第二十二話「颯太が、初めて話しかけてきた」
颯太の部屋のドアは、いつも閉まっている。
閉まっていること自体は、高校生の息子の部屋としてごく自然なことだと誠は思う。
開いていたら開いていたで、なんとなく落ち着かない。
ただ問題は、閉まったドアに対して、誠が声をかけるタイミングを二年以上つかめていないことだった。
ノックする理由がない。
用事があればノックできる。
「ご飯だよ」とか「電話だよ」とか「宅配が来たよ」とか。
でも用事なしに息子の部屋をノックして、「なんか話したくて」と言える気がしなかった。
言えない理由が何なのかも、よくわからなかった。
ただ、できなかった。
その晩、颯太の方からドアを開けた。
時刻は夜の十時を少し過ぎていた。
誠はリビングで翌日の会議の資料を確認していた。
来週の打ち合わせに向けて、乾から送られてきた資料を読み直す作業だった。
読んでいるうちに眠くなってきて、「もう寝ようか」と思ったところで、廊下に足音がした。
颯太だった。
制服から着替えたスウェット姿で、冷蔵庫を開けた。
麦茶を出して、コップに注いで、一気に飲んだ。
それからリビングを出ようとして、誠の存在に気づいた。
気づいたというより、資料を広げている誠をちらりと見た。
「……仕事?」
「うん、まあ」
「大変だね」
それだけ言い、颯太は出ていこうとした。
誠は「颯太」と呼んだ。
呼んでから、「あ、何を言うつもりだ」と思った。
呼んでしまったので何か言わなければならない。
二十三年間の体質が、息子に対しても発動した。
「……勉強、どう?」
我ながら、最悪の一言だった。
颯太が「……普通」と言った。
声に感情がなかった。
「普通」という返事は「それ以上聞かないで」という意味であることを、誠は高校生との会話経験ゼロで何故か直感的に知っていた。
「……そうか」と誠は言った。
颯太が出ていこうとした。
「颯太、もう一個だけ」
颯太が振り返った。
少し面倒くさそうな顔だった。
正直な顔だった。
「……なんか、話しかけてみたかっただけで、特に用事はない」
颯太が「……」という顔をした。
沈黙があった。
四秒か、五秒か。
「……なんだそれ」と颯太が言った。
「俺にも、よくわからん」
また沈黙があった。
今度は三秒くらいだった。
颯太が、ため息とも笑いともつかない息を出して、ソファの端に座った。
「何の資料?」と颯太が聞いた。
「……会社の」
「なんか色々あったんでしょ、最近」
「……お母さんから聞いた?」
「なんか、雰囲気で」
誠は「そうか」と言った。
颯太は雰囲気で察する人間なのか、と思った。
誠は雰囲気で察するのが得意ではなかった。
颯太がそれをどこで身につけたのかは、よくわからなかった。
「解決したの?」と颯太が聞いた。
「……解決、というか、まだ続いてるというか」
「うまくいってる感じ?」
「……どうかな。よくわからないけど、前よりはましな気がしてる」
「ふーん」
颯太がコップの麦茶を飲んだ。
飲みながら、少し考えている顔をした。
「お父さんって」と颯太が言った。
「うん」
「仕事向いてると思う?」
誠は少し驚いた。
驚いたが、顔には出さなかった。
出さないようにした。
「……向いてるかどうか、よくわからないな。二十三年間やってきたことはやってきたけど」
「でも続いてるじゃん」
「……続いてきた、という感じはある」
「それって向いてるってことじゃないの」
誠は「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」と言った。
颯太が「どっちだよ」という顔をした。
「颯太は、なんでそれ聞くの」
颯太が少し間を置いた。
「……俺さ、進路まだ決まってないんだよね」
「……うん」
「なんか、やりたいことがあるわけじゃなくて。でもやりたいことがないとダメな感じするじゃん、なんとなく」
