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第三話「乾部長の愚痴は今日も長い」

 毎月第三水曜日の午後、誠には特別な予定が入っている。

 老舗商社・神明物産の乾剛志部長との定例打ち合わせだ。


「打ち合わせ」と書くと、何か実務的で張りつめた場を想像するかもしれない。

 実際はそうではない。

 乾部長は五十一歳で、業界歴三十年近い、なかなかの重鎮だ。

 ガンコで知られていて、初対面の相手には眉間に皺を刻んだまま一言も余計なことを言わない人だ、という評判がある。

 取引先の担当者が変わるたびに難航するので、タチバナ産業の営業部では「乾攻略担当」という非公式な役割が存在していた。


 その役割が、現在は誠に固定されている。

 別に誰かに「お前がやれ」と言われたわけではない。

 ある時から自然に誠が担当になり、誰も疑問を呈さず、そのまま今に至っている。

 誠がいつ「攻略」したのかも、本人にはよくわからない。

 気づいたら乾が「田村くんが来る日は予定を空けておく」と言うようになっていた。


 乾を攻略した、というより、乾が誠を気に入った、という方が正確だと思う。

 なぜ気に入られたのか、それも誠にはよくわからない。


 今日の打ち合わせには竹内くんも同行した。

「実際の取引先訪問を経験させたい」という部長の意向だ。

 竹内くんは朝から「乾部長ってどんな人ですか」と誠に聞いてきた。

「ちょっと独特の人だよ」

「独特、というと」

「……まあ、行けばわかる」


 竹内くんは「なんかこわいな」という顔をしていた。

 誠は「大丈夫だよ」と言ったが、乾が最初の十分くらい本題に入らないということは伝えなかった。

 伝えると心構えをしてしまって、逆に反応が難しくなる気がしたからだ。


 神明物産のビルに着いたのは午後二時ちょうどだった。

 受付で名刺を出し、エレベーターで六階へ上がる。

 応接室のドアをノックすると「どうぞ」という低い声がした。


 乾は既に着席していた。

 大柄で、短く刈った白髪混じりの頭が会議室の照明を反射していた。

 竹内くんが「うわ、でかい」と小声で言ったのが誠の耳に届いた。

 竹内くんも小声のつもりだったと思うが、もしかしたら乾にも聞こえたかもしれない。乾は表情を変えなかった。


「田村くん、久しぶりだな」

 一ヶ月ぶりだった。

「久しぶり」という感覚の個人差というのはある。

「お世話になっております。本日は竹内もご挨拶に参りまして」

「そうか。まあ座れ」


 三人で着席した。

 乾はしばらく手元の書類を見ていた。

 誠はその間、手帳を開いて今日の議題を確認した。

 竹内くんは背筋を伸ばして待っていた。

 誠は「その姿勢を十分後も保てるかどうか」と思ったが、何も言わなかった。


「田村くん」

「はい」

「うちの新しい部長、知ってるか」

「……ご昇進された方ですか」

「そうじゃなくて、俺の上の、営業本部長だよ。先月赴任してきたんだが」

「あ、確か、浜田さんという方では」

「そうそう、浜田。あのな、浜田はダメだ」

 本題に入る前に愚痴が始まった。

 予想通りだった。誠は手帳を少し閉じた。


「ダメというと」

「言い方がダメなんだ。先週の会議でな、俺の報告に対して『乾さん、それってどういう根拠ですか』って言うんだよ。三十年の経験が根拠だ、っていう話だろ」

「なるほど」

「しかもな、あいつはデータ、データって言うんだが、データがあれば仕事ができるわけじゃないだろ。人の話を聞く力とか、相手の本音を読む力とか、そういうものが大事なんだよ。わかるか」

「わかります」

「田村くんはわかってくれるな」


 誠はわかったのでそう言ったのだが、乾が「田村くんはわかってくれる」と言うときはたいてい、誠が特に何も言っていない時だった。

 ただ「なるほど」と「わかります」を返しているだけで、「この人は俺の話をわかってくれる」と感じてもらえるらしい。


 誠がそれを意図してやっているかというと、そうではない。

 単に、話の途中で「でも」とか「それは違うと思います」と言えないだけだ。

 言えない理由は特にない。気がつくと言えなくなっている。


 乾の愚痴は二十分続いた。

 浜田本部長への不満から始まり、今の若い社員の根性のなさ、最近の取引先の値引き要求のひどさ、それから先週の健康診断で血圧が少し高かったという話になり、塩分を控えるように言われたが好きなものを食べられないのはつらい、という話で締まった。


