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第二話「誠の二十四時間、誰かの役に立っていますか」

 火曜日は、月曜日よりましだった。


 ただし「ましだった」というのはあくまでも月曜日との比較の話であって、絶対的に良い日だったかというと、そんなことは全くない。

 誠は「火曜日はましだな」と思いながら出社し、「やっぱりそうでもなかったな」と思いながら退社する、ということをここ数年繰り返している。


 今日の午前の予定は、九時から取締役を交えた営業戦略会議だった。

 部長から「田村くん、例の会議の準備を頼む」と言われたのは昨日の退社前で、その「例の」が何を指しているのかはその場で確認しなかった。

 確認すると「そんなことも把握してないのか」という顔をされることが多いので、「はい、わかりました」と言ってしまった。


 帰宅してから調べたら、「例の会議」は定例の四半期営業戦略会議で、出席者は取締役一名・部長・課長三名・誠を含む主任クラス四名、合計九名だった。

 準備物として「プロジェクター接続、資料人数分の印刷、ホワイトボードのマーカー確認、お茶の準備」と過去の議事録に書いてあった。

 誠はそれを見て「こういうのは早めに来て全部済ませておかないといけない」と思い、翌朝いつもより三十分早く出社した。


 八時十五分。

 誠は会議室に入り、まずプロジェクターの電源を入れた。

 つかなかった。


 コードを確認した。ちゃんと差さっていた。

 電源ボタンを長押しした。

 つかなかった。

 説明書を読もうとしたら説明書がなかった。

 総務に電話したら「そのプロジェクター古くてたまにそうなるんですよ」と言われた。

「直し方は?」と聞いたら「一回全部抜いて五分待ってから入れ直すとたいてい直ります」と言われた。


 一回全部抜いて、五分待った。

 五分間、誠は何もせず会議室の椅子に座って待った。

 窓の外を見た。

 曇っていた。「五分というのは案外長いな」と思った。

 何も考えないようにしたら余計なことを考え始めたので、営業目標の数字を頭の中で復唱した。

 三回復唱したら五分経ったので、プロジェクターのコードを差し直した。

 ついた。


 次に資料の印刷に取りかかった。

 九名分なので、十部刷ることにした。

 一部余裕を持たせるのが誠のやり方だ。

 去年、資料が一部足りなくて取締役に「ないのか」と言われたことがある。

 あの「ないのか」の三文字は、今でも夢に出てくることがある。

 資料は滞りなく十部刷れた。


 ホワイトボードのマーカーを確認した。

 赤が書けなかった。

 キャップを取って紙に書いてみたら「書けるっちゃ書けるが、かなりかすれる」という状態だった。

 これは「書ける」に含めていいのかどうか、少し悩んだ。

 結論として「取締役の目の前でかすれたマーカーを使うのはまずい」と判断し、総務から新しい赤マーカーを一本借りてきた。

 お茶の準備は、給湯室でポットのお湯を確認したら空だったので、水を入れて沸かすところから始まった。


 八時五十分。

 なんとか間に合った。誠はひとりで「よし」と言った。

 会議室に誰もいないので「よし」と声に出しても恥ずかしくない。

 むしろ、ひとりの時くらい声に出して「よし」と言わないと、この一日の「よし」が完全に心の中だけで消えていってしまう気がした。


 会議は十時半に終わった。

 誠は議事録を担当していた。

 手元のメモ帳を見ると、びっしりと文字が並んでいた。

 我ながら、よく書いたと思う。

 問題は、後で読み返してみると、五箇所ほど自分でも読めない文字があったことだ。

 会議中に走り書きしたのはよいが、走りすぎた。


「田村さん」

 会議室の片付けをしていたら、竹内くんが声をかけてきた。

「なんですか」

「この会議ってさ、田村さんって何が役割なんですか?」

 思った通りの質問が来た。

 三年間でとうとう聞かれた。


「……まあ、議事録とか、準備とか」

「議事録って、営業主任がやるんですか?」

「まあ、誰かがやらないといけないから」

「部長とか、課長たちは何やってるんですか」

「……会議してるよ」


 竹内くんは「なるほど」とだけ言い、なんとも言えない表情で去っていった。

 誠もなんとも言えない気持ちで、椅子を九脚、もとの位置に並べ直した。

 取締役が使った椅子がひとつだけ少しずれていたので、そっと直した。

 誰も見ていなかった。


 午後は見積書の確認、他部署への資料の回覧、翌日の外回りのルート確認、来月の部内打ち合わせの日程調整メール、それから後輩社員が作った企画書の誤字確認を頼まれてやった。

