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第二十五話「糸くずの話をしよう」

 糸くずというのは、どこから来るのかわからない。


 誠は二十三年間ずっとそれを不思議に思ってきた。

 スーツを着て、電車に乗って、会社に着いて、席に座る。

 その間のどこかで、右肩に糸くずがついている。

 ついていることに誠は気づかない。

 気づかないまま会議に出て、取引先に謝りに行って、議事録を取る。

 誰かが取ってくれるまで、そこにある。


 最初に取ってくれたのが誰だったか、誠はもう覚えていない。

 二十三年のどこかで、誰かが取ってくれた。

 それが繰り返されてきた。

 繰り返されすぎて、誠の中で「右肩の糸くず」は風景の一部になっていた。

 でも今は、少し違う意味を持っていた。


 あかりからLINEが来たのは、木曜日の昼休みだった。

「田村さん、今週末あいてますか。コーヒーのこと、教えてほしくて」

 誠は読んで、しばらく固まった。


 固まって、「コーヒーのこと、というのはどういう意味か」と考えた。

 淹れ方のことなのか、豆の選び方のことなのか、それとも「コーヒーのこと」は口実で別の何かを指しているのか。

 考えて、「考えすぎだ」と思った。


 コーヒーのことはコーヒーのことだ。

 あかりはドリップを覚えたいと言っていた。

 それだけだ。

 それだけのことを、誠は三分間考えていた。


「土曜日なら」と返信を打って、送った。

 十秒後に「じゃあ豆を買いに行きましょう」と返ってきた。

 誠は「あ、豆から始めるのか」と思った。

 そして「豆から始めるのが正しい」とも思った。

 コーヒーというのは豆が全てで、豆が決まれば半分は決まっている。

 これは誠の二十三年間の持論だった。



 土曜日の午前、誠はいつもより少し丁寧にジャケットのブラシをかけた。

 スーツではなく、私服だった。

 私服にブラシをかけることは普段しないが、なんとなくかけた。

 かけてから「なぜかけたのか」と思った。

 思って、「まあ、いいか」と思った。


 待ち合わせは最寄りの駅だった。

 改札を出ると、あかりがいた。

 コートを着て、マフラーをしていた。

 会社ではなく休日のあかりで、でも誠はあかりが休日にどういう格好をしているかを今まで考えたことがなかった。

 考えたことがなかった、ということに今初めて気づいた。


「おはようございます」とあかりが言った。

「おはようございます」と誠は言った。

 それだけで、歩き出した。


 コーヒー豆の店は、駅から歩いて七分のところにあった。

 誠が二十年近く通っている店で、店主は六十代の寡黙な男性だった。

 名前は知らない。

 でも顔は覚えられていて、入るたびに「いつもの?」と聞かれる。

「いつもの」があるということを、誠はこの店に対してだけ誇りに思っていた。


 店に入ると、豆の香りがした。

 あかりが「いい香りですね」と言った。

「はい」

「田村さん、ここ長いんですか」

「……二十年近く」

「二十年」あかりが繰り返した。

「ということは、入社してすぐから?」

「……まあ、そうですね」


 店主が「いつもの?」と言った。