「……うん」
「でもお父さんって、やりたくて今の仕事始めたわけじゃないよね、たぶん」
「……たぶん、そうだな。なんとなく入って、なんとなく続いてきた感じで」
「それでも続いてるじゃん」
誠はしばらく、颯太の横顔を見た。
颯太は誠の方を見ていなかった。
コップを両手で持って、テーブルの一点を見ていた。
その横顔が、誰かに似ていた。
似ていると気づいてから、誠は「……俺か」と思った。
颯太が、誠に似ていた。
コップを両手で持って、視線を落として、何かを考えている時の顔が、誠がよくやる顔だった。
知らなかった。
二十三年間同じ家にいて、気づかなかった。
「向いてないことを続けるのって、どうなの」と颯太が言った。
「……どういう意味で?」
「なんか、つらくないの」
誠は少し考えた。
「……向いてないのと、続けられないのは、たぶん別の話だと思う」
「どう違うの」
「向いてない、というのは他の人と比べた話で。続けられるかどうかは、自分の話で」
颯太が「……うん」と言った。
「俺はたぶん、向いてない部分がたくさんある。会議でよく失敗するし、書類も間違えるし、謝りに行くことも多い。でも続いてきたのは、なんでかはよくわからないけど、できないなりに何かがあったのかもしれない」
「何かって、何?」
「……聞くのは、得意だったかもしれない」
颯太が誠の方を向いた。
「聞くだけ?」
「……聞くだけ。でも二十三年間、それだけはずっとやってきた」
颯太が「そっか」と言った。
「そっか」という返事だった。
納得したのか、していないのか、判断がつかない「そっか」だった。
高校生の「そっか」は大人の「そうですか」より情報量が少ない。
でも聞いていたことはわかった。
「颯太」
「うん」
「やりたいことがないのは、たぶん今は普通だよ」
「……みんなそうなの?」
「全員かどうかはわからないけど、俺はそうだった。なんとなく入って、なんとなく続けて、続けているうちに何かが見えてくる感じで。見えてくる前に決めようとすると、しんどいかもしれない」
颯太が黙った。
誠も黙った。
リビングの時計が、かすかに音を立てた。
「……お父さんって」と颯太が言った。
「うん」
「世界で一番空気読めない人だと思ってたけど」
誠は「……うん」と言った。
そうだと思うから、否定できなかった。
「なんか今日は普通に話せた」
誠は何も言えなかった。
言えなかったが、何かが胸の中で動いた。
動いた場所が、今まで動いていなかった場所だった気がした。
「……シャンプー、俺のやつあるから」と颯太が立ち上がりながら言った。
「え」
「お父さん、いつも俺のシャンプー使うじゃん。新しいの買っといたから、使っていいよ」
誠は「……ありがとう」と言った。
颯太が「おやすみ」と言い、自分の部屋に戻っていった。
廊下の足音が遠くなって、ドアの閉まる音がした。
誠はリビングに一人で残った。
さっきまで広げていた資料が、テーブルの上にあった。
もう読む気にはなれなかった。
颯太の「なんか今日は普通に話せた」という一言が、耳の中に残っていた。
たったそれだけの言葉だった。
特別なことは何も言っていない。
褒めてもいないし、感謝してもいない。
ただ「普通に話せた」と言っただけだった。
でもそれが、誠には十分だった。
十分どころか、少し多いくらいだった。
誠は資料を閉じて、電気を消した。
寝室に向かいながら、「明日また話しかけてみよう」と思った。
今度は「勉強どう?」以外の一言を準備しよう、と思った。
思いながら、「でも結局また『勉強どう?』になるかもしれない」とも思った。
まあ、それはその時考えよう。
誠は歯を磨きながら、洗面台の鏡に映った自分の顔を見た。
悪くない顔だった。
本庄部長の「悪くない」とは、たぶん意味が違う。
でも今夜の誠には、その四文字がちょうどよかった。




