第一話「今日もありがとうございました(誰に言ってるんだろう)」
田村誠は、月曜日が得意ではない。
厳密に言えば、火曜日も水曜日も木曜日も金曜日も得意ではないのだが、月曜日はその中でもとびきり苦手な曜日だった。
理由は単純で、日曜の夜に「明日は月曜だ」と気づいた瞬間から、もう月曜が始まってしまうからだ。
今朝も六時半に目が覚め、天井を見つめながら「あ、月曜だ」と思った。
それだけで心拍数が少し上がった。
四十九年間生きてきて、月曜日に慣れる気配は微塵もない。
タチバナ産業株式会社の営業部主任、田村誠。
勤続二十三年。
誰かに自己紹介するとき、「営業部主任です」と言うたびに、自分でも少しだけ胸が痛む。
主任、という言葉の響きには、なんとなく颯爽とした感じがあるからだ。
実際の自分とのギャップが、毎回ちょっと辛い。
今日の主な業務は、会議の資料印刷、コピー機のトナー補充、打ち合わせ室の椅子の数の確認、そして夕方からの部内懇親会の店の最終確認だった。
主任の仕事というより、よく気の回る新入社員の仕事だと思う。
でも、そういうことを考え始めると眠れなくなるので、なるべく考えないようにしている。
午前中はわりと平穏だった。
会議の資料は七十部刷れと言われていたのに六十八部しか出なかったが、誠がこっそり二部手書きで補填した(内容が多すぎてミミズみたいな字になった)。
二部だけ手書きのものが混入する資料を受け取った部員たちが一瞬だけ怪訝な顔をしたのは見えたが、誰も何も言わなかった。
日本人の「見なかったことにする」スキルは本当に高い、と誠は思った。
自分もそのスキルのお世話になって二十三年生きてきた気がする。
次にコピー機のトナー交換に取り組んだ。
新しいカートリッジを箱から出したところまではよかった。
問題は「セットする前に軽く振ってください」という注意書きを読んで、忠実に振ったことだ。
振り方が強すぎた。
キャップが外れて黒い粉が舞い上がった。
誠の顔の正面に向かって、ふわっと。
洗面所の鏡で確認したら、鼻の下とあごがうっすら黒くなっていた。
鬚のない部分に墨を塗ったような、なんとも言えない見た目になっていた。
よりによってその瞬間に竹内くんが通りかかった。
「田村さん、顔……」
竹内くんが言いかけた。
誠も「これはまずいな、洗いに行こう」と思った。
が、そこへ廊下の向こうから部長の「おい田村、あの資料はまだか」という声がかかり、誠は「はい、今持っていきます」と反射的に答えてしまった。
トナーのついた顔のまま、資料を抱えて会議室に向かった。
会議室には七人いた。
七人全員が、誠の顔を一瞬見た。
七人全員が、何も言わなかった。
空気を読む民族の矜持というか、思いやりというか、あるいは単純に関わりたくなかったのか、とにかく誰も何も言わなかった。
誠もまた、みんなが黙っているのに「実は顔が黒いんですが」とも言えず、そのまま資料を配り、議事録を取り、会議を最後まで乗り切った。
会議が終わったあと洗面所で顔を洗ったら、鏡の中の自分が三割増しで人間らしくなった。
竹内くんがその様子を見て「……先輩、さっき言おうとしたんですけど」と言ったので、「ありがとう、その勇気は覚えておく」と誠は答えた。
どう覚えておくのかはよくわからなかったが、そう言うしかなかった。
打ち合わせ室の確認は忘れた。
でも竹内くんが気づいてくれたので、なんとかなった。
竹内くんは二十六歳の若手営業で、入社三年目だ。
頭が良くてハキハキしていて、上司ウケがいい。
誠のことを「田村さん」と呼んでくれるが、その呼び方にはかすかに「このひとは何をしてる人なんだろう」というニュアンスが混じっている気がする。
気がするだけかもしれないが、たぶん気がするだけではない。
「田村さん、今日の懇親会の店って決まりましたっけ」
昼休み、竹内くんが誠の席に来てそう聞いた。
「あ、うん。決まってるよ。駅前の『炭や大将』。禁煙席で予約してあるから」
「禁煙席、ですか。本庄部長、タバコ吸いますよね」
「……あ、そうだね」
「田村さん、大丈夫ですか」
「大丈夫、大丈夫。禁煙席が空いてなかっただけで……えーと……」
誠は慌てて予約サイトを確認した。
タバコは吸わないので禁煙で予約した。
部長はタバコを吸う。
つまり、誠はこの二十三年間で一度も「喫煙席で予約した記憶」がないにもかかわらず、「部長はタバコを吸う」という情報を二十三年間保持していた。
なのに今日、この二つの情報がつながらなかった。
なぜか。
月曜日だからだ、と誠は思った。
月曜日のせいにすることにした。
予約サイトを見直したら、「炭や大将」には喫煙席はなかった。
全席禁煙だった。
つまり問題は、予約の席種ではなく、店そのものだった。
「炭や大将」に部長を含む総勢八名で押しかけた誠のチームが入り口で立ち止まったのは、午後六時十五分のことである。
問題は看板だった。
『完全個室 炭火焼肉 大将』
その下に小さく、『カップルのお客様に人気の隠れ家レストラン』と書いてあった。
誠は今日、はじめてその文字を見た。
予約サイトでは確かに「炭や大将」で、炭火焼肉と書いてあった。
