第二十四話「営業支援部、初日」
異動というのは、誠の経験では二種類に分類される。
一つは「追い出される異動」で、もう一つは「必要とされての異動」だ。
見た目は同じで、辞令が出て荷物を持って別の部署に移る。
でも足の運び方が全然違う。
追い出される方は廊下が長く感じ、必要とされての方は廊下が短い。
今日の廊下は、どちらでもなかった。
短くも長くもなく、ただの廊下だった。
誠は段ボール箱を抱えて、営業支援部のフロアに向かった。
箱の中には二十三年分の引き出しの中身が入っていた。
ボールペン七本(うちインク切れが四本)、付箋三種類、正体不明の硬貨一枚、誰のものかわからないボタン一個。
それと、二十三年間使ってきたコーヒーのドリッパーと、フィルター一箱。
ドリッパーだけ持ってきたのは、意図したことではなかった。
段ボールに入れた時、自分でも気づかなかった。
後から「なんで入れたんだろう」と思ったが、「まあ、そういうものだろう」とも思った。
営業支援部は、五階だった。
今まで誠がいた営業部は三階だったから、二フロア上がった。
エレベーターで上がってみると、廊下の幅は同じで、リノリウムの床も同じで、蛍光灯も同じだった。
違うのは、顔だった。
全員知らない顔だった。
いや、正確には、廊下ですれ違ったことのある顔は何人かいた。
でも名前は知らないし、向こうも誠の名前を知らない。
白紙だった。
二十三年間で作ってきたものが、この瞬間に一度白紙に戻った。
誠は「……白紙か」と思った。
思ったが、「まあ、コーヒーから始めれば」とも思った。
我ながら、あまりにも一本調子だと思った。
でも他に始め方を知らなかった。
営業支援部の部長は、村上という五十代の男性だった。
「田村くん、よろしく」と言い、「乾さんから話は聞いてるよ」と言い、それだけだった。
簡潔な人だった。
誠は簡潔な人が好きだった。
必要なことだけ言われると、何を返せばいいかが明確で助かる。
席を案内されて、荷物を置いた。
段ボールを開けると、ドリッパーが出てきた。
「……持ってきてしまいました」と誠は独り言を言った。
隣の席の女性が「何ですか?」と聞いた。
三十代くらいで、栗田という名前だと後で知った。
「……コーヒーのドリッパーを、なんとなく持ってきてしまって」
「コーヒー、淹れるんですか?」
「……以前の部署でしていたので、つい」
栗田が「あ、じゃあ淹れてもらえると嬉しいです」と言った。
誠は「……あ、はい」と言った。
断れなかった。
二十三年間変わらない体質は、異動初日も健在だった。
問題は、営業支援部の給湯室にコーヒーメーカーしかなかったことだった。
しかも、最新機種だった。
誠は給湯室に入って、コーヒーメーカーを見た。
コーヒーメーカーは誠を見た。
どちらも無言だった。
見た目は流線型で、ボタンが七つあり、小さな液晶画面がついていた。
液晶には「ご使用前に水タンクをセットしてください」と表示されていた。
水タンクがどこにあるかが、わからなかった。
誠は機器の周りを一周した。
背面を確認した。
側面を確認した。
水タンクらしきものが見当たらなかった。
「……田村さん、どうかしましたか」
声がして振り返ると、栗田が立っていた。
「水タンクが」
「ここですよ」と栗田が言い、機器の右側のパネルをぱかっと開けた。
そこに水タンクが入っていた。
誠が三周しても見つけられなかったものが、栗田の一秒で出てきた。
「……二十三年間、ドリップ式しか使ってこなかったので」
「そうなんですか」と栗田が言い、特に驚いた様子もなかった。
誠は水タンクを取り出して、水を入れた。
水を入れて戻したら、次のボタンを押さなければならない。
ボタンが七つあった。
「……どれを押せばいいですか」
栗田が「これです」と言い、一番左のボタンを押した。
機器が動き始めた。
「全部やってもらった」と誠は思ったが、声には出さなかった。
コーヒーができるまでの三分間、誠は給湯室に立っていた。
機器が低い音を立てて動いている。
香りが出てきた。
コーヒーの香りはドリップ式でも機器式でも変わらなかった。
変わらないところがあることに、誠は少し安心した。
「田村さんって、営業部で毎日コーヒー淹れてたんですよね」と栗田が言った。
「……まあ、そうですね」
「有名ですよ、それ」
「……有名?」
「田村さんのコーヒーの話、うちの部にも伝わってて。乾さんも話してましたし」
誠は「……乾さんが?」と言った。
「なんか、交渉の前に田村さんのコーヒーを飲むと落ち着くって」
誠は「そうですか」と言った。
言いながら、乾がそんなことを言っていたのかという驚きと、乾らしいな、という感じが同時に来た。
「田村さん、今日も淹れてくれて、ありがとうございます」
「……いえ、こちらこそ、機械の使い方を教えてもらって」
「私は一ボタン押しただけですよ」
「……そうでしたね」
栗田が笑った。
誠も、少し笑った。
コーヒーができた。
十一人分だった。
今日出社している営業支援部の人数を、誠は朝のうちに気配で数えていた。
引っ越してきても、この習慣は変わらなかった。
一人ずつに届けて回った。
三階の時と同じだった。
知らない人の机にコーヒーを置いて、「どうも」と言われたり、うなずかれたり、気づかれなかったりした。