 誤字は三箇所あった。

 修正して返した。

 後輩は「ありがとうございます」とは言ったが、「助かりました」とは言わなかった。

 細かいようだが、この二つは微妙に違う。


 五時半、誠は議事録の清書に取りかかった。

 手書きのメモを見ながらパソコンで打ち込んでいたのだが、やはりあの五箇所が読めなかった。

 前後の文脈から三箇所は推測できた。

 残り二箇所は、何度見ても判別できなかった。

 一箇所は「合理的」か「倫理的」か、もう一箇所は「戦略」か「前略」かのどちらかだった。

 どちらの組み合わせが文脈として正しいのか、誠はしばらく考えた。


「合理的な戦略」か「倫理的な前略」か。

 後者は会議の議題と全く関係がなかった。

 つまり「合理的な戦略」だろう。

 誠はそう判断して入力した。


 六時過ぎ、議事録を完成させてメーリングリストに送信した。

 二分後、返信が来た。

 差出人:村瀬あかり。

 件名:Re: 【議事録】四半期営業戦略会議

 本文:「田村さん、議事録ありがとうございます。一点だけ確認なのですが、六ページ目の『田村誠』のところ、『田村省』になっています。お名前です。ご確認ください」

 誠はすぐに確認した。

 確かに「田村省」になっていた。


 自分の名前だった。

 議事録の出席者欄に、自分で自分の名前を「田村省」と打っていた。

「省」という字は「誠」に見た目が少し似ているが、全く別の漢字だ。

 しかも「省」には「省みる」という意味がある。自分の名前で省みることになるとは思っていなかった。

 誠は「大変失礼いたしました」と返信し、修正版を送った。

 返信が来た。

「お疲れ様でした」

 それだけだった。

 でも、誠はなぜかその七文字を二回読んだ。


 帰り際、エレベーターの前であかりと一緒になった。

「村瀬さん、さっきは……名前の件、ありがとうございました」

「気づかなかったんですか、自分の名前」

「……気づきませんでした」

「議事録、毎回全部読んでるんですよ、私」

「え、そうなんですか。なんで」

 あかりは少し間を置いてから答えた。

「……内容を知っておきたいので」


 それだけ言って、届いたエレベーターに乗った。

 誠も乗った。

 一階のボタンを二人とも同時に押しかけて、二人とも引いた。

 あかりがそっと押した。


 ロビーに出て、あかりが言った。

「田村さんって、一日中何やってるか知ってます?」

「……なんですか急に」

「竹内くんから聞いたんです。『田村さんって何してる人なんですか?って聞いたら、議事録と準備って言ってた』って」

「……まあ、そうですね」

「でも田村さん、今日だけで会議室の準備して、プロジェクター直して、資料刷って、お茶出して、議事録取って、誤字確認して、日程調整もして、でしょ」

「……竹内くん、よく見てますね」

「竹内くんじゃなくて、私が見てたんです」

 誠は「……そうですか」と言った。

 他に言葉が出てこなかった。


 あかりは「お疲れ様でした」と言い、傘を開いて夜道に出た。

 少し雨が降り始めていた。

 誠は自分の鞄を見た。折り畳み傘を入れていなかった。

 朝は曇りだったので、「降らないだろう」と判断したのだ。

 降った。


 誠はコンビニで傘を買いながら、「私が見てたんです」という言葉を思い出した。

 別に深い意味はないだろう、と思った。

 そう思ったのに、なぜかもう一回思い出した。


 傘を差して歩きながら、「今日やったこと」を頭の中で数えてみた。

 プロジェクター、資料、マーカー、お茶、議事録、誤字確認、日程調整。

 全部合わせて七つ。

 七つ全部、誰かに頼まれたことだった。

 自分から始めたことは、ひとつもなかった。

 それが良いことなのか悪いことなのか、誠にはよくわからなかった。

 ただ、雨の中をひとりで歩きながら、今日も一日、誰かの役に立っていたはずだ、とだけ思った。


 翌朝、議事録の修正版に対して、部長から「ご苦労」という一言返信が来た。

 それだけで、少し気持ちが軽くなった。

 それだけで十分だった。

 良いのか悪いのか、これも誠にはわからなかった。

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