 誠が「今日は少し選びたいんですが」と言うと、店主がうなずいて奥に戻った。

 この店のやりとりはいつもこれで成立してきた。

 無駄がなくて、誠は好きだった。


「コーヒーって、何から選ぶんですか」と あかりが棚を見ながら言った。

「……飲みたい味から、ですね」

「味って、どう選ぶんですか」

「……今日の気分です」

「今日の気分って、どう確かめるんですか」

 誠は少し考えた。


「……香りを嗅いでみると、なんとなくわかります」

「やってみていいですか」

「どうぞ」

 あかりが棚の豆のキャニスターを一つ手に取り、蓋を少し開けて嗅いだ。

「……酸っぱい感じ」

「それはエチオピアの豆で、フルーティな酸味があります。好みが分かれます」

「田村さんは好き?」

「……どちらかというと苦みが好きで」

「じゃあこっちは違うか」

「村瀬さんは酸っぱいのが好きですか?」

「……わからないです、まだ」


 あかりが次のキャニスターを手に取った。

 開けて、嗅いだ。

「……これは深い感じ」

「ブラジルの豆です。焙煎が深めで、苦みとコクがあります」

「田村さんが毎日淹れてたやつって、こういう感じですか」

「……似たような豆を使ってました」

 あかりがもう一度嗅いだ。

 長めに嗅いだ。

「……なんか、会社の朝の感じがしますね」


 誠は何も言えなかった。

 言えなかったが、あかりが感じたことが、誠にはわかった。

 コーヒーというのは記憶と結びつく飲み物で、ある香りが特定の場所や時間を呼び起こす。

 あかりにとって、この香りが「会社の朝」だった。

 つまり、誠が毎朝届けてきたコーヒーの香りが、あかりの中に二十三年分積み重なっていた。

「二十三年分」ではなく、あかりがタチバナ産業にいた年数分だが。

 何年なのかを誠は知らなかった。

 知らなかったことに今気づいた。


「……村瀬さん、タチバナ産業に何年いるんですか」

「え、急に」

「いや、なんとなく」

「七年です」とあかりが言った。

「田村さんより十六年少ない」

「……七年分の朝の感じ、ということですか」

「そうですね」

 あかりが豆のキャニスターを棚に戻した。

 静かな動作だった。

「……これにします」とあかりが言い、ブラジルの豆を指した。

「いい選択だと思います」

「先生みたいなこと言いますね」

「……そうですか」

「そうですよ」


 豆を量ってもらっている間、誠と あかりは店の端に立っていた。

 店主が無言で豆を計量している。

 秤の針が動いている。

 店内に豆の音だけがしていた。


「田村さん」

「はい」

「五階、どうですか」

「……まあ、少しずつ」

「コーヒー、淹れてます?」

「……淹れてます。ただ、機械でしか淹れられなくて」

「機械の方が楽じゃないですか」

「……楽だけど、なんか違う感じがして」

 あかりが「どう違うんですか」と聞いた。


 誠は少し考えた。

「……自分でやってる感じがしない、というか。機械は機械がやるから、自分がいてもいなくても同じ」

「目分量で量る、というのが大事なんですか」

「……目分量が大事というより、量ってる時間が大事なのかもしれないです。その時間に、今日何人いるかを確認して、今日の気配を確かめて。それが自分の朝の始め方だったから」


