第四話「家族会議、開かれる」
田村誠は、日付の管理が得意ではない。
カレンダーは手帳にも携帯にも書いてある。
書いてあるのに、なぜか「あれ、今日何日だっけ」ということが月に三度くらい起きる。
日付そのものより、曜日の方が苦手だ。
「今週の土曜」と「今週の日曜」を混同することが、年に数回ある。
今回がその「数回」のうちの一回だった。
娘の莉子が通う高校の文化祭は、十一月の第三週の日曜日だった。
誠はずっと土曜日だと思っていた。
理由はある。先月、莉子が「文化祭、来る?」と聞いてきた時、誠は「土曜?日曜?」と聞いた。
莉子は「日曜」と答えた。
誠は「わかった」と言った。
ここまでは正しい。
問題は、その翌日から誠の頭の中で「文化祭=今月の土曜日」という情報に上書きされていたことだ。
なぜそうなったのかは誠にも説明できない。
月曜日に「今週の土曜に何かあったっけ」と確認した時に思い出したのが「莉子の文化祭」で、そのまま脳内に定着してしまった。
当日の朝、誠は普通に起きた。
土曜日だった。
佳代と莉子と颯太はすでに出かけていた。テーブルに「先に行ってます」というメモが残っていた。
誠は「みんな早いな」と思いながら、のんびりコーヒーを飲んだ。
午後から合流するつもりだったので、午前中は洗濯をして、録画しておいたニュースを見て、昼食は近所のラーメン屋で食べた。
食べ終わって、時間を確認した。
十二時半。
そろそろ行こうか、と思い、スマホで莉子の学校の場所を地図で確認しようとした。
その時に気づいた。
莉子の学校の文化祭の案内ページには「十一月第三日曜日」と書いてあった。
今日は土曜日だった。
文化祭は、明日だった。
誠は三十秒ほど、スマホの画面を見つめた。
「ということは、家族はどこに行ったんだろう」と思い、佳代に電話した。
「どこにいるの」
電話口の佳代の声は穏やかだった。
穏やかすぎて、むしろ怖かった。
「えっと、ラーメン屋の近く……」
「今日、莉子の友達のお母さんたちとランチがあるって言ったじゃない。聞いてなかったの」
「……あ、そう言えば」
「もういい」
電話が切れた。
問題は翌日だった。
日曜日。
文化祭の当日。
誠は朝から気合を入れて出かけた。
昨日の失態を取り戻すつもりだった。
莉子のクラスは模擬店と演劇を出すと聞いていた。
演劇は午後二時からで、絶対見ようと決めていた。
会場に着いたのは一時だった。
佳代と颯太はすでに来ていた。
莉子は準備のため教室にいて、まだ親とは会えない状態だった。
「来たの」
佳代が誠を見て言った。
驚いてはいなかった。
来ることはわかっていた、という顔だった。
歓迎もされていなかった。
「……一時に来い、って言ったの覚えてる?」
「え、一時に来たよ」
「私が言ったのは、十一時に来い、って言ったの」
「……あれ、十一時だったっけ」
「もういいから」
颯太が横で「パパさあ……」と言った。
続きは言わなかったが、言われなくても伝わった。
演劇は、よかった。
莉子は主要な役ではなかったが、セリフがいくつかあった。
舞台の袖で緊張しているのが客席からも見えて、誠はなんとなく胸が痛かった。
莉子が登場した瞬間、佳代が小さく「あ、きた」と言ってスマホを構えた。
颯太は腕を組んで見ていたが、妹が台詞を言う場面では少し前のめりになった。
誠も見ていた。
娘が舞台に立っているのを見ることが、なぜかうまくできなかった。
見ているのだが、うまく見られていない感じがした。
目に入っているが、心がどこかにズレている。
自分でも理由がよくわからなかった。
昨日、一人でラーメンを食べていた時に、この場所で莉子が何かをしていたのだと思うと、それが少し重くのしかかってきた。
演劇が終わり、莉子が客席に来た。
「見てたよ」と誠は言った。
莉子は「うん」と言った。
それだけだった。
嬉しそうでもなく、怒っているわけでもなく、ただ「うん」とだけ言って、友達のところに走って行った。
その「うん」の軽さが、誠にはじんわりと刺さった。
夜、家に帰ってからが本当の「家族会議」だった。
会議と言っても、誰かが「会議を始めよう」と宣言したわけではない。
夕食の席で、じわじわと圧力がかかってきた、という感じだ。
「誠さん、昨日はどこで何してたの」
佳代が茶碗を持ったまま聞いた。
「誠さん」と呼ぶのは、本気で怒っている時だ。
「……ラーメン食べてた」
「一人で?」
「うん」
「文化祭が土曜だと思って、ゆっくりしてたってこと?」
「……まあ、そう」
「二十三年、社会人やって、カレンダーの確認もできないの」
「……ごめんなさい」
「謝ればいいってもんじゃないでしょ」
「……おっしゃる通りです」
「なんで敬語」
誠は「あ」と思ったが、もう遅かった。
「誠に申し訳ございません」
静寂が流れた。
颯太が口元を押さえた。
笑いをこらえているのが、誠にはわかった。
莉子は箸を止めて、父親の顔を見た。
佳代はため息をついた。
「……誠に申し訳、って何。名前と掛けたの?」
「……違います、反射的に出ました」
「謝る言葉も在庫管理ができてないのね」
颯太がとうとう吹き出した。
声を殺したが、肩が揺れていた。
莉子も口元が少し緩んだ。
誠は「今笑うところじゃないと思うんだけど」と思ったが、何も言えなかった。
佳代だけが笑わなかった。
「ねえ、誠さん」
「はい」
「真剣に聞くんだけど。今の生活、このまま続けるつもりなの。出世もしない、約束も覚えない、家のことは全部私任せで」
「……それは」
「今の会社、このままでいいの」
誠は答えられなかった。
「このままでいいの」という問いに、「いい」とも「よくない」とも言えなかった。
このままがいいわけじゃない。でも、どうすればいいのかも、わからなかった。
二十三年間、誰かに頼まれることをこなし続けてきた結果が「このまま」で、それを変える方法を考えたことが、実はあまりなかった。
「……ちょっと、考えます」
「考えます、って何が」
「全部」
佳代はしばらく誠を見た。
それから「ご飯、食べて」とだけ言った。
夕食は最後まで静かだった。
莉子が一度だけ「お父さん、演劇見てた?」と聞いてきた。
誠が「見てたよ」と答えると、莉子は「そっか」と言ってご飯を食べ続けた。
さっきの「うん」と同じ軽さだったが、今度は少しだけ違う何かが混じっていた気がした。
風呂に入りながら、誠はぼんやり考えた。
「このままでいいの」
良くないのはわかっている。でも、良くするためには何かを変えなければいけない。
変えるためには、今の自分に足りないものを補わなければいけない。
補うためには、何が足りないかを知らなければいけない。
誠にはよくわからなかった。
わかっているのは、今日、莉子の演劇を見た、ということだった。
台詞を言う莉子が少し緊張していた。
それでもちゃんと言えていた。
それだけだったが、それは見た。
湯船から出る時、誠はふと「明日、莉子に感想を言おう」と思った。
たったそれだけのことを、今まで言ったことがなかった気がした。




