第二十三話「佳代の言い訳」
夫婦というのは、長く一緒にいると、会話の総量が減っていく。
これは仲が悪くなったからではなく、言わなくてもわかることが増えるからだ、と誠は思っていた。
思っていたが、本当にそうなのかどうかは自信がなかった。
言わなくてもわかるのか、言わなくてもいいと思って省略しているだけなのか、あるいは言いたいことがなくなってきているのか。
その三つは似ているようで、全然違う。
佳代との会話が、この秋から少しずつ増えていた。
増えた、というのは誠の実感だ。
測ったわけではないし、佳代がそう感じているかどうかは確認していない。
ただ、以前よりも台所で言葉が続くことが増えた気がした。
その夜も、そういう夜だった。
颯太が塾に行って、家に二人になったのが七時すぎだった。
佳代が夕飯を作っていて、誠が新聞を読んでいた。
新聞といっても紙ではなくスマートフォンのアプリで、記事を読んでいるのか別のことを考えているのかよくわからない状態だった。
佳代が「そういえば」と言ったのは、誠がほぼアプリを閉じかけたころだった。
「そういえば、何?」
「あんた、入社したての頃、先輩にラーメン奢ったでしょ」
誠は「……ラーメン?」と言いながら、記憶の引き出しを開けた。
引き出しを開けた瞬間、「あ」と思った。
「……奢った」
「三回連続で」
「……覚えてるの」
「覚えてるよ」と佳代は言い、フライパンを揺らしながら「当たり前でしょ」と続けた。
誠はスマートフォンをテーブルに置いた。
「……なんでその話を」
「なんとなく思い出しただけ」
「なんとなく」という言い方が、佳代の「これ以上聞かないで」サインだということを、誠は二十三年間で学習していた。
学習していたが、今夜は少し粘ってみることにした。
「……なんとなく、というのは」
「なんとなくはなんとなくよ」
「……何かきっかけがあったんじゃないの」
佳代が「うるさいな」と言いながら、鍋の蓋を開けた。
湯気が上がった。
台所があたたかくなった。
しばらく、佳代は何も言わなかった。
誠も何も言わなかった。
鍋の音と、換気扇の音だけがしていた。
「……あの先輩、覚えてる?」と佳代が言った。
「……えーと、鈴木さん?」
「そう、鈴木さん。入社二年目の」
「覚えてる。なんか、よく奢らされてた」
「あんたが勝手に奢ってたんでしょ」
「……まあ、そうかもしれないけど」
「私、あの時たまたま近くにいたのよ」
「……え、何が?」
「ラーメン屋の前」と佳代が言った。
「一回目の時」
誠は「……そうだったっけ」と言った。
全く記憶になかった。
「あんた、鈴木さんに奢りながら、なんか困った顔してたのよ。嫌そうというか、でも断れなくて、かといって相手に気を使わせたくなくて、全部自分でなんとかしようとしてる感じの顔」
誠は「……そんな顔してたかな」と言った。
「してた。でも鈴木さんには全然悟られてなくて、鈴木さんはラーメン食べながら楽しそうに話してた」
「……うん」
「それを見て、なんかこの人って、と思った」
誠は「なんかこの人って、の続きが気になるんだけど」と言いたかったが、言えなかった。
佳代がフライパンの火を止めたのと、言いかけたのが同時だった。
夕食を食べながら、誠はさっきの話の続きを待っていた。
待っていたが、佳代は「ご飯おかわりする?」とか「颯太、今日何時に帰るって言ってたっけ」とか、別の話をしていた。
誠は「……さっきの話」と言いかけて、味噌汁を飲んだ。
飲んでから、「聞いてもいいですか、という作戦が颯太には効いたから、佳代にも」と思い、「……さっきの続き、聞いてもいいですか」と言った。
「さっきの続きって」
「ラーメン屋の話」
佳代がお茶を飲んだ。
飲んでから、「もう終わりよ、あの話」と言った。
「……終わり?」
「終わり」
「なんかこの人って、の後が気になるんだけど」
「別に、大した話じゃないんだけど」
「……そこが一番大事な気がするんだけど」
佳代が誠を見た。
見てから、また前を向いた。
「……断れない人って、たいてい優しいから」
それだけだった。
その後に何かが続くかと思ったが、続かなかった。
佳代はもうご飯を食べていた。
誠は「……それで結婚を決めたの?」と言った。
「そんな単純な話じゃないけど」
「でも、きっかけはそれ?」
「……きっかけの一つくらいには、なったかもしれない」
誠は何も言えなかった。
言えなかったが、箸が止まっていた。
止まっていることに気づいて、また動かした。
「……なんで今日、その話したの」と誠は言った。
「なんとなく、って言ったじゃない」
「……なんとなく、の理由が」
「しつこいな」と佳代が言った。
言い方は辛口だったが、声は普通だった。
怒っている声ではなかった。
少し間があった。
「……あんたが最近、ちょっと違うから」
「違う?」
「なんか、ちゃんとしてきた感じがして」
誠は「ちゃんとしてきた、の意味が少し難しいんだけど」と思いながら、声には出さなかった。
「……嬉しいの?」と誠は聞いた。
佳代が「べつに」と言った。
三回目の「別に」だった。
今回が一番短かった。
短いほど本当のことに近い、というのが、誠の二十三年間で得た仮説だった。
夕食が終わって、誠が洗い物をしていると、佳代が「そうそう」と言った。
「何?」
「あのラーメン屋さ、まだあるわよ」
「……え、本当に?」
「駅前のとこ。先週通ったら、まだのれん出てた」
誠は「……あそこ、俺の一番好きなラーメン屋だったんだよ」と言った。
佳代が「知ってる」と言った。
「知ってたの?」
「そりゃ知ってるよ。何度も行ったじゃない、二人で」
「……先輩に三回奢った時も、本当は自分が食べたかったやつだったのか」
「だからそう言ってるじゃない」
誠は「……なんか、あれだな」と言った。
「何がよ」
「二十年越しのツッコミをされた気分」
佳代が、笑った。
声に出す笑いだった。
短かったが、確かに笑った。
誠は洗い物の手を止めて振り返りそうになったが、止めた。
振り返ったら何か変わってしまう気がして、前を向いたまま洗い物を続けた。
「……今度、また行こうか」と誠は言った。
「二人で?」
「颯太も連れてっていいけど、まあ、最初は二人でもいいんじゃないかと思って」
佳代が少し間を置いた。
「……考えとく」と佳代は言った。
「考えとく」は、佳代の言葉の中では「たぶん行く」に近い方だということを、誠は知っていた。
夜、布団に入りながら、誠は今日の佳代の言葉を思い返していた。
「断れない人って、たいてい優しいから」。
あかりが似たようなことを言っていた、とふと思った。
元カレについて話していた時に、「断れないから、頼まれたことは全部やる」という言い方をしていた。
あかりにとってはそれが「怖かった」ことで、佳代にとってはそれが「きっかけ」だった。
同じ性質が、人によって全然違う受け取られ方をする。
それが何を意味するのかは、誠にはうまく言語化できなかった。
ただ、今夜の佳代の話は、聞き流せなかった。
聞き流せなかった、ということだけは確かだった。
隣で佳代が寝返りを打った。
誠は目を閉じた。
ラーメン屋に行こう、と思った。
今度こそ、自分の分も奢ってもらわずにちゃんと払おう、と思った。
思いながら、「そういう話じゃない」という気もした。
まあ、どちらでもいい。
とにかく行こう。