 あかりが何も言わなかった。

 何も言わないまま、少し誠の方を見た。

「……田村さんって、ちゃんと言語化できるんですね、そういうことは」

「……そうですか」

「普段は全然しゃべらないのに」

「……豆の話ですから」

「豆の話だと喋れるんですか」

「……喋れる気がします、なぜか」

 あかりが小さく笑った。

 声には出ない笑いだったが、店主の秤の動きで光の角度が変わって、あかりの顔が少し明るくなった。


 豆を買って、店を出た。

 十一月の昼の空気だった。

 朝より少し温かかった。

 雲の切れ間から光が出ていた。

 二人で歩いた。

 どこに向かうともなく、駅の方に向かっていた。


「田村さん」とあかりが言った。

「はい」

「先週、LINEを送った理由、聞きますか」

 誠は一秒止まった。

 止まってから、歩き続けた。

「……聞いていいですか」

「どうぞ」

「……なんで?」

「なんでって」

「コーヒーのこと、は理由として本当ですか」

 あかりが少し間を置いた。


「……本当です。でも、それだけじゃないかもしれない」

「……それだけじゃない部分は」

「田村さんが五階に行ってから、なんか違う感じがして」

「違う、というのは」

「朝のコーヒーがなくなって、それだけじゃなくて、田村さんがいない感じが、想像より、その……」

 あかりが言葉を止めた。

 止めた言葉の続きが、宙に浮いていた。

 誠は浮いた言葉をそっとつかもうとして、つかめなかった。

 つかめないままでいると、あかりが「……大きかったんですよね」と続けた。

「思ったより」という言葉が前についていた気がしたが、聞き取れなかったかもしれなかった。


 誠はしばらく、何も言えなかった。

 言えないまま歩いていると、ベンチのある小さな広場に出た。

 植え込みに、季節外れの花が一輪だけ咲いていた。


 二人でベンチに座った。

 自然にそうなった。

 どちらが提案したわけでもなく、広場に入って、ベンチがあって、二人で座った。

 豆の入った袋を膝に置いて、少し間があった。


「田村さん」

「はい」

「居酒屋で話したこと、覚えてますか」

「……覚えてます」

「全部?」

「……全部」

 あかりが「そうですか」と言った。

 確認するような声だった。

「元カレの話」と誠は言った。

「……はい」

「断れない人が怖かった、という」

「……はい」

「今も怖いですか」


 あかりが少し間を置いた。

「……聞きますか、それ」

「……聞かないと、わからないので」

 あかりが誠の方を向いた。

 誠も あかりの方を向いた。

 十一月の昼の光の中で、あかりの目が、誠を見ていた。

 いつもの目だった。

 サバサバしていて、感情を表に出さない目だった。

 でもその奥が、いつもより少し近かった。


「……怖いかどうかは、まだわからないです」とあかりが言った。

「でも」

 続きがあるかと思って、誠は待った。

「……田村さんに、糸くずを取りたい、と思うことがある」

 誠は、何も言えなかった。

 言えなかったことは、今回も同じだった。

 でも今回の「言えない」は、言葉が見つからないからではなく、言葉よりも先に、何かが胸の中で動いたからだった。


「……自分も」と誠は言った。

「え」

「自分も、村瀬さんの糸くずを取りたいと思ったことがあります」

「……私、糸くずついてましたか?」

「……一回だけ」

「いつですか」

「……去年の秋、だったかな」と誠は言った。

「でも、村瀬さんが自分で気づいて、自分で取ったから」

 あかりが「……知らなかった」と言った。

「自分も、言わなかったから」

「なんで言わなかったんですか」

 誠は少し考えた。


「……言い損ねました」

「言い損ねた?」

「取ろうとしたら、村瀬さんが先に取っちゃったから」

 あかりが「……それ、ただの言い訳じゃないですか」と言った。

「……言い訳かもしれないです」

「そうですよ」

「……はい」

 二人でしばらく黙った。

 広場の植え込みの花が、風に揺れた。

 季節外れの花が、それでも咲いていた。


「田村さん」

「はい」

「糸くず、今日もついてますよ」

 誠は「……また右肩か」と思って、右肩を見た。

 ついていた。

 どこから来るのかわからない、いつものやつだった。


 あかりが、立ち上がった。

 誠の右肩の前に、あかりの手が来た。

 細い指が、静かに糸くずをつまんだ。

 会社の前でそうしてくれた時と、同じ動作だった。

 でも今日は少し違った。

 あの朝は「行ってらっしゃい」で終わった。

 あかりが糸くずを払って、指先を見た。

「……私、怖いのは今も一緒なんですよ」と あかりが言った。

 立ったまま、誠を見ないで、指先を見ながら言った。

「……はい」

「本当に必要とされてるのかって、思ってしまう癖が、まだある」

「……はい」

「でも、田村さんは」