気づかれない割合が三階より少し多かった。
知らない人に置かれてもよくわからないから、仕方がなかった。
村上部長の分を置くと、部長が「ありがとう」と言った。
「ありがとう」だった。
「頼む」ではなく、「ありがとう」だった。
本庄部長は二十三年間「ありがとう」を一度も言わなかった。
村上部長は初日に言った。
同じ言葉でも重さが違う、と誠は思った。
重いのか軽いのか、どちらかはわからなかった。
ただ、悪い気はしなかった。
午後、誠は引き継ぎ資料を読んでいた。
営業支援部の業務は、誠が三階でやってきたことと、構造はほぼ同じだった。
取引先との定期連絡、社内会議の議事録、各種書類の管理。
「なんだ、同じじゃないか」という気持ちと、「これが部門として整備されたということか」という気持ちが、半々くらいであった。
資料を読みながら、誠はある取引先リストで手が止まった。
リストの中の一社に、見覚えのある会社名があった。
「……これ」と誠は独り言を言った。
「どうしました?」と栗田が言った。
今日だけで何回か声をかけてもらっていた。
「このリストの、中ほどにある会社なんですが」
「ああ、鳥飼商事ですか。長い間、連絡が取れていなくて困ってるんですよ」
「……この担当者の方、覚えてます」
「え?」
「乾部長の紹介で、二年前に一度だけ会ったことがあって。確か、連絡が取りにくいのは担当者の都合ではなくて、窓口の番号が変わったのに更新されていないだけだと言っていた気がします。 代表番号から内線で聞けばつながると思います」
栗田が「……本当ですか」と言い、すぐに電話をかけた。
三分後、「つながりました」と栗田が言った。
「……そうですか」と誠は言い、資料の続きを読んだ。
栗田が誠の方を見て、何か言いかけて、止まった。
止まってから、「田村さん、すごいですね」と言った。
「……たまたまです」
「たまたまで二年間の課題が解決するんですか」
「……乾部長から聞いていた話が、たまたま当てはまっただけで」
栗田が「それを覚えてることが、たまたまじゃないんですけど」と言った。
誠は「……そうですかね」と言い、また資料を読んだ。
定時を少し過ぎたころ、誠はデスクを片付けながら、三階に置いてきたものを考えた。
二十三年間の自分の席。
本庄部長の「悪くない」。
竹内の議事録。
給湯室で器具を洗う習慣。
あかりの席。
あかりの「行ってらっしゃい」。
あかりの「今日、いい顔してますね」。
あかりの「よかったですね」。
「聞き流せなかった話がある」ということを、誠は思い出した。
居酒屋で、レモンサワーを両手で持って、氷を見ていたあかりの顔を。
元カレに似ていると言われた夜のことを、三階の自分の席に置いてきた気がしていたが、五階に来ても、やはりついてきていた。
誠は鞄を持って、立ち上がった。
エレベーターのボタンを押しながら、今日初めて「あかりは今ごろ何をしているか」と考えた。
三階にいる。
ただそれだけのことなのに、三階と五階の距離が、今日は少し遠かった。
一階のロビーを出たところで、誠はスマートフォンを出した。
特に理由はなかった。
ただ出した。
LINEを開くと、あかりからの未読はなかった。
居酒屋の夜から、あかりとはまだ二言三言しか話していなかった。
仕事の話だけをして、それ以上のことを誠も言えていなかった。
「今日から五階になりました」と打ちかけて、消した。
「報告するようなことでもないか」と思った。
思って、でも何か送りたかった。
「ドリッパーを持ってきてしまいました」と打って、送った。
十五秒後に既読がついた。
二十秒後に返信が来た。
「意味わかりません」
誠は少し笑った。
居酒屋の夜と、同じ返信だった。
「桜餅、置いてきました」への「意味わかりません」と、今夜の「意味わかりません」が、頭の中で重なった。
同じ返信をもらっていることに、誠は今夜初めて気づいた。
気づいてから、どういう意味なのかを考えた。
考え始めて、電車に乗り遅れそうになって、走った。
電車の中で、誠はつり革を持ちながらまた考えた。
「意味わかりません」が、あかりの「全部受け取っています」の言い方なのか、本当に意味がわからないのか、どちらかは判断できなかった。
判断できないなら聞けばいい、とも思った。
聞いたら何かが変わるかもしれない、とも思った。
変わることへの怖さ、という感覚を誠は久しぶりに感じた。
怖さという言葉は誠の語彙にあまり出てこない言葉だったが、今夜は確かに、何かが変わる手前の感覚があった。
あかりが「怖かった」と言っていた。
怖さが何か、あの夜は理解できなかった気がしていた。
でも今夜の自分にはわかる気がした。
怖いのは、聞いてしまうことではなく、聞いた後に何かが取り返せなくなることだ。
電車が揺れた。
誠は目を閉じた。
閉じた目の裏に、居酒屋の薄暗い照明と、レモンサワーのグラスを両手で持ったあかりの顔が浮かんだ。
消えなかった。
誠は「……そういうことか」と、声に出さずに思った。
何が「そういうこと」なのかは、自分でもまだよくわからなかった。
ただ、今夜はそれ以上考えるのをやめなかった。
今まで「考えないことにした」と自分に言い訳していたことを、今夜は考え続けた。
電車が最寄り駅に近づいた。
誠は目を開けた。
窓の外に、見慣れた街並みが流れていた。




