
あとプロジェクターの修理係。
全部「係」と呼べるかどうか微妙な仕事ばかりだった。
そういう意味では、合併先の会社にも似たような人がいるかもしれない。
ポジションが被る。
ただ、それでも今日も昼の会議はある。
議事録は誰かが取らなければいけない。
誠は手帳を開いて、午後の予定を確認した。
昼の会議は一時間で終わった。
今回は七十部ぴったり資料が刷れた。
マーカーもかすれなかった。
プロジェクターも一発で起動した。
誠が議事録を取ったのはもちろんだが、今回は走り書きが読めなくなるほど速くはならなかった。
自分の名前を「田村省」と打ち間違えることもなかった。
完璧だった。
誰も気づいていなかった。
いや、正確には一人気づいている人がいた。
帰り際、あかりが「今日の会議、資料もマーカーもプロジェクターも全部うまくいってましたね」と言った。
「気づいてたんですか」と誠が聞いたら「毎回確認してますよ、一応」と返ってきた。「なぜ」と聞くと「田村さんのトナー事件があったので」と言われた。
先々週の話だ。
覚えられていた。
本庄部長の「顔色」が悪化したのは、午後三時ごろだった。
総務部長との打ち合わせから戻ってきた本庄部長は、自席に座るなり「田村くん」と呼んだ。
振り返ると、部長は上着を着替えた後のような、どこか疲れた顔をしていた。
「はい」
「来月の取引先へのご挨拶、各担当者ですぐ動けるか確認しておいてくれ。できるだけ早く」
「あ、はい。先方への訪問の件ですか」
「そうだ。理由は追って説明する。とにかく早めに動いた方がいい」
いつもより話が短かった。
いつもなら「田村くん、これ頼んでいい?」の後に三分くらい背景説明が続くのに、今日は指示だけで終わった。
「理由は追って」という言葉も普段は出てこない。
追って説明する、ということは、今は説明できない事情がある、ということだ。
部長は視線をすぐパソコンに戻した。
誠は自席に戻りながら「顔色悪かったな」と思った。
悪い、というより、何かを抱えている顔だった。
本庄部長がそういう顔をするのは、珍しいことだった。
この人も、心配しているのかもしれない。
そう思ったら、誠は少し意外な気持ちになった。
本庄部長は、仕事を全部誠に投げて成果だけ自分のものにするタイプだと思っていた。
だからこそ、何か大きな問題が起きると動揺する。
そういうことかもしれない。
意外とわかりやすい人だな、と誠は思った。
取引先への挨拶回りの候補リストを作り始めながら、誠は頭の片隅で「合併の話、本当なのかもしれない」と思い始めた。
部長があんな顔をするのは、それくらいの理由がないと説明がつかない。
夕方、仕事がひと段落した頃に、あかりが誠の席のそばを通りかかった。
「田村さん、合併の話、聞きました?」
「竹内くんから」
「そうですか」と言って、あかりは少し立ち止まった。
立ち止まり方が、通りすがりのそれとは違った。
「少し話したい」という立ち止まり方だった。
「もしリストラになったら、どうします?」
誠は考えた。
本当に考えた。
五秒くらい。
窓の外の夕暮れを少し見て、それから答えた。
「……謝り続けるしかないかな」
「謝り続けるって、誰に」
「会社に、かな。いや、家族に、か。あと取引先にも。ひたすら謝って回ったら、なんかうまくいくかもしれない。二十三年間それで生き延びてきたし」
あかりが、笑った。
声を出して笑った。
珍しかった。
いつもはため息か「しょうがないですね」で終わるのに、今日は本当に声を出して笑った。
肩が少し揺れていた。
誠は「えっ」と思った。
そんなにおかしかったか、と思った。
「……何がそんなにおかしいんですか」
「だって、リストラの対策が『謝り続ける』って。田村さんらしすぎて」
「田村さんらしいってどういう意味ですか」
「褒めてます」
そう言って、あかりは自分の席に戻っていった。
誠はその後、取引先への挨拶回りの段取りメールを書きながら、さっきのあかりの笑い顔を、なんとなく思い出した。
思い出したのに気づいて、「なんで思い出してるんだろう」と思い、それ以上考えるのをやめた。
メールを書くことに集中した。
集中しようとした。
二回、同じ段落を読み返した。
帰り際、エレベーターを待ちながら、誠は「川崎物産」という名前をもう一度思い出した。
二十年くらい前に、業界の合同懇親会があった。
あの時、隣に座った初対面の営業マンが延々と愚痴を話し続けていた記憶がある。
当時三十代くらいで、会社への不満が多く、でも仕事は好き、という人だった。
上司への愚痴、同僚への愚痴、業界全体への愚痴。
誠はひたすら聞いた。
途中で「すみません、少し」と言い出せないまま、結局最後まで聞いた。
話が終わった時、その人が「すっきりした、ありがとう」と言った。
名刺交換はしたはずだが、その名刺は今も見つからない。
確か、川崎物産の人だったと思う。
今もその会社にいるだろうか。
二十年で役員くらいになっているかもしれない。
エレベーターが来た。
誠は乗り込みながら「まあ、関係ないか」と思い、ボタンを押した。
でも、なぜかその「まあ、関係ないか」が、いつもより少しだけ不確かな感じがした。
家に着いたのは九時過ぎだった。
玄関を開けると、莉子がリビングにいた。
ソファに寝転がってスマホを見ていて、誠が入ってきても顔を上げなかった。
「ただいま」と言ったら「おかえり」と言った。
反射的な「おかえり」で、声の温度は低かったが、聞こえた。
それだけで十分だった。
佳代は台所で何かを片付けていた。
「ご飯は?」
「食べてきた」
「そう」
それだけで会話が終わった。
先週の「家族会議」の余韻が、まだ薄く空気に残っていた。
誠は風呂の用意をしながら、合併の話を佳代に言うべきかどうか考えた。
言ったら心配するかもしれない。
言わなかったら「また隠してた」と言われるかもしれない。
どちらの未来も同程度に面倒だった。
風呂上がり、誠がリビングを通ると、莉子がまだ起きていた。
「莉子、まだ寝ないの」
「うん」
「明日、早くないの」
「……別に」
スマホを見ながら答えた。
しばらく誠が立っていると、莉子が画面から顔を上げた。
「お父さん、最近なんか大変そう」
「そう?」
「なんか顔に出てる」
誠は「そうか」と言った。
自分の顔が何かを語っているとは思っていなかった。
莉子はまたスマホに目を戻した。
「別に何かしてあげられるわけじゃないけど」と小さく言ったのが、誠の耳に届いた。
届いてしまった。
誠は「ありがとう」と言おうとして、うまく言えなかった。
「おやすみ」だけ言って、自分の部屋に入った。
布団に入ってから、「先週の演劇の感想、言えたかな」と思い出した。
言えていなかった。
明日こそ言おう、と思いながら、目を閉じた。