 あかりが言葉を止めた。


 誠は待った。

「……聞き流したことがないじゃないですか、私の話を」

 誠は何も言わなかった。

「一度も。私が何を言っても、ちゃんとそこに残ってた。それが、なんか」

 続きが来なかった。

 来なかったが、来なかった言葉の形が、誠にはわかる気がした。

 わかる気がする、というのは確信ではなかった。

 確信にならなくても、今日は踏み込んでみようと思った。

 踏み込まないことへの後悔を、これ以上増やしたくなかった。


「……村瀬さん」と誠は言った。

「はい」

「今、ここにいていいですか」

 あかりが誠を見た。

 誠もあかりを見た。

「……何ですか、それ」とあかりが言った。

「……うまく言えないので」

「もう少し具体的に言ってもらえますか」

「……村瀬さんの、そばにいていいですか」

 あかりが少し黙った。

 三秒か、四秒か。


「……断れない人が言うことですか、それ」

「……そうかもしれないです」

「許可を取りに来てるんですか」

「……取りに来てると思います、たぶん」

 あかりがまた少し黙った。


 今度は長かった。

 誠は待った。

 待ちながら、「これ以上うまく言えない、というのが正直なところで、うまく言えないことをあかりは知っているはずで、それでもここまで来た」と思った。


「……怖いけど」とあかりが言った。

「はい」

「怖いけど、まあ」

 続きが来なかった。

 来なかったが、今日のあかりの「まあ」は、佳代の「別に」に似ていた。

 短いほど本音に近い、という誠の仮説が、今日もまた当たっているとしたら。


「……まあ、の後は」と誠は言った。

「内緒です」とあかりが言い、前を向いた。


 歩き出した。

 駅の方に向かって、歩き出した。

 誠は一拍遅れて立ち上がり、後を追った。


 並んで歩いた。

 肩と肩の距離が、いつもより少しだけ近かった。

 近いと言っても、触れているわけではない。

 ただ、いつもより近かった。

 誠はそれを測ったわけではないが、わかった。


「コーヒー、教えてもらえますか、ちゃんと」とあかりが言った。

「……はい、いつでも」

「目分量で量るところから」

「……目分量は教えられないかも、感覚だから」

「じゃあその感覚を身につけるまで、何回でも付き合ってもらえますか」

 誠は「……うん」と言った。

「うん」と言ったことに、自分でも驚かなかった。

「はい」でも「わかりました」でもなく、「うん」だった。


 二人で歩いた。

 駅が近づいてきた。

 あかりが「田村さん」と言った。

「うん」

「お詳しいですね、って言われたら、何て答えますか。豆の店で」

「……二十三年、目分量でやってきました、って言った」

「それ言ったんですか」

「……言ったら、店員さんに『……そうですか』って言われた」

 あかりが笑った。

 今度は声に出る笑いだった。

 少し長い笑いだった。

 誠も笑った。

 声に出なかったが、確かに笑った。

 駅の改札が見えてきた。

 改札の前で、二人は止まった。

 誠と あかりの路線は、改札を通ると分かれる。

 いつもそうで、今日もそうだった。


「田村さん」

「うん」

「今日、ありがとうございました」

「……こちらこそ」

「……何がですか」

「……なんとなく」

 あかりが「なんとなく、か」と言い、少し笑った。

 声に出さない方の笑いだった。


「田村さん」

「うん」

「次は、コーヒーを淹れてもらえますか」

「……どこで?」

「どこかで」

 誠は「……わかりました」と言った。


 あかりが改札に向かって歩き出した。

「おやすみなさい」と言い、改札を通った。

 誠は「……おやすみなさい」と言い、その背中を見た。

 コートの右肩に、糸くずがついていた。

 誠は「あ」と思った。

 思ったが、あかりはもう改札の向こうだった。

 次に会う時に、取ればいい。

 誠はそう思った。

「次に会う時」があることを、今日は確かに、信じてよかった。


 帰り道、誠は豆の袋を持って歩いた。

 自分の分も買っていた。

 目分量でいつもと同じ量だったが、今日はなぜか少し多く買った。

 多く買った理由は、二人分ある方がいいかもしれないと思ったからだった。

 思ってから、「何を考えているんだ」と思った。

 思ったが、豆は返せないので、そのまま持って歩いた。


 夜の空気が冷たくなってきていた。

 誠は歩きながら、今日のことを頭の中で整理しようとした。

 整理しようとしたが、うまくできなかった。

 ただ、一つだけ確かなことがあった。

 今夜は、「考えないことにした」とは言わなかった。

 言わなかったし、これからも言わないつもりだった。


 豆の袋が、手の中で少し重かった。

 その重さが、今夜は悪くなかった。

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