隠れ家でカップル向けだとは、どこにも書いていなかったと思う。
書いてあったかもしれないが、見ていなかった。
「田村くん」
部長の声が後ろからかかった。
「はい」
「ここ……カップル向けって書いてあるが」
「はい」
「七人の男と、女性一人で行くのか、ここへ」
「あ、はい、すみません……」
「謝ればいいというものじゃないぞ」
「あ、はい、すみません……」
誠は連続して二回「あ、はい、すみません」と言った。
二回言っても特に効果はなかった。
部長は「まったく」と言い、でも結局その店に入った。
個室で完全に仕切られているので、周囲のカップルに迷惑をかけることもなかった。
焼肉はおいしかった。
ただ、部下に「先輩の誘いで初めてカップル向け焼肉に来てしまった」という記憶を作らせてしまったことは、誠の胸に小さな傷として残った。
懇親会が終わったのは九時過ぎだった。
店の前に出ると、夜風が気持ちよかった。
誠はひとりで「ふぅ」と息をついた。
今日一日の疲れが、白い息みたいに漏れていく感じがした。
気温的に白い息が出る季節ではないので、漏れたのは疲れだけだ。
タクシー乗り場に向かおうとしたとき、後ろから声がかかった。
「田村さん」
振り返ると、村瀬あかりが立っていた。
あかりは営業部で誠と同じフロアにいる三十七歳の社員で、独身だ。
仕事ができてサバサバしていて、打ち合わせでも自分の意見をはっきり言う。
後輩でも上司でもない、不思議な距離感の同僚だった。
今日の懇親会には「先約があるので」と来ていなかったはずだが、終わる頃合いを見てタクシー待ちをしていたらしい。
「あ、村瀬さん。先約は?」
「終わりました」
「そうですか。懇親会、楽しかったですよ、一応」
「カップル向け焼肉、どうでしたか」
「……聞こえてました?」
「竹内くんから連絡来てました」
誠は「あの子はSNSの使い方がうまいな」と思いながら、「まあ、焼肉はおいしかったです」とだけ答えた。
そのとき、あかりが不意に手を伸ばした。
誠の右肩の方へ。
さっと、何かをつまむような仕草をした。
「糸くず」
あかりはそれだけ言って、つまんだ糸くずをそっと地面に落とした。
「お疲れ様でした。右肩、今日も通常運転でしたね」
誠は「……え?」と聞き返したが、あかりはもうタクシーに乗り込んでいた。
ドアが閉まり、タクシーが走り去っていく。
誠はしばらく、そのテールランプを見送った。
右肩の糸くず。
そういえば最近、妻にも息子にも言われたことがない。
というか、言われたことがあったかどうか、思い出せなかった。
帰宅したのは十時近くだった。
玄関を開けて「ただいま」と言ったが、返事はなかった。
リビングから、テレビの音だけが聞こえた。
息子の颯太は自室にこもって受験勉強中で、妻の佳代はソファでスマホを見ていた。
「また飲み会?」
佳代が画面から目を離さずに言った。
「懇親会。部内の」
「同じじゃないの」
「……まあ、そうですね」
「なんで私に敬語」
「……すみません」
「なんで謝るの」
「……すみません」
「また謝った」
佳代はスマホに目を戻した。
誠は上着を脱ぎながら、自分でも「なんで謝ったんだろう」と思った。
思ったが、答えは出なかった。
二十三年間、会社で謝り続けてきたせいで、反射神経が「謝る」方向に最適化されてしまっているのかもしれない。
それはそれで、なんというか、悲しい話だった。
颯太の部屋のドアは閉まっていた。
ノックしようかと思ったが、「受験生に話しかけて邪魔するな」と言われた記憶がよみがえって、やめた。
記憶の中の颯太は別に怒っておらず、ただ普通に言っただけだったが、そういう言葉は胸にすとんと落ちてしばらく残る。
誠はそのまま洗面所に行き、手を洗い、顔を洗い、鏡に映った自分を見た。
四十九歳。
営業部主任(名ばかり)。
勤続二十三年。
今日やったこと:資料の印刷(補填含む)、トナー交換(失敗含む)、懇親会の店の予約(カップル向け含む)、謝罪二回。
俺の一日って、なんか、もうちょっとなんとかならないのか。
風呂に湯を張りながら、誠はぼんやりそんなことを考えた。
考えたところで何も変わらないのはわかっているので、考えるだけにした。
湯船につかって、天井を見た。
ふと、あかりが右肩の糸くずを取ってくれた時のことを思い出した。
さっとした動作で、あっさりとした一言で。
「通常運転でしたね」という言い方が、なんとなくおかしかった。
通常運転って、毎日ついてるってことだろうか。
そうだとしたら、なぜ今まで誰も教えてくれなかったんだろう。
まあ、気づいていないだけかもしれない。
俺が気づいていないのかもしれないし、みんなが気づいていないのかもしれない。
いずれにしても、あかりさんだけが言ってくれた、ということになる。
「あ、ありがとうございました」
誠は湯船の中でつぶやいた。
誰もいない風呂場で、誰かへのお礼を言った。
これは我ながら少しさびしいと思ったが、それでも言わないよりはよかった気がした。
翌朝、誠は六時半に目を覚まし、天井を見て「あ、火曜だ」と思った。
月曜よりは少しだけましだった。