 竹内くんは最初の五分は真剣に聞いていたが、十分を過ぎたあたりからどこか遠い目になっていた。

 誠は竹内くんが手帳の端をそっと折り畳んでいるのに気づいた。

 無意識の手遊びだろう。

 あと五分でスマホを出しそうだな、と誠は思った。

 それは困る。


 誠はさりげなく、膝の上でかすかに手を振った。

 竹内くんが視線に気づいて、誠を見た。

 誠は小さく首を振った。「出すな」という合図だ。

 竹内くんはわかったようだった。

 手帳の端を折る手が止まった。


 乾の愚痴はさらに続いた。

 誠は聞いていた。

 正確に言えば、聞きながら別のことも考えていた。

 乾が「最近の取引先の値引き要求がひどい」と言った時、ちらっと別の情報と結びついた。

 今月の頭に他部署の同僚から「神明物産さんが仕入れ先の見直しを検討してるらしい」という噂を聞いた記憶がある。

 あれと関係があるかもしれない。

 聞いてみようかと思ったが、乾は今、自分が乗っている。

 ここで水を差すのはよくない。

 後でさりげなく聞く機会を作った方がいい。


 そんなことを考えながら「なるほど」「そうでしたか」「それは大変でしたね」を的確に挟んでいると、乾が急に顔を向けた。


「田村くん、聞いてるか」

「はい、聞いております」

「そうか」


 乾は満足そうにうなずいた。

 実際に聞いていたので、嘘はついていない。

 ただ、「聞いてる」と「全部処理してる」の間には少し差があって、誠は後者ではなく前者に近い状態で聞いていた。でも乾には関係ないことだ。


 本題の打ち合わせは三十分で終わった。

 来月の発注量の確認、新商品の案内、価格についての軽い交渉。

 乾はここではきびきびしていた。

 愚痴を話している時とは別人のように話が早い。

 竹内くんが「さっきと全然違う」という顔をしているのが横目に見えた。

 誠にはわかっていた。

 愚痴の時間は乾なりの「準備運動」みたいなものだ。

 話したいことを全部吐き出してから、仕事に入る。


 帰り際、エレベーターの前で乾が言った。

「田村くん、また来月」

「はい、よろしくお願いします」

「あの竹内くんも次回から来るか」

「ご迷惑でなければ」

「まあ、いい。愚痴ばかりで退屈だったかもしれないけどな」

 竹内くんが「いえ、とんでもないです」と少し早口で言った。

 乾はそれを聞いて、ふっと笑った。

 笑うと顔の皺の刻み方が少し変わって、怖い感じが和らぐ。


「田村くんに比べると、反応が速いな」

「は、はあ」

「田村くんは遅いが、それが心地いいんだ。変な話だけどな」

 エレベーターが来た。

 乾は乗り込んで、振り返らずにドアが閉まるのを待った。

 誠と竹内くんはビルの外に出た。


 帰り道、駅まで歩きながら竹内くんが言った。


「田村さん、なんか乾部長に好かれてますね」

「……そうかな」

「絶対そうです。なんでですか」

「さあ」

「いや、さあじゃなくて。なんで好かれるんですか。コツがあるんですか」


 誠は少し考えた。コツ、と言われると困る。

 特に何もしていないからだ。

 強いて言えば、遮らずに聞いている、ということだろうか。

 でもそれは「できる」からじゃなくて「できない」からで、遮る方法がわからないだけだ。


「……遮らないだけだと思う」

「遮らない?」

「話の途中で、違う話をしたり、でもって言ったり、しないだけ」

「それだけですか」

「それだけだと思う」

 竹内くんはしばらく黙った。


「田村さん、それ、けっこう難しいですよ」

「そう?」

「俺、さっき手帳折ってましたよね」

「……見てたよ」

「あれ、話が長くて、早く終わんないかなって思って……ついやってました」

「うん」

「田村さんはやってなかった」

「……まあ」

「なんで」

「なんで、って……なんでだろうな」


 誠には答えがなかった。

 人の話を途中で遮れないのは昔からそうだった。

 遮ると「あ、この人は自分の話に興味がないんだ」と思わせてしまいそうで、それが嫌だった。

 なぜ嫌なのかは、うまく言葉にできない。


 ただ、乾が帰り際に「心地いい」と言った、という事実は残った。

 誠はそれを、どう受け取ったらいいのかわからないまま、駅の改札を抜けた。


 翌朝、誠は出社してすぐに、乾が「仕入れ先の見直しを検討してる」という噂の出所を確認した。

 本当だった。

 乾の愚痴の中に、それに関係するヒントが三つ含まれていた。


 誠はそのことに、自分で気づいていなかった。

 ただ、覚えていた。

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